「えきゅぷろ!」はどう作られたのか? 実行委員カトリック代表がふりかえる、本音と葛藤


宗教改革500周年を迎えた2017年。教会が対立から対話への大きな足跡を残しつつある中、日本でもそれを象徴するイベントが数多く開催された。中でも「えきゅぷろ!」は次代の諸教派を担う青年たちが活躍したことで大いに注目された。当日の様子はすでにキリスト教各メディアで詳しく報道されている。

「えきゅぷろ!」は本年2018年も開催される見通しとなっており、その実行委員会でカトリック青年代表の黒須優理菜(くろす・ゆりな)さんに、イベントを振り返りつつ今後の展望について話を聞いた。これからのエキュメニカル運動、教会一致運動の姿と困難、やりがいについて考えたい。

 

 まず、「えきゅぷろ!」(エキュメニカルプロジェクト)について詳しく教えてください。

2017年8月19日にカトリック成城教会で開催された、超教派の青年によるイベントです。当日は120人以上の青年を様々な教派からお迎えしました。

えきゅぷろ!実行委員会・カトリック青年代表の黒須優理菜さん

そもそも、宗教改革500年の2017年、いろんな教派の青年が集まって活動しようということになったのですが、発端はルーテル教会の青年たちでした。私は2016年のヤンフェス(注1)にカトリックの青年として招かれました。そのときにルーテル教会の意志として2017年に向けてエキュメニズムの活動をしていきたいと聞かされ、カトリック側にその後持ち帰った際、学び合えたらいいよねという話になりました。私はそもそもプロテスタントのことはよく知りませんでしたし、存在や違いは知ってはいたけど対立しているイメージが先行して敢えて触れてこなかったんです。

それと同じ頃にカトリック清瀬教会で、カトリックとプロテスタントについての勉強会をしようという動きがあって、そこの青年から私に協力してほしいという話が来たんです。もし可能ならばということで。その話をルーテル教会の青年に繋いだところ、せっかくなら大きなイベントをやろうということになりました。

あんなに大きい大会になるとは夢にも思っていなかったですね。せいぜい交流イベントくらいかと。ちなみに日本基督教団の青年たちとの繋がりもヤンフェスが一つのきっかけでしたし、それ以前から交流してきた青年たちもいました。

 

注1:「ヤング・フェスティバル」 1977年に日本福音ルーテル教会市ヶ谷教会高校生会を中心に始まり、その後名称変更。2012年に市ヶ谷教会の宣教60周年を記念する形で復刻、2016年に行われた5回目のイベントでは他教派にも広く参加を呼びかけた。

 

それでイベントに向けて体制を整えて行ったわけですね。
当日のプログラムはずいぶん練りこまれていて、考え抜かれた内容でした。

私は礼拝とパンの分かち合いプログラムの担当チームでした。当初から礼拝は何かしらの形でしたかったんです。それをしないと意味がないですから。それに先生方のトークセッションを加えての二本立てにしていくことになりました。

礼拝のプログラムを作る段階はすごく大変でしたね。毎回ミーティングでは4~5時間ぶっ通しで議論しました。それでもまとまらなくて。

一番の問題は聖餐式、パンの扱いです。これをどうするか。三教派しかいないのに聖餐の頻度も意味合いもぜんぜん違うわけですし、私たちカトリックとしては譲れないところのものがあったんです。これはキリストの体である、という教義を否定したくなかった。どうして一緒に聖餐できないのかというと、実体変化によってパンではなくなるからです(注2)。キリストの体になります。ルーテル教会ではパンでもありキリストの体であるという共在説を採ります。日本基督教団からは象徴説という言葉を教えてもらいましたが、でも教団内部の教派によってさらにそれぞれの理解がある。

当日のグループディスカッションの様子(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

他教派の青年たちは、カトリックさえ良ければ礼拝の中で聖餐できるよねっていう立場だったのですが、同じものを食べていることにならないじゃないですか、それって。それでは意味がないと思ったんです。カトリックのミサの感謝の典礼でパンを分かち合うというのは神と人との繋がりとともに、教会の中の私たちが同じものにあずかるということに意味があると思うんです。同じものを食べていても違う理解で食べているとしたら、それは別のものを頂いていることになると思いました。それでは意味がなくなってしまうんです。私たちカトリックとしては、パンをご聖体、キリストの体ではないと考えるのには抵抗がありました。譲れませんよね。

それで礼拝の中では聖餐はしない方向が決まりました。世界的な大きな合同礼拝でやってないものを青年だけで決めてできるわけがありません。やってしまって教義的に大丈夫なのかも判断できないし。それで礼拝と分けたんです。

 

注2:「実体変化」 聖変化、化体説とも。主の晩餐の制定句(1コリント11章23~25節、ルカ22章14~20節、マタイ26章26~29節、マルコ14章22~25節)に基づいて、キリスト者は古代から、祭儀で拝領されるものはイエスの体と血であると確信してきた。その神学的説明は早くから哲学用語を用いて行われ、「実体」が変化するという表現は5世紀後半から現れる。12世紀から教会公文書にも用いられ、トマス・アクィナスによってアリストテレス哲学の用語で補強された。宗教改革者たちは思弁的に過ぎるとしてこれを退け新たな聖餐論を展開したが、カトリック教会はトリエント公会議で「パンとぶどう酒の聖別の後、キリストが真に、現実に、実体的に (substantialiter) パンとぶどう酒の形色 (species) のもとにあり」、「聖別によってパンの実体がことごとくキリストの体の実体に変化し、ぶどう酒の実体がことごとくその血の実体に変化する」と宣言し、実体変化説の路線を確認。パンとぶどう酒の究極的な現実は、人間にご自身をお与えになるキリストご自身であるということが表明されている。

