歩行と祭壇が示すもの
答五郎……入堂行列のことをもう少し考えたい。直接には司祭と奉仕者が歩いていくが、この歩行の意味にも注目してほしいのだ。
問次郎……どういうことでしょう?
答五郎……行列といわれるが、日本では、行列のできるお店など、列をなして待っていることを普通いうだろう。それとは違うということだよ。
問次郎……すると行進ですか?
答五郎……行進というと,街路を進む団体行動という面が強いね。聖堂で、会衆の前あるいは中を進んでいく、ややゆっくりした儀式的歩行のことだよ。明らかに日常的な用向きの歩き方と違うだろう。
美沙……はい、荘重な感じがする歩行ですね。
答五郎……司祭・奉仕者がどこまで意識しているかはわからないけれど、個人の歩きとは違う雰囲気があるだろう。これはどこから出てくるのだろう。
美沙……一つには、司祭・奉仕者が共同で歩くので、ペースを合わせる必要から様式性が生まれるのではないでしょうか。もう一つは、やはり歌ですね。歌が共同の歩き方のテンポを作ります。
答五郎……前に言ったことを加えるなら、その歌を通して会衆も、この歩行に参加している。
問次郎……儀式行為は何かを表現するとなると、この歩きも何かを表しているのですね。
答五郎……そうなのだ。祭服の話をしたが、祭服を着て奉仕者としての性格を強く出しながらするこの歩行は、やはり、だれかの歩行を暗示しているのだよ。いうまでもなくキリストだね。『典礼憲章』(7)でも、「キリストは、とくに典礼行為のうちにおられる」 といわれる。司祭も奉仕者も会衆も一同がここで心からキリストに集中して動き、歌ったら、ほんとうにキリストがいる感じが満ちあふれてくるのではないだろうか。さて、行列歩行はどこに向かうかな。
問次郎……祭壇のところですね。
答五郎……そこで何が行われるだろう。
美沙……祭壇に礼をしますね。『ミサ典礼書』で、祭壇の表敬と書いてあるのがこれですね。
答五郎……そう、たしかに祭壇の表敬とあるだけで、説明はとくにないな。けれど、厳密には祭壇を表敬するのではなくて…….
美沙……実際には祭壇によって示されているキリストに対する表敬なのですね。
答五郎……そう、あえて説明がなされる前に、伝統的に共通理解が成り立っているのだよ。たとえば、アンブロシウスという4世紀の終わり頃の司教が、洗礼を受けたばかりの人に対する講話の中で、「祭壇は、キリストの体のフォルマだ」といっている(『秘跡についての講話』4・2)。当時から共通の教えだったらしい。それが、いまのミサでの表敬につながっている。
問次郎……伝統的な共通理解といったって、何世代も離れている、しかも異文化圏の現代日本なのですから、僕らのような信者ではない人間には、ちゃんと説明してほしいです。
答五郎……そうだよね。時代や場所が変われば、認識も理解も新たにしていかなければならないからね。だから、こうして一緒に対話しながら探求しているのだよ。力を合わせていこうよ。
問次郎……今の話ですが、祭壇がキリストの体を示すものだというのはちょっと意外です。いつも、祭壇のところから見える十字架のキリストに表敬しているのだと思いましたよ。
答五郎……その~、祭壇が、というよりも、祭壇も、というほうがふさわしいと思うよ。というのは、ミサの中で、キリストがいることはさまざまなかたちで示されるからだよ。
美沙……はい、そう思いました。今までも、キリストは司祭に現存するとか、典礼行為に現存するとか、すでにいろいろといわれていましたね。
答五郎……実は、その『典礼憲章』でも、必ずしも祭壇にいると直接いわれているわけではない。でも、考えてごらん。祭壇という物質的なものがただそこにあるからといって、いつもキリストのしるしではない。はっきりしているのは、ミサで信者が集まっていてこそ、そしてミサの行為が始まって生き生きと皆が動いていてこそ、祭壇はキリストの体のしるしとしていわば現れてくるのだ。だから、典礼行為に現存するというなかに、祭壇の表敬が含まれていて、そこでキリストがいることが示されるということではないかな。
美沙……聖堂を見ていても、会衆席はやはり祭壇に向かっていくようになっていて、それで、集まっている人の視線や気持ちも自然に祭壇に向けられますよね。そのような空間構造にも支えられて、会衆の心は一つになってキリストに向かい、それを背に司祭・奉仕者の表敬がなされるのですね。
答五郎……そうだよ。司祭・奉仕者は、会衆の代表として集まっている信者全体の気持ちを表現しているわけだから、一人ひとりキリストへの表敬の気持ちを込めたいものだね。
(つづく)