聖人伝2 トゥールのマルティヌス

これは、聖人をこよなく愛する姉・嘉島理華(かとう・りか)と、その弟・嘉島理貢(かとう・りく)と一緒に、聖人について学んでいくノベルゲームです。

 

【注意事項】

※パソコンでのプレイを推奨していますが、スマートフォンからプレイする場合は、全画面表示にすると見やすくなります。
※一文目が表示されるまで時間がかかることがあります。しばらくそのままでお待ちください。
※音が出ます。

 

【参考文献】
池田敏雄『聖人たちの生涯』中央出版社1967年、236-239頁。
ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』第四巻、前田敬作・今村孝訳(平凡社 2006年)、237-259頁。
印出忠夫「マルティヌス 〔トゥールの〕」上智大学新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』(KODオンライン版)。
H. G. J. Beck, “Martin of tours, ST.” New Catholic Encyclopedia 2nd Edition vol.9 (Detroit Gale, 2002) 220.
J. Fontaine, “Martin, hl.” Lexikon für Theologie und Kirche 3.Auflage 6 Bd, (Herder 1996) 1427-1428.
H. J. Thurston S.J., D. Attwater eds., “Bulter’s Lives of Saints: Complete Edition” vol. 4 (Texas Christian Classics 1956), 310-313.

(企画・構成=石原良明:聖書研究者/イラスト=高原夏希:AMOR編集部)

 


聖人伝1 セビリャのイシドルス

これは、聖人をこよなく愛する姉・嘉島理華(かとう・りか)と、その弟・嘉島理貢(かとう・りく)と一緒に、聖人について学んでいくノベルゲームです。

 

【注意事項】

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※音が出ます。

 

【参考文献】
池田敏雄『聖人たちの生涯』中央出版社、1967年、182-184頁。
小高毅「イシドルス〔セビリャの〕」上智大学新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』(KODオンライン版)。
上智大学中世思想研究所編『後期ラテン教父』中世思想原典集成第5巻(平凡社 1993年)505-599頁。
J. T. Crouch, “Isidore of Seville, ST.” New Catholic Encyclopedia 2nd Edition vol.7 (Detroit Gale, 2002) 602-605.
M. Ruf, “Isidor” Lexikon für Theologie und Kirche 3.Auflage 5 Bd, (Herder 1996) 618-620.

(企画・構成=石原良明:聖書研究者/イラスト=高原夏希:AMOR編集部)

 


晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」3

前回の内容はこちらです。

 

4.スコセッシが伝えたかったものとは

私はこの映画を試写室で観たのですが、この試写会はキリスト教関係者の試写会でしたので、私の他にプロテスタントの牧師先生たちも来ておられました。そのうちの一人が映画を見終わって私に、「映画、どうでした?」と聞くのです。おそらく、「これが晴佐久か」と思って、面白半分に反応を見ていたのでしょう。そこで私は思いの丈を、今申し上げたようなことを声高に言いました。「こういう話って、今もありますよね? こういう原理主義的な教えで、人びとを縛り付けている教会って沢山ありますよね?」と。私は正直、少々苛立っていたのです。映画が終わったときに、前に座っていた別の牧師さんが、「いやー、こんな迫害に合ったら、私は自分の信仰を守れるかどうか不安ですね」と言って、もう一人が、「そんなことがないように、お祈りいたしましょう」と答えるのです。

私はこの二人の感想を聞いて愕然としました。私は全く違う感想だったのです。私は自分の信仰が守れるかどうかなんてまったく関心がなくて、「この人たちを、どうやったら救えるだろうか」ということしか頭にありませんでした。「信仰が守れるかどうか」なんて、結局自分の話だからです。果たして、これらの発言に愛があるでしょうか。少なくとも、スコセッシが伝えたかったこととは違うと思います。スコセッシは、かつてこうした苛烈な現実があったということを取り上げながら、現代の分断の世界に問題提起をしているのです。スコセッシが映したのは、同時代人としてのキリシタンです。「あなた方は何を信じているのか」「愛はあるのか」と。キチジロー以上に苦しんで、うちのめされた主人公ロドリゴは、まったく完全な無力に陥って、そうしてはじめてイエスの愛、真の普遍主義的なキリスト教に目覚め始めた、というところで映画は終わるのだと思います。

