フランシスコ・ザビエル 野田哲也
彼と出会って3日目でした。いつものように体を洗い終え、治療をしている時、彼が昏睡状態になったのは…。私はモヘルの急変にすぐに気づき、隣で他の患者の治療をしているイタリア人のボランティアを呼ぶことだけをすると彼と同じように身体から何かが抜け出てしまったかのようにもう何も出来ず、残された治療もしないまま、ただ彼を必死に呼び戻すように彼の名を泣きながら呼び続けるだけでした。周りにはすぐにシスターやボランティアや患者たちが集まり、その中には彼のために祈る者や私と同じように涙を流す者もいました。残された治療はシスターと他のボランティアが素早く終わらせてくれました。私は彼の手を握りしめ、一心に彼を見続け他の何も目には映りませんでした。
1時間後、彼は意識を取り戻しましたがもうすでに虫の息でかすかに声を出すことが可能なだけでした。午後になり、何人かのシスターや彼の母親や兄弟も彼のもとに来ました。そのシスターの中には涙を流す人もいました。患者の死に慣れているシスターが泣くことがあるとは少し驚きましたが、それはきっと彼が最悪の身体状況に関わらず、明るくユーモアがあり、まさに神様に愛される男だったので別れが辛かったのだと思いました。彼は短い間に多くの人に愛されていたのでした。
モヘルは母親と少しの会話をしましたがもう長くは続けることは出来ませんでした。そして彼は傍に居続ける私と母にこう言いました。「もう帰ってくれ」と。彼はこの状態に至っても相手を思う心を忘れず、「私は大丈夫だから」と言いたかったのかも知れません。しかし私は、「私たちはここにいるよ。モヘル、お前のそばにいるから」と伝えました。ただプレムダンの中には他にも重症患者がいるので、少し彼の傍を離れると彼は、「マイフレンド、てちゅはどこ?」と言い始めるのでした。彼は苦しむ姿を誰にも見せたくないと思うのと死へのどうしようもないほどの恐怖の激しいジレンマの中にいるのでした。私が彼の傍に戻ると彼は私を抱きしめようとしました。すでに首が座らなくなり始め、力など何も残っていないのに…。
私は知りました。死に打ち勝つものがあるとすれば、それは愛だけであると。私にはモヘルが神様のように輝いて見えました。神様を見たことがある訳ではありませんが、しかしその時彼は私にとっての神様そのものでした。命の終わりその最後の瞬間までどれだけ愛が強いものなのかを命がけで教えてくれている彼はまさに私の師でした。(カトリック調布教会報「SHALOM」2015年7月号より転載)