末森英機(ミュージシャン)
「今は、鏡に映して見るようにおぼろに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて見るだろう」(コリントⅠかみさま13:12)
語るに、まことにふさわしいこと。わき腹の傷口に、手をいれるまでもない。
主を、間近に見られたなら。主に対して、生きることは、生つまり命に対して、生きることだから。主の体に、触れる。主への愛に、心を結ばれる。主の香りを、感官は味わう。ともに語る、機会を得る。すべての涙は、主の頬に戯れる。おさなごのように、膝枕で、髪をなでられる、まぶたに、くちずけされる。
さらに、主とともに、眠り、憩い、集う。主とともに座り、休む。きっと、食事も摂る。そうなれば、心とからだのすべてを、尽くして主にささげることを、もっと学べる。なにも、囁き合うこともせずに、サマリアの女のときのように、見つめ見つめ合う。風のひとかけらのような、気息(いき)を、唇に受けて。心で、生を追いながら、生で主の心を追おうとする。
主の毛髪、大地の髪。愛ゆえに流れよう、こぼれようとする涙を、こらえきれない。太陽のまつ毛、月の光のまぶた。なぜ、ひとが、互いに、責め合い、攻め合い、戦いばかりを好み、競り合って、盗っ人になったのか? 主への愛に、むすばれたい! 贈り物を、手渡したい! 主の耳で、なにかを、聞こうとする。主の音に、心を、没頭したい。
立ち昇る、犠牲の煙は、ますます、穢れ。だれもが、じぶん以外の生き物の、流す涙を見ようとしない。主のまなざしは、魂のなかに光り。重荷を和らげるためだけに、降誕された。
主に奪ったもの。主から、力ずくで、奪ったものを、返したい。生ける死! 「わたし」と「わたしのもの」を放棄したい。主の姿を、見たなら、わたしたちの目は、無上の喜びを味わう。心を喜びで、満たしまでした、あの蜘蛛の巣のように薄い、マナのように。わたしたちの表情(かんばせ)は、きっと、主の心を、魅了するだろう。