スコセッシはアメリカのカトリック信者です。イタリアのシチリア島出身の移民の家に生まれています。以前若いころに、ちょっと挑発的なキリスト教映画を作っていたことがあり、しばらくカトリック教会から批判されていたのですが、彼自身、人生の苦しみの中で、宗教的な考え方も変わっていったのです。スコセッシは、カトリックの側の原理主義的な教え、「イスラームの人は救われない」といったような教えと直面して、思うところがあったようです。「本当の福音とは何か」「この時代を救えるのは何か」ということを問い、私の言う普遍主義的な宗教を希求しつつも、「この教えの他に救いはない」という原理主義的なキリスト教には距離をとっていたと思います。「宗教はどれも原理主義的なものばかりで、他の宗教を認めず、このままで戦争と暴力が世に満ちてしまうではないか。いったいどうすればいいのか」と、悩んでいたわけです。あれだけの賢い監督ですから、当然そのような思惟を持っていたわけです。

そういう時期に、日本を代表するカトリック作家である遠藤周作の『沈黙』を読んで感銘を受け、お互いカトリック同士でもある遠藤周作とスコセッシが会ったときに意気投合し、「この作品を必ず映画にする」と約束をしたのです。それから四半世紀以上経って、遠藤は天上の人になりましたが、スコセッシはついに遠藤との約束を果たしたのです。さすがはシチリア系、約束を破りません。イタリアのマフィア映画のようにです(笑)。

 

5.原理主義に陥ることなく、透明な思想同士の連帯を

私は以前より、縦割りの宗教ではなく横割りの宗教を提唱しています。縦割りというのは、「私はイスラームです」「私はカトリックです」「私はプロテスタントです」「私は仏教です」「私はヒンドゥー教です」などといった、宗教や教派、宗派別にとらえる方法です。原理主義的な傾向というのは、どの宗教の中にもあるもので、各宗教の中にグラデーションがあるように思います。どの宗教の中にも底の方には真っ黒の原理主義的な教条主義的な人たちがいます。一方、水面に近い上の方には、透明に近い普遍主義的な対話可能な人たちがいます。宗教的な排外主義や自爆テロなどというのは、この真っ黒な原理主義の最たるものです。ここに愛はありません。

カトリックは1960年代の第二バチカン公会議を経て、普遍主義的な透明感のある教えを極めようとしていますが、その一方で、その反動からか、「教会の他に救いなし」を地で行くような原理主義的なカトリックもまたあるように見えます。しかし大多数は、透明に近いカトリックであると信じたい。透明になると横同士つながることができるのです。対話することができるのです。見通しがいいからです。一緒に物事を見たり考えたりすることができるわけです。各宗教の透明な者同士の連帯が生まれてきます。いわゆる横の線です。これが私の言う横割りの宗教です。ある意味、この横の線で見てみると、同じ教派でも、この透明と黒は別の宗教のように見えます。この透明な者同士の連帯、普遍主義同士の連帯をきちんとやっていけるようにするのが私の仕事であると思っていますし、またイエスこそがこうした普遍主義の徹底をやっていたのではないでしょうか。

パウロも「ユダヤ人もギリシャ人もない」と言っていますが、「主人か奴隷か」「男か女か」という二元論的な縦の線に囚われるのではなく、「皆、神様に愛されている、赦されている」という横の線を大切にしましょうということなのです。決して、宗教を透明と黒とに二分するのではありません。透明に近い思想の人たちは、暗黒な原理主義に苦しんでいる人たちを救い出さなければならないのです。黒から透明に近いグラデーションに近づけなければなりません。イエスはそうした、透明へと向かうベクトル、普遍主義へと向かうベクトルを示しています。私はそれが愛だと考えています。普遍主義者が原理主義者を救わなければ、ますます原理主義が世の中に増えて、すべての人を敵味方に分ける二元論的な発想が世を支配し、しまいには核ミサイル合戦になって世界は終わってしまいます。そうした破局を防ぐのが、普遍主義者の使命だと考えています。皆さんも、普遍主義の同志、レジスタンス、あるいは「福音家族」として、ともに闘いましょう。

