デイヴィッド・アルヴァレス著『ヴァティカンのスパイ・ナポレオンからホロコーストまでの諜報活動と陰謀』


教皇のもつ国際政治における働き、影響力、存在感は、カトリック系のメディア以外でも注目の的であることは周知であろう。その外交に不可欠な教皇庁の情報活動を主題とする本書。近代史の知られざる一面に光を投げかけている:

デイヴィッド・アルヴァレス著『ヴァティカンのスパイ・ナポレオンからホロコーストまでの諜報活動と陰謀』 
David Alvarez, Spies in the Vatican: Espionage and Intrigue from Napoleon to the Holocaust (University Press of Kansas, 2002), 341 pages

本書は本題と副題ともに刺激的であり、メディアで騒がれるような類のものとの先入観を呼び起こしかねない。だが、これは大学出版局から出た研究書であり、外交史の分野に属し、その中での情報活動の歴史を取り扱っている。しかも、それは同時に近代教皇史になっている。本書の内容はヴァティカンの奥でのスパイの暗躍あるいは内部の暴露記事ではなく、あくまでも外交戦略を補助するものとしての情報収集活動である。この時期、諜報活動は国の外交政策決定をも左右していたのである。

本書は各国のスパイがヴァティカンの内部情報、特に自国に対する政策に関するものを入手しようとした活動とともに、各国の宗教政策の情報を入手する活動を取り扱っている。「ヴァティカン」の内部その推移の叙述は、ナポレオンが台頭したピウス7世の治世から始まり、第2次大戦中のピウス12世の時代に及んでいる。この間、10人の教皇が在位し、教皇庁はしだいに近代的機構を整備していった。

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著者はヴァティカン文書館を中心に数年にわたって調査を行ったという。そして第1次大戦から第2次大戦への時期に諜報活動が国家戦略と外交政策においてますます重要となった経緯、そしてこの世界最古の国際的組織がどのような列強の諜報活動の対象となり、自らも情報収集を組織的に行うようになっていったかを探っている。

列強がヴァティカンに対して諜報活動を行って得ようとしたものは、ヴァティカンそのものについてばかりでなく、ヴァティカンに集まってくると思われた他の列強の情報であった。その限りでは、世界の情報が集まる場所としてヴァティカンが他の場所で得られない情報をもっているという「神話」が出来上がり、過大評価されるようになったことである。

本書はそのような神話にあまり根拠がないことを示すようである。ヴァティカンに寄せられた情報は多くの場合、各国駐在の教皇使節(大使)から寄せられたものであり、政府関係者との個人的接触によって得られたものであったが、彼らは聖職者としての関心と特有な心理の枠組みを通して報告していたからである。確かに、ヴァティカンに寄せられた修道会や個人からの情報もあったが、それらはほとんど各地の教会内の問題に関するものであった。さらに、教皇庁国務省における情報処理の効率性が高まったのも列強に比べればはるかに遅かった。

20世紀、ヴァティカンは暗号システムの遅れにつねに不安を抱いていた。特にドイツのナチス政権時代、外交官特権で守られるべき、封印された外交郵便袋は、途中で傍受されることがつねに危惧されていた。そこで、ヨーロッパ大陸の国へのものは信頼できる第三国の外交郵便袋に入れて送られるか、あるいはヴァティカン職員の聖職者に運ばせていた。その成功例でもっとも有名なのは、ナチス政権の政教条約違反を非難し、ナチズムを弾劾したピウス11世の回勅『ミット・ブレンネンダー・ゾルゲ』(「燃えさかる憂慮をもって」1937年)がナチスの保安網をくぐり抜けてドイツ国内に運ばれ、秘密が漏洩することなく各教会に配布され、枝の日曜日に、劇的に説教台から読み上げられた事件であった。多くの主任司祭はこの文書を当日の朝受け取ったのである。

