《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 18:栄光の賛歌


栄光の賛歌

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答五郎……あわれみの賛歌に続いて、栄光の賛歌となる。「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人の平和あれ。……」とね。つづいてどうなるかな。読んでみてごらん。

 

女の子_うきわ

美沙………はい。「われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る。神なる主、天の王、全能の父なる神よ。主なる御ひとり子、イエス・キリストよ。神なる主、神の小羊。父のみ子よ。世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。世の罪を除きたもう主よ、われらの願いを聞き入れたまえ。父の右に座したもう主よ、われらをあわれみたまえ。主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエス・キリストよ。聖霊とともに、父なる神の栄光にうちに。アーメン。」

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問次郎……長いですよね。それに文語だなぁと思いました。とくに「主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉(たてまつ)る」など「時代劇みたいな詞だな」と。

 

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答五郎……最近は時代劇でもあまり聞かなくなったよ。たしかにほかは、あわれみの賛歌と同じような「あわれみたまえ」とか「われらの願いを聞き入れたまえ」とかなので気にならないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙………栄光の賛歌は他の式文上の賛歌(でしたね)と比べて詞は長いのですが、どの旋律の歌を使うか
によっても違うように感じました。重たいなと思うものや、自然だなと思うものなど。

 

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答五郎……どの旋律もそれなりの考え方から作られているから、今聞く旋律のイメージにひっぱられないほうがよいかもしれない。詞だけに注目してみると、ほかに気がつくことがたくさん出てくるよ。

 

女の子_うきわ

美沙………真ん中のところが「神なる主、天の王、全能の神なる父よ。主なる御ひとり子、イエス・キリストよ。神なる主、神の小羊、父のみ子よ」と、ほとんど呼びかけだけですよね。

 

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答五郎……少し飛んで「主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエス・キリストよ」もやっぱり呼びかけの詞だよ。

 

 

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問次郎……その間にはさまれた「世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。世の罪を除きたもう主よ、われらの願いを聞き入れたまえ」などは、あとで出てくる平和の賛歌、そこの「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。」とほとんど同じですよね。

 

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答五郎……そう、よく気がついた。そこの部分だけ見ると、あわれみの賛歌、栄光の賛歌、平和の賛歌はずっとつながっている。全体があわれみの賛歌ともいえないこともないのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙………あわれみの賛歌があわれみ深い主、いつくしみ深い主への賛美の叫びだったというのでしたら、
これら全部が、神とかキリストとかへの賛美の叫びの詞なのですね。

 

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答五郎……そう! 栄光の賛歌もほとんど、父なる神と御子キリストへの賛美の叫びの連続といってもよい。叙事詩的といわれることがあるのだか、どうも違う。よく歌われているような旋律の感じともだいぶ違う。もっと叫びのような感覚が歌の旋律にこめられるといいのかなとつくづく思うよ。

 

女の子_うきわ

美沙………ほんとうに、栄光の賛歌の詞だけを見ていると、ほんとうに力強い叫びだなと感じます。

 

 

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答五郎……それにこの長い詞はすべて全員で歌うというものではなく、二手に分かれて掛け合いのように歌うのが、ほんとうらしい。そうなれば、もっと生き生きとするかもね。まだ課題がいっぱいある歌ともいえる。

 

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問次郎……あの~ぅ。詞をあらためて読んでみると、「主」という単語がすごく多いですね。さっきも出た「神なる主、天の王、全能の神なる父よ。主なる御ひとり子、イエス・キリストよ。神なる主、神の小羊、父のみ子よ」というところを読むと、前のほうは「主」が父なる神を指していて、あとのほうは、父のみ子イエス・キリストを指していますね。

 

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答五郎……よく気がついた。この賛歌の背景には旧約の詩編に出てくる神賛美の呼びかけ、それから新約聖書に出てくる表現が組み合わさっている。旧約聖書の場合、神は「主である神」のことで「主」と読んで礼拝してきたわけだが、新約聖書的な祈りは、ある場合、父である神に向けられ、ある場合には、キリストに向けられる。実はこのような旧約的表現と新約的表現は、ミサをはじめ典礼にも両方入っているのだよ。

 

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問次郎……ここの「主」は「神」と同じ意味だと言ってよいのですね。「神なる主」というわけですから。

 

 

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答五郎……聖書から引き継いで、教会が神をどう礼拝しているかがわかる歌でもあるね。

 

 

女の子_うきわ

美沙………たしかにそうですね! 神は栄光の方、あわれみある方、王である方、聖なる方、いと高き方ということが詞をとおして教えられるのですね。

 

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答五郎……ほんとう聖書、そして教会の典礼で賛美し、祈り差し向けている神がどのような方かが端的に告げられているのだよ。「栄光」「あわれみ」「王」「聖」「いと高き」……神についていわれるすべてのことをミサでも重要なのだよ。それぞれ、ミサ全体にかかわることなので、これからも折に触れて一つひとつ見ていこう。

女の子_うきわ

美沙………私は、「われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、……感謝する」というところが面白いと思いました。人が神に対してすることが全部出ていて。これがミサなのですね。

 

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答五郎……そうだね、ミサとはどういうことをするのかが簡潔に示されている歌だね。

(つづく)
(企画・構成  石井祥裕/典礼神学者)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 18:栄光の賛歌” への2件のフィードバック

  1. 昔の記事へのコメント失礼します。

    栄光の賛歌の途中、「主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」の部分ですが、なぜ、「大いなる栄光のゆえに感謝」になるのかピンとこないところがあります。例えば「(神様の)恩寵のゆえに感謝」とかだったら分かるのですが…。
    原文から違う訳し方はできたけど、翻訳したら偶然この訳になったということでしょうか?

    • 「ミサはなかなか面白い」の企画構成担当者です。
       お読みいただき、ありがとうございます。
       
       ご質問の件ですが、
       「栄光の賛歌」のその部分の訳については、
       日本語版も「ミサ典礼書」(1978年版)では、
       ご言及のとおり「主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」となっております。
       これは原文をほぼ直訳しているものです(propter magnam gloriam tuam)
      (原文では「あなたの栄光」を「主の栄光」としているのみ)
       栄光の部分は、これ以外の訳しようはなかったことと推測されます。
       
       今年の11月27日の待降節第1主日(教会暦2023年度)から施行される新式文でも
       ここの部分は「主の大いなる栄光のゆえに感謝をささげます」となっており、
       文語体を口語体に変えているほかは「栄光のゆえに」は現行訳が存続しています。
       
       ご懸念のように、「感謝」の直接の理由は「恵み」ではないかという見方もあります
       が、神の栄光とは、それがなにかのわざによって現わされることによって、
       人間に気づかれ、それによって、神への賛美や感謝が起こるということですので、
       「主の栄光」という詩句に、主の栄光が現されてきた、数々の救いの恵みを心に
       思い起こして、「わたしたちは感謝をささげるのです」という意味合いを、
       この詩句からも読み取ることが十分読み取れるのではないかと思われます。

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