(了)

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)

 


晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」2

前回の内容はこちらです。

 

3.映画「沈黙―サイレンス―」をどう観たか

さて、皆さんはこの映画をご覧になったでしょうか? 私がよく人から聞かされる感想は、「ここまでして信じなければならないのか」というものでした。

私の感想としましては、他に私が書いた文章がありますので、こちらを読ませていただきたいと思います。これは「ジャパン・ミッション・ジャーナル」という雑誌に寄稿した「映画『沈黙』を観て」というもので、これはマーティン・スコセッシ監督が、日本の観客が映画を見てどう思ったか、どういう反応があったかということを知りたいということで、企画されたもので、私もまた感想を求められたのです。これらの文章は英訳されて、スコセッシ監督も目を通しました。

 

* * *

 

「映画『沈黙』を観て」

私は、今年司祭叙階30周年を迎えた、日本人のカトリック司祭です。幼児洗礼を受け、一般的なカトリック教会の教会学校で教えを受けました。子どものころは、カトリック信者だけが救われるというような原理主義的な教えに疑問を感じていましたが、10代後半に、第二バチカン公会議の普遍主義的な精神に触れて大きな影響を受け、司祭職への召命に目覚めました。司祭に叙階されてからは、苦しむ人々と共に生き、普遍的な神の愛の福音を語ってきました。

今、私は、「キリストの十字架と復活は、天の父の無限の愛の現れであり、すべての人はそれによってすでに救われている」という普遍主義的な福音を明確に宣言する司祭として、多くの人から支持されています。福音を聞いて、自らがすでに救われていることに目覚めると、大きな喜びと真の自由がもたらされます。「救われていることに目覚めて、救われる」のです。そうして救いを実感した人たちの中には、キリストの教会との一致を求めて、洗礼を受ける人も多くいます。つまり、「洗礼を受けたから救われる」のではなく、「救われていることに目覚めて洗礼を受ける」のです。前任の教会では、6年間で500人以上に洗礼を授けました。おそらく、今、日本で最も多くの洗礼を授けている司祭だと思います。

そのような一人の司祭として憂いているのは、現代のキリスト教に、今もなお、原理主義的な教えが色濃く存在することです。すなわち、「イエスへの信仰を告白しないと、救われない」とか、「キリスト教の洗礼を受けないと、天国に行けない」とか、「教えを棄てた罪人は、死後裁かれる」などという教えです。それらは、必然的に、人々に二元論的な信仰をもたらして、人々を分断し、不必要に苦しめます。そのような教えはまさに、イエスの時代のユダヤ教の選民思想であり、律法主義であり、分断主義、すなわちファリサイズムであって、イエスの教えはそれらを否定するものであったはずです。原理主義的なキリスト教の誤った教えによって、現代もなお、多くの人が「救われない」、「天国に行けない」、「裁かれる」などと思い込まされて苦しんでいるのは、事実です。私は、そのような多くの原理主義的な教えの犠牲者に寄り添い、彼らを、普遍主義的な福音によって救い続けて来ました。彼らは、誤った教えのために、どれほど恐れ、苦しみ、それゆえに心を病んでしまったことでしょうか。それは文字通り、地獄の苦しみであり、その地獄を生み出したのが他ならぬ、誤ったキリスト教であることを、どれだけの人が意識しているでしょうか。私は、イエスが、なぜ、あれほどまでに律法主義者とファリサイ派という原理主義者たちを厳しく批判したのか、その気持ちが痛いほどよくわかります。

