イエスのことばと福音書の「語り」
答五郎 ……今回は「ことばの典礼」の5回目。前回はミサの中で聖書を朗読する意味をさらに考えて、聖書そのものの根っこに神の「呼びかけ」があるからではないか、ということを考えてみた。
瑠太郎 ……はい。それは、聖書に対する一つの大切な見方だとは思いました。それだから聖書が朗読されるのだということもある程度は納得できます。朗読は、今の信者たちに神のことばの力を生き生きと感じさせることができますからね。
答五郎 ……朗読者には、そんな力を感じさせる役目があるということでもあるのだがね。
聖子 ……でも、読まれる聖書には、いつも神(主)のことばや、イエスのことばだけではないわね。
瑠太郎 ……ええ、福音書でも、旧約聖書でも、何かの出来事を物語る部分が朗読されることも多いと思います。僕は、そんな出来事を語る部分が、どのようにして、神のことばといえるか、神の呼びかけといえるかがまだ少し疑問なのです。
聖子 ……具体的に、たとえば?
答五郎 ……そうだね。今年の7月の日曜日に読まれる福音朗読の箇所は、わりとイエスの教えのことばがほとんどなのだ。イエスの弟子たちへの呼びかけを、朗読をとおして今の信者たちが聞くという構えになっている。たとえば、『聖書と典礼』で、2017年7月16日「年間第15主日A年」の短い福音朗読のところを見てごらん(マタイ13・24-30)。
聖子 ……本当。「〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。」とたった一行が語りで、あとはずっとイエスのことばだわ!
答五郎 ……マタイやマルコやヨハネでは、こうやって、語り手がほんの添え役的にしか出てこないところも多いよ。でも、少し先になるけれど、2017年8月13日にあたる「年間第19主日A年」の朗読は語りが多いよ(マタイ14・22-33)。弟子たちが乗った舟が、湖上で逆風に悩まされているとき、イエスが湖の上を歩いて弟子たちのところを行ったという話。弟子たちが「幽霊だ」と言っておびえて叫ぶと、イエスは「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」と話しかけた、というのだ。
聖子 ……面白いわね。ドラマティックだわ。
答五郎 ……イエスはこうした、弟子たちはこうした、ペトロがどうした、というみんなの動きが、この福音書の語り手マタイによって物語られているという趣がよく出てくる。
瑠太郎 ……この話は、マルコ6・45-52、ヨハネ6・15-21 にもあります。比べてみると、三つに共通なイエスのことばがあります。「わたしだ、恐れることはない」です。想像ですけれど、このような語りが多い部分でも、その核心には、イエスの弟子たちへの呼びかけ、語りかけのことばがあって、その文脈を説明するように物語ができているのではないでしょうか。
答五郎 ……それについては聖書学に尋ねなくてはね。もしそうなら、やはりこの物語を朗読することで、イエスのことばをより生き生きと受けとめられるようにしてくれているということだろう。
瑠太郎 ……福音書が朗読される意味、イエスのことばを現在のことばとして信者たちに伝えるという意味は、このような語りの部分にもあるといえることになるのですね。
聖子 ……どっちにしても、福音書は朗読される意味があるということかしら。
答五郎 ……そう思ってくれたら幸いだ。すると、福音書の語り手の存在の重要性が感じられてくるだろう。よ。福音記者マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネというふうに教会で伝えられている人たちだ。その実体はどうであれ、今朗読される本文を前提としてみたら、みんな「語り手」だね。
瑠太郎 ……イエス・キリストの生涯と教えについて、似ていつつも四つの書物があるということは不思議なことだと言われています。同じところ、似ているところ、少しずつ違うところなど、比較対照させる面白さを今、勉強しているところです。
聖子 ……面白いのかしら? そんなのがあれば、どれが本当なのかと、わたしは思ってしまうわ。
答五郎 ……たとえば、さっきのイエスが湖の上を歩く話。マタイ、マルコ、ヨハネにあって、展開はほとんど同じようなのだけれど、マタイだけにある話もある(マタイ6・28-32)。ペトロが、イエスの「来なさい」ということばにこたえて、舟を降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んでいった。そのとき、強い風に気がついて怖くなって、沈みかけたところ、イエスに助けられ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われるというくだりだ。
聖子 ……いったい、ペトロはなにをやっているのかしら!?
答五郎 ……そうやって、話の中に入っていくだろう。そうするといろいろなことが考えられてくるものだ。そんなねらいも感じられるエピソードなのだが、いずれにしても、最初のころの教会のある系統で、この場面でのイエスのことばや出来事のあらましが共通のこととして伝えられていたのだろうね。初めは口伝だったかもしれないけれど、やがて書き留められ、まとめられていったのだろうね。やはりイエス自身のことばのインパクトは大きかったと思うよ。最後のまとめ方には、語り手の個性も反映されたのだろうね。そのあたりのところはこのサイトの「聖書を100倍楽しむ」でも考えていってほしいな。
瑠太郎 ……どれが最初の伝承で、また本当の出来事がどうだったか、それが4人の語り手によって、どうまとめられていっているのか、分析するのと、同時に全体を見ることが大事なような気がします。
典礼はつねに総合する観点を問いかけてくれているようですね。
答五郎 ……そうだね。総合の最後には「教会」というものがあることを忘れないでほしいよ。教会が認めてきた福音書という意味でね。いずれにしても、教会では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四人の福音記者のことは、とても尊敬されていて、中世の聖書写本画ではよく4人の肖像画が書かれたり、4つのシンボル(人、ライオン、雄牛、鷲)で表現されたりしていたのだ。現代も、ミサの中でそれぞれの福音書が豊かに朗読されることになったことから、4人の存在は新たにクローズアップされているといえるね。
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)