エンドレス・えんどう 12


服部 剛(詩人)

遠藤文学について時々語らう年上の友とバーへ行き、カウンターで『深い河』についての話になりました。

文学に造詣の深い彼は、グラスを傾けながら少し眉間にシワを寄せて、「なぜ遠藤さんは晩年になってインドに赴き、仏教的な世界観を書くに至ったのだろうか?」と、僕に問いかけました。クリスチャンではない彼にカトリック信仰を押しつけたくはないと思う一方、彼が「遠藤さんは最終的に浄土宗のことを書いた」と結論的に述べるので、僕は小さな疑問を感じていました。

僕は彼に反論するでもなく、彼と僕の間にあるものを探るように本音を静かに語りました。「もし、クリスチャンの僕が<キリスト教のみが正しい>と言ったら、それはナンセンスだと思います。人間は得てしてカテゴライズしたがりますが、遠藤さんは宗教について、すべての人間にとっての<カテゴリーを越えた世界>を探しに、インドへの旅に出たのでは、と思うのです」

空のグラスをカウンターに置くと、彼は「そう言われると、何も返せないなぁ…」と、ため息をつきました。しばし沈黙の間、遠藤の同志である井上洋治神父と生前に数回、お会いした時の面影が、ふと僕の心に浮かびました。その時、井上神父が穏やかに語られたメッセージを思い出し、僕は彼に伝えました。「すべての人にとって山の上の空は、一つです」――目を閉じて、深く頷く彼の横顔を見ると、在りし日の遠藤の真意が少し、届いた気がしました。

遠藤は『深い河』の主人公・大津に井上神父を投影しています。そして、大津の手紙には、遠藤と井上神父が生涯探究した<信仰の本音>が込められています。若き日に大津を棄てた美津子が自らを<愛の火種のない女>と思っていることについて、大津は手紙の中で次のように記します。

玉ねぎ(神)は成瀬(美津子)さんのなかに、成瀬さんのそばにいるんです。成瀬さんの苦しみも孤独も理解できるのは玉ねぎだけです。あの方はいつか、あなたをもう一つの世界へ連れていかれるでしょう。それが何時なのか、どういう方法では、どういう形でかは、ぼくたちにはわかりませんけれども。玉ねぎは何でも活用するのです。(*1)

* * *

『深い河』の登場人物たちが導かれてゆくように、目に見えない<玉ねぎ>は僕たち一人ひとりに今日もかかわろうとしているのかもしれません。それぞれの日々が他の誰でもない、その人独自の道となってゆくように。

 

*1 『深い河』遠藤周作(講談社)より引用、括弧内は筆者注。

 


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