『沈黙』を見て、最も感じたことは、これは、全く現代の話だということです。殉教の苦しみにせよ、棄教の苦しみにせよ、どちらも無ければ無い方がいいに決まっている苦しみであるはずですが、残念なことに、今の時代にあっても同じような苦しみが数多く存在します。原理主義的教義を信じさせられることによって自らの可能性を閉ざし、周囲と対立してしまうのは、現代の殉教です。逆に、そのような生き方が苦しくて、教えから離れざるをえず、しかしそれゆえに永遠の滅びに至るのではないかと恐れて生きるのは、現代の棄教です。どちらも、イエスの福音がもたらす喜びとは無縁な選択肢です。なぜ、このような野蛮な二元論がいまだに生き残っているのか。それは、キリシタン弾圧を始め、全世界の多くのキリスト教への迫害とそれによる殉教が、実はキリスト教自身の原理主義が招いた悲劇であることを理解していないからであり、それゆえにきちんとした反省もなされていないからです。

イエスが十字架を背負ったのは、人々を救うためであって、人々に十字架を背負わせるためではありません。もしも十字架を背負わなければ救われないのなら、捕まるときに「この人たちは去らせなさい」(ヨハネ18:8)と言って弟子たちを逃がそうとはしなかったはずです。むしろ、イエスは、試練や苦難という十字架をすでに背負っている私たちに、「重荷を負うものはだれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。……私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」(マタイ11:30)と言って、私たちが背負っている十字架を軽くしてくれたのであり、それこそが福音の原点なのではないでしょうか。そうでないならば、イエスが私たちのために十字架を背負った意味がなくなってしまいます。パウロが言う通りです。「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」。(1コリ1:18)

イエスは、殉教したのではありません。教えのためでも掟のためでもなく、愛のために死んだのです。イエスは、私たちの殉教を望んではいません。彼の望みはただひとつ、彼が私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合うことです。明日は殺されるという前夜、イエスは弟子たちの前にひざまずいて、彼らの足を洗いました。「その汚い足で、私を踏みなさい」と言うかのように。使徒ペトロが「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは「もし私があなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えました。(ヨハネ13:8)

イエスは、こう言っているのではないでしょうか。「私は、あなたに踏まれて、あなたを生かすために死ぬのだ。私を踏まなければ、あなたは私と何のかかわりもないことになる」もしも、フランシスコ・ザビエルが、第二バチカン公会議の神学を知っていたならば、あのような、世界史に類を見ない残酷な迫害は引き起こされなかったと、私は断言できます。そして、現代という分断と排除の時代に、キリストの教会は自らの内なる原理主義に真剣に向かい合い、第三バチカン公会議にむけて、より普遍的な福音の教えを、言葉としるしで証ししていく義務があると思います。それこそは、殺されていったキリシタンたちと、殺されずに苦しみ続けた隠れキリシタンたちの犠牲を無駄にしないために、そして二度とあのような悲劇を繰り返さないために、現代の教会に課せられた義務です。映画のラストで、主人公の手のうちにあった十字架は、「実は彼は、キリスト教を棄てていませんでした」というような二元論的な描写ではないはずです。私はそれを、「普遍主義的信仰の道への尊い第一歩を踏み出した彼こそが、真のキリスト者なのだ」という、スコセッシ監督からの気高い宣言として受け止めました。

(”Ten Responses to Martin Scorsese’s Silence 1. Healing Fundamentalism” The Japan Mission Journal, Summer 2017, p.108-110)

 

* * *

 

これを翻訳してくださったアメリカの神学者は、「これはまさしく現場からの声だ」と評価してくださいました。今も日本にいる、「踏むか、踏まざるべきか」の二元論で苦しんでいる日本人たちの現場に私もいるわけです。そこに横たわっているのは、原理主義的な恐ろしい教えです。原理主義は二元論的です。この魔の手から救い出すのは難しいことで、本当にパワーが必要で大変なのです。「この教えを信じなければ救われない」という原理主義、分断主義によって、みんな心を病んでいます。その現場でいつも私は、「いいやあなたは、必ず救われる」と宣言してきたわけです。それでも、一度原理主義、分断主義に陥った者は、「晴佐久神父はああ言うけれど、あの教会に戻らないと私は救われないのでは……?」という思いから抜け出せず、戻っていくこともあるのです。そこに戻っても本当の心の平安がないにもかかわらずです。

