高山右近と霊操


土屋至

加賀乙彦著「高山右近」(講談社文庫、2016年刊)を読んだ。この書は高山右近の後半生、加賀藩へ客将として迎えられたときから追放、さらに死の場面までを描いている。とくに右近が霊操をしていた場面が詳しい。

「霊操」とはイグナチオ・ロヨラが開発した30日間の黙想のプログラムである。特に聖書の場面を黙想することが多い。

右近が受難の黙想をしているときの文を読んで、私ははたと思い当たることがあった。「イエスがイバラの冠を押し被せられるときの痛みを黙想しなさい」「十字架につけられる場面で掌に釘打たれる場面の激痛を味わってみなさい」というような黙想指導の場面である。

実は私はこの黙想を高校2年生にしたことがあるのだ。ドイツ人のイエズス会士、学校では物理の先生だったウルフ神父に指導を受けたのは、まさに右近がしているのと同じ受難の黙想であった。至少年も「う〜ん」と呻吟しながらもまじめに取り組んだ。「あれは霊操であったのだ」「右近もそれを体験しているんだ」と感激したのである。

加賀乙彦「高山右近」によると右近はそれをまじめにやり過ぎて「聖痕」がイエスの傷のあったところにできてしまったと書かれている。私は聖痕こそできなかったがでもまじめに取り組み、私の信仰を一挙に強め深めたと思っている。

そして右近は「霊操」を経験してほんものの普遍心を獲得し、長崎に行ってハンセン病の患者にふれることに抵抗がなくなり、迫害も拷問も耐えられる自信を得たとも書かれている。       (土屋至 元清泉女子大学講師「宗教科教育法」担当)
高山右近と霊操

イグナチオロヨラと霊操


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

seventeen + ten =