神さまの絵の具箱 27


末森英機(ミュージシャン)

疵(きず)のない善。それを言うのは、滅びることのない悪である。その言葉をあらわすのは、イエスが、足の骨を折らずに、殺された、というしるしである。砕かれる者と、砕く者がいる。そして、にもかかわらず、その骨は、ひとつも砕かれないと聖書に3回も出てくる。その道しるべ的な、しるしを、3回も受け取っているのに。人間には、やがて、悪魔に都合のよい時間だけが、訪れるようになる。欲望過多症に苛まれる全世界。かなうということは、疵のない善を自己実現することだから。ならば、かなうということは、ありえないのか? 神理の言葉も、根を張らなければ、実りは幻。慈悲にのみ、満たされようとする人間の体には、罪だけが、宿り続ける。悪いことが、起きたときには、その不運を当然のことと思わず、嘆き苦しむ。汝の敵を、愛せよ! おまえの愛で、相手がうんざりするほど、愛してやればいい! 愛はどこを取っても喜び! 愛し愛されすぎて、地上に天敵がいなくなってしまったら、悪はどうなる? 愛を閉じ込める閂(かんぬき)が、枷(かせ)があるものか? あなたはほんとうに、隣人(となりびと)の塩と薄粥(うすがゆ)になれるのか。人間は、知れば知るほど、無知であることを知るようになったことに、感謝しなければならないことを、いつかしら悟る。いつ? あのとき、創り主の呼びかけに。裸の姿を、隠そうとしたのは、無知のなせる業で、あったろうか。善と悪を、語ることこそ、浅ましい生まれを生む。わずかな塩と、澄んだ水のような粥を、隣人からいただくとき、きっと「その骨は、ひとつも砕かれない」(ヨハネ19:33)。『神は誰の行ないが優れているか見るために、生死を創った』(コーラン第67:2)。
*その骨はひとつも砕かれない(出エジプト12:46、民数記9:12、詩篇34:20)


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