ヴァティカンにとってもう一つ重要な課題は、ロシア革命後のソヴィエト政権の反宗教政策下でのカトリック教会の運命であった。それはいかにしてカトリック教会を地下で存続させることができるかの問題であった。寄せられる情報は少なく、断片的であった。著者は次のような事件を伝える。フランス政府の協力を得てピウス11世が1926年にフランス人イエズス会司祭デルビンユをベルリンで教皇大使によって司教に叙階させて派遣し、彼はモスクワの教会で数人の信徒の前で早朝ミサを行った。その後、参列者の一人で、田舎から出てきたように見える農民(実は革命後まで取り残されたフランス人司祭)を香部屋に呼び入れ、驚く彼を2人の証人の前で、略式で司教に叙階し、地下で教会が続くようにしたというものである。

枢軸国側ばかりでなく、英仏側もヴァティカンの動きを正確にいち早く知ろうとして躍起になっていた。教皇は「ヴァティカンの囚人」といわれたが、それは主権が及ぶ領土がローマ市によって取り囲まれていたからである。そのことは1929年にムッソリーニのイタリアと政教条約が結ばれても、ヴァティカン市国が外国から包囲された状態に置かれていわば孤立状態であり、各国へ派遣した教皇大使の公式報告、その他の関係者・信者の非公式報告と各国のヴァティカン大使館から得られる情報に頼り続けていた。おまけに、国務省はつねに人員不足であり、第1次大戦前には12人にも満たない状態だった。第2次大戦中のピーク時でさえもローマの人と外国人を合わせて100人ぐらいのもので、1人がいくつかの専門部署を兼任していた。第2次大戦中の孤立状態の中でヴァティカンの情報収集活動がまがりなりにも組織的であることができたのは、要員の献身的働きに加えて、ピウス12世が任命した2人の次官タルディーニ(1888〜1961)とモンティーニ(1897〜1978. 後の教皇パウルス6世)の貢献である。気性の激しいタルディーニに比べて、モッティーニは統率力があった。

著者によれば、ヴァティカンでは、秘書仕事を除いて外交要員が聖職者であり、その志気と職業意識が高かったために、国務省の秘密ファイルに幾度も接触を執拗に試みた枢軸側の諜報員の活動は失敗に終わった。事実、ナチス政権は多くの場合、元司祭という不審な人物を使ってヴァティカン職員から秘密情報を入手しようとしたが、成功しなかった。ヴァティカン市国を取り囲んだムソリーニのファシスト政権の要員も同じイタリア人であったから、ヴァティカン市国周辺でその職員が通っていたコーヒーショップでの会話、高位聖職者が加わった社交サロン等でのうわさ話からしか情報を得ることができなかった。ヴァティカンの近所に諜報拠点を構えたナチス・ドイツは、現地の新聞とイタリア政府が得た間接的なものをヴァティカンの情報としては本国に送っていた。

他方、事実としてヴァティカンが孤立状態の中で得ていた、壁の外の世界の情報はあまりにも少なかった。この問題は、ヴァティカンがどの程度ナチス政権下のドイツとオーストリアでユダヤ人虐殺の全貌の情報を得ていたかにかかわってくる。近年、ピウス12世の責任問題でやかましく議論され、幾冊もの書物が出版されている。その多くが、没後20年余り称賛されてきたこの教皇が、すべての情報を得ながら沈黙を守り、ユダヤ人を見殺しにしたとして責任を追及するものである。さらに、イタリアの反ナチス活動家が居室の窓から見えるところで処刑されても、「ドイツびいき」であった教皇がナチスを非難する言葉を一言も発しなかったことまで追及するものもある。

この点に関して著者は、ヴァティカンが最初の段階で情報を得て各国政府に警告したが、アウシュヴィツや他所での“ホロコースト”については情報を得ていなかったとしている。この議論には決着はないであろう。当時の複雑な事情に加えて、さまざまな先入観や意図が論者たちに作用するからである。

著者が証明した一つの事実は、ヴァティカンが外交政策を決定し推進する過程で、世俗政府が行うような諜報手段を使うことができない制約があるということ、「情報」の宝庫であるという「神話」にもかかわらず、実は入手する情報が少なかったということである。ヴァティカンの情報網なるものは列強によって過大評価されていた。ピウス12世を非難する側にも、奇妙な具合にこの「神話」が無意識に影響を与えて、歪んだ見方を助長しているのかもしれない。

(高柳俊一/英文学者)


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