末森英機(ミュージシャン)
両方の目から、涙があふれるのは、もう十二分に人が、地球の重荷になったということだろう。家族や友人、愛する人の死に、バケツいっぱいに、あふれるほどの涙をしても、イエスさまのために、スプーンひと匙ぶんの、涙するものがどれくらい、この世にいることだろう。あの泣くマリアさまの像も、片方の目から、涙していたっけ。けっして、両方の目から、涙していたわけではなかった。
涙にぬれた左の目を見て、右の目は、じつは同じ涙でいっぱいになった。あなたやきみを通して、神さまが悲しめと、本気でおっしゃるので、左の目は、涙にあふれた。けれど、神さまについてゆきます、とこころしたならば、希(ねが)うならば、神さまに苦しみなさい、哀れみなさいと、うながされようと、右の目が涙であふれることはない。
左の目が、とてもかわいそうになるので。そのことが、理解できても、まぶたは、まつげとその涙を、せきとめるから、のどにこみあげる、そして、つまる。スッと、かすかに、そう流れずに流れる、ホーキ星の光のしっぽのように光るだけだ。涙はうつくしい。人は、醜(みにく)く、美しいわけがある。それは「だれもが、ひとりで生まれ、ひとりで続け、ひとりで死ぬから……」。そこには、だれもいない。いることはできない。では、歌い、踊るこのマニラの広大な、ガベージ・エリアのスラムに捨てられている子どもたちは何なのか? 炎が燃えていると、人はなぜ、いのちを思うのか?東の空、西の空とたわむれる雲や鳥たちに、 眠りと目覚めがあると、どうして思うのか?
死と生が、眠りと目覚めのように、陰と陽のように。出会うのだ。「あなた」は「わたし」というように。「あなた」と「わたし」ではなく、「あなた」に「わたし」だ。ゴミの山に棄(す)てられた障害をもった子どもたちの「あなた」、それをほほえみながら抱きすくめて、拾って持ち帰るブラザーたちの「わたし」。殺されかけた子どもたち、見殺しにしようとしたおとなたち、ではない。世紀のゴミの山、かつての、スモーキー・マウンテンで、小さな小さな、一瞥(いちべつ)が起きる。「あなた」は「わたし」という。そこには、二者(プロティノス)はない。
生まれ落ちたそのとき、その瞬間から、死のもとへ、巡礼の旅は始まる。一瞬一瞬が、誕生と死だ。それがすべて。生と存在が、人が許してもらった事実。深い安らぎに満ちる。永遠の安らぎに、まったき、休息のなかに。見つめるこのふたつの目が、知っている。人そのものが、安らぎになることを。
ブラザーたちが、いとうものはなにもない。恋人たちが、お互いのなかに、死ぬことができるように、貧しく生きる、スラムのひとびとと暮らしている。
試される、という言葉がある。ブラザーたちに、この言葉はとても、不向きだ。神は体験されなければならない。ブラザーたちは、この子どもたちになる、そんなユメさえ見る。それを、笑顔の光で包んで、胸に思いつづける。ならば、朝になって眠り、救われた子どもたちも、ブラザーになる夢を見るだろう。ふたつの目が、それを訴える。涙は、ひとつぶであろうと、方舟を、アララトの頂に押し運ぶ、力があることを、すでに子どもは知っているのだ。
神父・ダニエーレが、ついに修道士・フランチェスコ修道士になった。抱きしめたい。かれはこれからも、子どもたちといっしょ、いともかんたんに、神のこころをとかして、しまうだろう。いっさいのものが一となる日よ!!