《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 15:開祭での回心


開祭での回心

 

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答五郎……さて、ここまで、ミサの開祭と呼ばれるところの最初の部分の対話句をかなり細かく見てきたと思うよ。それはね、「父と子と聖霊のみ名によって…」はミサだけでないさまざまなところで重要なものだし、「…皆さんとともに」「また司祭とともに」は、ミサの中でまだ何回か出てくるからさ。いよいよ今回からは開祭独自なものを見ていこう。あいさつのあとに何が続くだろう。

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問次郎……司式司祭の方が、きょうは何のミサを迎えました……など、その日のミサについて告知しますね。

 

 

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答五郎……そうだね。そんなに長い話にここでなるわけでもなく、その日のミサの意味を告げてもらえると、集まってきた甲斐があったと感じさせてもらえることも多いものだよ。現在のミサのいわばライブ感が示されるところだね。それに続いてどうなる?

 

女の子_うきわ

美沙………『ミサ典礼書』にある、「神聖な祭りを祝う前に、わたしたちの犯した罪を認めましょう」あるいは「わたしたちの罪を思い、感謝の祭儀を祝う前に心を改めましょう」といった司祭による招きのことばですね。いろいろな言い方がされる場合もありますね。

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答五郎……そう『ミサ典礼書』では「回心」と記されている部分だ。今、美沙さんが読んでくれたのは回心への招きという部分で、いろいろな言葉をアレンジして招きが告げられるね。それは、ともかく、この招きのあとにすぐ「全能の神と……」と唱えるだろうか。

 

女の子_うきわ

美沙………印象としては、すぐ唱えられるようですが。

 

 

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答五郎……そうだね。わりとね。ただ、この招きのあとには、会衆はしばらく沈黙することが本来なのだよ。二番目の招きの例文にあるような「わたしたちの罪を思い……心を改める」ひとときをね。そのように自分の生活や行いや態度に心を向ける沈黙のひとときが大事になるところだよ。

 

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問次郎……ふと思ったのですが、もうミサが始まっているのに、「祝う前に」と言うのですね。

 

 

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答五郎……それは鋭い指摘だ。いちばん多く行われている第1形式では、ひとときの沈黙を踏まえて告白のことばを唱える。司祭が「全能の神と、」と言い始めて、会衆も声を合わせ「兄弟の皆さんに告白します」と続けていく形だね。その元々の句は、6-7世紀に東方教会から入り、中世初期から西方教会でも唱えるようになったものというが、当初はミサの始まる前に司祭が祭具室で唱える準備の祈りだったのだよ。それが中世を通じて開祭の一部となっていったというから、「祝う前に」という句は昔の名残かもしれない。ただ、実質的には「ミサを祝う始まりにあたり」の意味だと考えてよいだろう。

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問次郎……ミサの始まりでの回心の告白というのはそんなに古かったのですか。中世からとは。

 

 

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答五郎……いやあ、告白の式文の成立は中世初期といえるけれども、ミサの始まりにあたってまず心を改めという実践はもっと昔から、教会の始まりとともにあったといってよいのだよ。

 

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問次郎……そうなのですか。そういえば、ミサも、使徒の時代には「主の晩餐」というようなものだったらしいですが、その頃ですか。

 

 

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答五郎……そうだよ。主の晩餐という言葉はパウロの手紙『一コリント書』に出てくるのだが、その関係でこんなことが出てくる。コリントの教会には仲間割れがあったというのだ(一コリント11・18参照)。それに対してパウロは、仲間争いをしていては「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです」(同11・20)と戒める。そこで、パウロはイエスがどのようにこの晩餐(今のミサ=感謝の祭儀)を定めたかを語り明かすのだ(11・23-26)。

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問次郎……「聖体の制定」についての伝承といわれるものですね。

 

 

 

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答五郎……そう。続いてパウロは、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(11・27-28)と言う。

女の子_うきわ

美沙………状況も思い浮かびやすいですし、パウロが言おうとしたこともよくわかる気がします。

 

 

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答五郎……この主の晩餐がミサという形に発展するわけだけれど、ここで、主の体と血をいただくことに対して、自分がふさわしいかどうか、よく確かめるようにという使徒の呼びかけが今のミサの開祭のこの部分にも生きているといえるだろうね。

 

女の子_うきわ

美沙………神に対して、主に対してという側面と、教会の仲間に対してという側面が両方、回心に含まれているから、「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します」というのですね。

 

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答五郎……うん、たしかに。その告白の式文は長く伝統となったものから、第二バチカン公会議後の現在は変わっているが、その中でもとくに重要なのが「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」という部分。前は「思い、ことば、行い」だけだったのが、そこに「怠り」が加わった点なのだよ。

 

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問次郎……怠りを罪とすることも比較的ユニークなのではないですか。

 

 

 

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答五郎……そうだね。何か積極的になすべきこと、神の民として、キリストの使徒として当然なすべきことをなおざりにしてしまっている……というあたりを深く反省させることばだよね。そこには、キリスト者としてなすべきことを問いかけるという意味もあるはずだよ。実は、このわたしにとっても、このことばはいつもずしりと響くのさ。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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