そうした現場から私はこの映画を見るわけですから、あのキリシタンたちがそうした青年たちに重なって見えてきます。そうすると、「この教えを信じ、この洗礼を受けなければ地獄に落ちる」という原理主義的な教えは、「やっぱり、やってはいけないことでしょう」と思うわけです。残念ながら、フランシスコ・ザビエルの時代のキリスト教はこうした色彩が強いものでした。もちろんイエスに由来する普遍主義的な愛の教え、すべての者を救う神の教えもまた伝わっていましたが、両者がせめぎあっていて、はっきりしないまま、宣教師の中でもモヤモヤしたままに、受け継がれていたのです。時代的な制約もあるでしょうが、原理主義的な傾向がありました。

私はもしもタイムマシンで好きな時代に行けるのならば、戦国時代に行きザビエルと一緒に日本に上陸したいです。そして仏教の人と対話をし、神道の人と対話をし、信長と対話をし、秀吉と対話をし、神の普遍主義について語りたい。以前の「教会の他に救いなし」のカトリックではなく、第二バチカン公会議の「他の宗教にも救いの道がある」という普遍主義的な現代カトリックの教えをひっさげてザビエルが日本に上陸していたら、日本のキリスト教史はどのようになっていたか見届けてみたいのです。

キチジローは可哀想すぎます。自分を責め続けたわけでしょう? 雄々しく殉教していくキリシタンは立派だと思いますが、そんな思いはしないにこしたことはないわけです。決して、「殉教者は教会の種」などとは言えません。殉教などせずに済む、真の普遍主義のキリスト教の道を究めるべきなのです。そしてキチジローに、「あなたこそ、クリスチャンですよ。そんなあなただからこそ、イエス様はおられるのだから大丈夫、心配するな。あなたは救われている」と言ってあげたいのです。そんなキチジローは映画の中だけではなく、私の目の前に沢山いるわけです。他人事には思えませんでした。

つづく

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)

 


晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」1

2017年5月28日、上智大学のホームカミングデイであるオールソフィアンズフェスティバル2017が開催され、この春より運用されているソフィアタワーにて晴佐久昌英神父の講演会が行なわれました。2013年より毎年恒例となっているこの講演会ですが、今年のテーマは「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」でした。その内容を3回にわたってお届けします。

 

1.ソフィアタワーにて

私は色々なところに講演に呼んでいただいていますが、このオール・ソフィアンの会には、毎年呼んでいただいており、嬉しく思っております。正直ここが一番落ち着くのです。また帰ってきたという気持ちです。

恒例の会場となっていた上智大学の3-521という教室は、私にとって思い出深い教室で、神学生時代の私がいつも爆睡していた教室なのです(笑)。それで来てみるとどこですか、ここは(笑)。会場は変わっており、ソフィアタワーという名前がつけられている建物の一階大ホールです。そりゃ綺麗なのだけど、慣れ親しんだ会場ではないので、「あてが外れたなあ」という思いです。

晴佐久昌英神父

先週私は、上野の教会から散歩に出かけて、上野公園の東京都美術館でのブリューゲルの展覧会に行ってまいりました。「バベルの塔」という絵を観てきました。これで二度目です。あのまがまがしき塔をつくづくと眺めておりました。「神のようなものになりたい」「有名になりたい」と思って、あの有名な塔を建てたのです。神はそれに怒り、人間同士の言葉を通じなくさせ、コミュニケーションできなくしたのです。絵を観て改めて、人間の業の深さ、「もっともっと」という欲の深さについて考えさせられました。