 

そういったこだわりがイベントそのものを一段と深めたと思います。

使徒言行録(2章46~47節)にある通りですが、同じ場所で同じ食卓を囲んで祈るというのは教会の原点だから、せめてそれはしたいよねって話し合いを続けました。

教会の原点に立ち戻りたい。そこでは教派になんか分かれてないし、もちろん「キリスト教」が確立していたかという別の問題はありますけど、やっぱり一緒に食卓を囲んで祈るという原点に立ち戻るということで、種無しパンを焼いて、礼拝の外で、一緒に食べるという企画になりました。

逆に、礼拝の中で同じものを食べることにこだわるなら、パン以外なら何を食べても抵触しないんじゃないかって意見もあったくらいです。疲れてましたね。そうしてようやく礼拝の外でならみんなでパン食べれるじゃんって気付いたんです。

そのような話し合いがあったからこそ、お互いがパンや聖餐式をどう考えているのか、知る機会になったのだと思います。

「えきゅぷろ!」の収穫は、お互いの違いがわかったことです。何が違って対立していたのか。500年間、私たちの間で壁になっていたのは何だったのか。その壁そのものを知ることができました。それがあっても、結局最終的に同じものを信じていたんだってことにたどり着けたかなって。教義の統一は青年の仕事ではないかもしれませんが、私たちが信じてるのは同じキリストです。そこへの道が違うだけなんだろうなって思った。全部を一致させるというよりは、協働することができるというのが私たちにとっての答えです。教義的にどっちかにそろえることも将来的にはありえるのかもわかりませんけど、青年の段階では、やり方は違っても同じ方向を向いているんだ、ということを再確認することにすごく価値があるんじゃないかと思っています。

 

当日までこぎつけるのは大変だったことと思います。

実は私はあんまり(笑)。むしろいろんな人たちと連絡を取り合っていたメインの方々は大変だったと思います。代表は走り回っていましたし。青年だけではできなかったことです。チームプレーでやれたことはもちろんですが、先生方(カトリック:福島一基神父、シスター原敬子、日本福音ルーテル教会:浅野直樹牧師、日本基督教団:堀川樹牧師)が協力的だったのが大きいですね。パンフレットの宗教改革についての説明とか。これ作るの、めちゃくちゃ大変だったんですよ。私は上智で習ったことしか知らなかったから。作った文章を半分削られました。カトリックの人が書いたと丸わかりになるので、たとえ事実として合っていたとしても、視点が変われば別の見え方になるし、反発も出るかもしれません。それでルーテル教会の浅野直樹先生にご同席頂いて、書きながら校閲して頂きました。トークセッションでご登壇頂いたシスター原先生(上智大学神学部助教)にもご覧頂いたんですけど、シスターからは、全面的に向こうに合わせろということでした。逆にそこでカトリックが譲れないとか言ったら「えきゅぷろ!」が台無しになっちゃうし。お互いが歩み寄るためにはそれが本当に重要かなって。

当日の様子(写真提供:エキュメニカルプロジェクト実行委員会)

宗教改革についての説明をはじめ、合同礼拝の式次第もそうなんですが、どこの教派にも寄りすぎていないんです。それで批判的な感想はほとんどなかったですね。すごく良かったとみなさん言って下さいました。

礼拝の話に戻りますが、3つの教派のスタイルから引っ張って作り上げたんです。日本基督教団の「証し」、礼拝を挟む前奏と後奏、聖書朗読があって祈って歌ってを繰り返すスタイルや、さらに全体のバランスに合わせてそれを3回に収めようとか、信仰宣言はルーテル教会に合わせるとか、主の祈りはカトリックと聖公会が使ってるものに合わせようとか。

聖歌の選曲もその姿勢で貫いています。今回の実行委員会の三教派からバランスよく採用しています。

それで、どの教派の人にとってもパンフレットを見ないとわからないものに仕上がりました。それが公平でよかったかなって思います。カトリックからは共同祈願を「教会の祈り」として取り入れてもらえました。そしたら他の教派のみんなが「カトリックに合わせて祈りは短くしよう」って。

お互いにすり合わせた結果ですね。

 

すり合わせるというより、お互いに高めあって、新しい合同礼拝のスタイルが出来たのではないでしょうか。

今後は、もっと他の教派にも入ってもらって豊かにしていきたいですね。

しかし、そもそもルーテル教会とカトリックが元々すごく近いから出来たことなのもかもしれません。それに日本基督教団も理解のある人たちが関わってくれていたんです。来年度は、聖公会やもっといろいろな教派、たくさんの方と交わる機会にできたらと思います。

つづく

聞き手(文責):石原良明(webマガジンAMOR編集部)


「えきゅぷろ!」はどう作られたのか? 実行委員カトリック代表がふりかえる、本音と葛藤” への1件のフィードバック

  1. 聖書は一つ。Jesus様はお一人。しかし、ルーテル神父様がCatholicの悪い点を指摘され、プロテストされてから早500年。教義を始め、いろんな点で文化の違いが出て来た物と思います。若い人達が主人公になって、その違いを明らかにした業績は、高く・評価できるのではないかと、私は感じています。ともすると、司祭(神父)や牧師さんが中心になって、上からエキュメニズムを行う事例が多い。この点でも、くさる事なく・躓きを隠さず、青年たちに実行させ、大人たちは側面支援に徹した事が、成功に繋がったものと、考えます。

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