ローマ法王になる日まで


「激動の時代」という言葉がよく使われる。人はどの時代に生きても、それが「激動の時代」とは言えまいか、とぼくは考えてきた。日本の戦後社会を豊かさのなかで生きてきたぼくの、それが「激動の時代」いう表現への抵抗でもあった。しかし、この映画を観て、やはり「激動の時代」とはあるのだと思った。それは、息詰まるような現実という局面に対峙した一人の人間が、自らの信じる道を外さないで歩いて行く時代、と言ったらいいだろうか。

©TAODUE SRL 2015

ベルゴリオ(フランシスコ教皇)が信仰のもとに生きたアルゼンチンは、軍事政権による苛酷な時代だった。それは日本の戦時中にも等しい状況に置かれていた。政権に反対する人々は拉致され行方不明になってしまう。

人口の9割がキリスト教徒であり、その大部分がカトリックの信者だというアルゼンチンという国で、教会はどのように政権と立ち向かったのか。ベルゴリオの行動はいかがなものだったのか。

貧者とともにスラムで暮らす神父は「解放の神学」と呼ばれる活動のなかで信仰に生きた。しかし、その神父も拉致され拷問される。イエズス会のアルゼンチン管区長になっていたベルゴリオはその現実と向き合わねばならない。

©TAODUE SRL 2015

映画では軍事政権下で起こる強権発動の恐ろしさがリアルに描かれている。思想の自由などは、兵隊や銃の前ではなんら力になり得ない。トラックで兵隊がやってきたら、もう時は遅しである。

明日という希望があるのか、人々が自由に発言し暮らせる日が果たしてやってくるのだろうか。平和な生活はどこにあるのか。映画の途中で、常に頭をよぎったのがこのことだった。

日本の戦後も、なにやら怪しい気配を感ずる昨今である。『ローマ法王になる日まで』の時代背景を考えながら、昭和のなかで暗い時代を招いた過ちを二度と繰り返してはならないとつくづく思った。

©TAODUE SRL 2015

ベルゴリオが教皇になるまでを観ながら、聖ヨハネ・パウロ二世の『カロル―教皇になった男』と『聖ヨハネ二十三世 平和の教皇』の映画が思い出されてきた。なにかこの3人に共通するリーダーの条件のようなものが感じられる。そのことに考えを導いてくれたのも、この映画からの習得だったように思う。

映画のエンディングで流れるタンゴの旋律を聴きながら、ぼくはフランシスコ教皇の祈りのなかに委ねられていたのだった。

鵜飼清(評論家)

監督:ダニエーレ・ルケッティ 出演:ロドリゴ・デ・ラ・セルナ/セルヒオ・エルナンデス/ムリエル・サンタ・アナ/メルセデス・モラーン 音楽:アルトゥーロ・カルデラス
2015年/イタリア/スペイン語・イタリア語・ドイツ語/113分/カラー
原題:Chiamatemi Francesco - Il Papa della gente 字幕:山田香苗/ダニエル・オロスコ
提供・配給:シンカ/ミモザフィルムズ
後援:駐日バチカン市国ローマ法王庁/在日アルゼンチン共和国大使館/イタリア大使館/イタリア文化会館/セルバンテス文化センター東京 推薦:カトリック中央協議会広報
ホームページ:roma-houou.jp

2017年6月3日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次ロードショー


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