この「塔」にまつわる人間の愚かな話を、午前中ミサで散々話してからここにきますと、なんと会場が「ソフィアタワー」となっているではありませんか。なんということでしょうか! カトリック大学が自分の敷地内に「タワー」を建てて喜んでいるとは。そして中には大手銀行の本店を入れているなんて。これは事実です(笑)。

私は、こういうことなのだろうと信じたいと思っています。それは、世の中は本当に大切にすべきという優先順位を間違っている。何でも「金金」となっ てしまっていて、「天にまで届く塔を建てよう」という傲慢な世の中になっているではありませんか。特に金融の世界では、金持ちばかりを優遇して、貧しい人ばかりを踏みにじっているわけです。そんな現実の中で、さすがはカトリックの上智大学、大手の銀行をあえて身内に加えこんで、それを神の愛に満ちた銀行に変えていこうとしているのではないでしょうか(笑)。あおぞら銀行は、1Fロビーに、貧しい人にお金を貸すデスクを作ることでしょう。それがカトリック大学の敷地内にある銀行の姿です。来年、この講演に来た時に、チェックしたいですね(笑)。そうでなければ、「くろくも銀行」と呼んであげたいです。ちょうど、ブリューゲルの「バベルの塔」にかかっている黒雲のように。あおぞら銀行の今後に心から期待したいと思います。

 

2.殉教か、殉愛か

私、晴佐久神父のとりえは、優先順位を間違えないということを優先順位のトップに持ってくるということです。司祭生活30年、いろいろ試行錯誤してまいりました。何が優先順位のトップかというと、もちろん愛に決まっているのだけど、何か普遍的な愛、普遍主義的な愛を優先順位のトップにおいて行動しています。

最近、あるプロテスタントの教会に通っているという青年が私の教会の入門講座にやってきました。これは決して、プロテスタント批判をしたいとかそういうわけではなくて、カトリックの教会にもこういう傾向があるかもしれないということを前提とした上で言うのですが、その青年は牧師先生から叱られたというのです。それは日曜日の礼拝に出席しなかったからだそうです。でもそれは、彼は地元の商工会議所の集まりに行っており、地元を盛り上げるためと、コスプレーヤーってご存知でしょうか? いろいろなキャラクターの格好をするあれです。町おこしのイベントのために、コスプレをやっていたそうです。そういったものに携わっていたから、日曜日は教会に行けなかったそうなのです。

それを知った牧師先生はこう言ったそうです。「そんな所に君は行ってはいけない。あの人たちのところにイエス様は行かないよ。彼らは救われない人たちなんだ。あなたはこうして、救いの教会に来ているんだから、日曜日はあんなところに行かないで、教会の礼拝に来なさい」と。それで、彼は苦しみました。地元の仲間たちがいる、地元を盛り上げたい、応援もしたい、自分の仕事でもある。しかし牧師先生は言うわけです。「あの人たちは救われない人たちなんだ」「あの人たちのところにイエス様は行かないよ」。

その青年は苦しみぬいて、そのことを友人に相談しました。その友人は、今年の春私の教会で洗礼を受けた人でした。そのいきさつを聞いて、「うちの神父さんだったらそのようには言わないよ。一度うちの教会に来てみたら?」と言って、上野教会に連れてきました。そして私は彼に会いました。その青年は、びっくり仰天したわけです。言っていることが全く違うのですから。私は彼にこのように言ったのです。「あの人たちのところにイエス様は行かないよ、イエス様は自分たちのところにいるよ、などと言う人のところにイエス様はいないよ」と。そりゃイエス様は、どこにでもいると言えばいらっしゃるのだけど、「あそこにはいない」と、人が決めつけてしまってはいけないわけです。

