末森英機(ミュージシャン)
「あなたは、どこにおられるのですか?」「あなたは、何をしていらっしゃるのですか?」「あなたは、なぜ黙ったままで、おられるのですか?」。あなたたちが、思いどおりにならなかったとき、思いもよらないことが起きたり、とんでもない不幸に見舞われたりすると、必ず神さまに、ぶつける言葉。しかし、当の神さまは、最初の人間から、そのままこの3つの問いを、あの、裁判所にしつこく通い、裁きをくだしてくれと、やかましく裁判所の扉をたたきつづけたやもめのように、注いでいる。「あなたたちは、どこにいるのか?」「あなたたちは、何をしているのか?」「あなたたちは、なぜ黙ったままでいるのか?」。柴の火は、燃えているのに、燃え尽きない。そこに、何があろうと、燃えつづける火。神はその火のように、在る。それが、あなたたちに対する問いであり答えでもある、ということを、旧約の世界で体に刻んだはずだった。「なぜ、なぜ、なぜ?」。退屈な罪も、退屈な疑いも、ここからスタートしている。神さまは、もう何も答えずに、ただほほえむだけの、スフィンクスのようだ。そのまなざしは、水を器にさしあげる、サマリアの女を、見つめるイエスさまのそれだ。そのまなざしを、聞くために、あのとき神は「エッタファ」、聞く耳のある者は聞きなさい、とおっしゃった。神がだんまりをして、人間に意地悪をしているわけではない。どれだけ、人間が神に、だんまりを決め込んできたか?あなたたちは、神の〝できごと〟ではないか?「罪の増したところには、恵みはいっそう、満ちあふれました」(ローマ5:20)。その沈黙こそ、神の調べ、神の耳の中から、流れる音楽。少年ダビデは初めてギターを手に、それを、未来のために、爪弾く。