服部 剛
夕刻の高速船は鯛ノ浦からゆっくりと出港し、上五島の島が遠のいてゆく。この日の海は比較的凪いでおり、雲間から漏れる西陽が、海原を淡い夕暮れ色に染めていた。巡礼の旅の間に改めて読んだ『沈黙』は、鞄の中で静かに眠っている。長崎へ戻る船の中で私の頭から離れなかったのは、ロドリゴが踏絵を踏んだ後の章に引用されている『長崎出島オランダ商館員ヨナセンの日記』に書かれた、荒木トマスについての記述である。ローマへと派遣され、法王の侍従という役を務めた彼も、日本で捕えられた後(のち)、晩年は精神をはげしく乱していたという。その最期は、「一昼夜穴で吊るされた後、教えを棄てたが、心中には信仰を失わず死亡した」(『沈黙』、遠藤周作著、新潮社)と書かれている。この〈心に中に消えない信仰〉というテーマは、遠藤が描いた『沈黙』の中で、時に激しく揺らぎながらも、一貫する通奏低音として鳴り響いている。
井上筑後守(ちくごのかみ)は、棄教後のロドリゴを奉行所に呼び、「(パードレ=
司祭は)この日本と申す泥沼に破れたのだ」(『沈黙』、遠藤周作著、新潮社)と語ったが、その日本という沼地の中にも、そして、岡田三右衛門という日本人として生きねばならなくなったロドリゴの心の奥深くにも、〈踏絵のイエス〉は囁き続けるであろう――。それは嘗(かつ)て、切支丹禁制下の日本で、あまたの貧しい人々が信仰に縋(すが)り、時代の掟により凄惨な拷問に喘ぎ、または、踏絵のイエスを踏まざるをえなかった、深い心の痛みを生涯抱えて生きねばならなかった、名も無き人々の生涯を通して、現代を生きる私達にも何かを、語りかけているのかもしれない。
21世紀の日本という、転換期を迎えつつあるこの国の人々の心は、霞みがかった時代の中で、渇いている。孤独な夜の哀しみに俯(うつむ)く誰かを探し求めて、遠藤文学の中に描かれる〈イエスの面影〉は今日も、風の姿で街を歩いている。そして、私達の日々の出来事の最中(さなか)にも密かに働きかけるその人は、沈黙の声をあなたに囁くであろう。
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高速船のスピードはいつしか緩やかになり、地上の星々のような長崎の灯が近づいて
きた。明日は在りし日の遠藤周作が愛した、大浦天主堂の脇にある祈念坂の石段を、ゆっくり歩こうと思う。 (完)