眞﨑 遥(宗教科教員)
私の心にのこる聖母マリアは、「親指のマリア」です。カルロ・ドルチによって描かれ、シドッチ神父がイタリアから、鎖国中の日本に潜入した時に持ち込んだものです。現在は、東京国立博物館に所蔵されています。
私が初めてこのマリア様に出会ったのは、大学1年生の春でした。受験が終わり、ほっとした気持ちで美術館に行ったとき、このマリア様が目に入りました。「親指のマリア」は、悲しみの聖母ですが、マリア様のお召しになっている衣の青さを通して、マリア様の悲しみと強さが伝わってきて、はっとしたことを覚えています。
当時は、まだ「親指のマリア」についての知識は持ち合わせていませんでしたが、大学で学び、教員として潜伏キリシタンや日本のキリスト教の歴史に触れる中で、この聖母の御絵がシドッチ神父様によって日本に来たことを知りました。
今、改めて聖母を見て感じることは、マリア様がいかに悲しい思いをして、イエス様の受難を受けとめたかということです。最愛の息子が罪人として蔑まれ、殺されていく苦しみは、私の想像を遥かに越えます。
そして私は、命の危険にさらされながら、信仰を守り続けたシドッチ神父様や潜伏キリシタンの人々は、そんなマリア様と出会ってどのように感じただろうと思います。同時に、マリア様は、潜伏キリシタンやシドッチ神父様をどのように見ていらしただろうと想像するのです。
そしてそれを考えたとき、マリア様の深い悲しみと愛を感じます。信仰を公の場で大切にすることができなかった苦しみ、そして信仰をもっていることによって、受ける様々な苦しみに寄り添い、祈っておられるマリア様が私の中に浮かびます。
不思議なことに、私がこの「親指のマリア」からうけるイメージは悲しみだけではありません。このマリア様から私が強く感じるのは、希望です。マリア様に見て取れる悲しみは、復活を前にした受難の悲しみです。そしてその先には希望があります。
潜伏キリシタンの苦しみも、明治に入り、浦上4番崩れの後、ようやく終わりを告げます。潜伏キリシタンたちは公に自分の信仰を言い表すことができるようになり、彼らは自分たちの教会を建てて、祈ることができるようになりました。彼らにとってそれは、どんなに大きな喜びだったことでしょうか。それは、大きな希望に他なりません。
「親指のマリア」を見る時、私はシドッチ神父様の生き様、潜伏キリシタンの人々の信仰、そしてマリアの強さと愛を感じます。そして彼らの信仰を思うとき、私は自分の信仰を深く見つめさせられるのです。