上智大学ソフィアタワー(6号館)の101号室には、約350人が集まった

今日のミサの福音書の箇所、皆さん聞きましたでしょ? マタイによる福音書の最後の一行です。「私は世の終わりまで、あなたがたと共にいる」(28章20節)。これは、すべての人に語りかけたイエスの福音です。これは、「OOのところにはともにいるけど、××のところにはともにいない」といった話ではないのです。イエスはすべての人を選んでいるとも言えるわけなのです。マタイの最後で、すべての人を前にして、「世の終わりまで、あなたがたと共にいる(インマヌエル)」とイエスは宣言しているわけです。実に、美しい福音です。この一行を心の糧にして、この苦難の時代を、このバベルの町を生き延びようではありませんか。

本来ならキリスト教はその彼に対して、「君も地元のために、頑張っているんだね。私たちが教会でうまくいくように祈っててあげるから、安心して行っておいで」と言うべきではないですか? それが愛なのではないでしょうか。ガチガチな律法主義に愛はありません。「愛がなければ無に等しい」ということは、優先順位のトップに来るものです。「その人に何がしてあげられるだろうか」と考えることもそうです。その先にあるものが殉教でしょう。ヨハネによる福音書15章13節に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。しかしこれは、殉教、すなわち「教えに殉じた」のでしょうか? 違うと思います。これは「愛に殉じた」のですから、「殉愛」と言えるものでしょう。

たとえばアウシュヴィッツで、あの有名なポーランド人のコルベ神父が死にたくないと泣き叫ぶ他の人の身代わりとなって死にました。そのことから殉教者と言われますが、これも厳密には、「教えに殉じた」のではなく「愛に殉じた」と私は思います。掟があるからいやいや身代わりになったのではありません。泣き叫ぶユダヤ人に対して、自分の生命よりも愛を優先順位のトップにしたからこそ、身代わりになったのでしょう。

イエスは殉教したのですか? イエスの死は殉教ですか? 「掟に殉じた」のですか? やはり違うでしょう。「愛に殉じた」と思います。弟子たちを愛し愛し愛しぬいたゆえに、「お前たちを生かすために俺が死ぬ」というのがイエス様がなさったことです。決して、イエスは弟子たちに殉教を求めないはずです。「神は殉教を望んでおられるか」という問題提起に対して、本題である映画「沈黙―サイレンス―」について考えていきましょう。

つづく

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)

 


聖霊なんてわけがわからないよ、という人のために

アニメやゲームの主人公には、特別な力や能力を持っている場合が少なくありません。それは作中人物の中でも他の誰にも使えない能力で、主人公およびその仲間たちにしか用いることができません。作品によりけりですが、惑星一つ簡単に破壊できるビームを放つキャラクターもいれば、身近な問題解決にそれを役立てるキャラクターもいます。

最近の流行で言えば「魔法少女もの」がその典型です。もちろん、新しい作品は既存の番組との差異化を目指して変わっていきますから、ジャンルそのものが進化します。その結果、最近では主人公が悪者を倒す単なる勧善懲悪に収まらない設定が人気を呼んでいます。たとえば、そのような魔法の能力を得るためにとてつもない代償を払うことになったり、特に外来の敵が現れるのではなく特殊能力を持った人間同士が戦う羽目になる悲しい物語もあります。他にも魔法の力で兵器を動かすパターンや、さらには舞台を第二次世界大戦のヨーロッパに移した作品、一人前の魔法使いになるための学校での生活を舞台にしたファンタジーな作品もあります。

主人公たちはこのような能力を先天的に持っている場合もありますが、ある時突然なにかの出来事やきっかけによってその能力に目覚めたり、与えられたり、あるいは避けられない運命として付与されることもあります。

「主の霊が彼の上に臨んだ」、「主の霊がギデオンを覆った」、「主の霊がサムソンを奮い立たせ始めた」。これらは旧約聖書で登場人物が「霊」によって特別な力が与えられるときの典型的な表現です(それぞれ士師記3章10節、6章34節、13章25節)。「霊」と鍵括弧をつけたのは、実はこの言葉が空気の動きや風を表す言葉でもあるからです。ヘブライ語では「ルアッハ」と言います。旧約聖書に380回ほど出てくるこの言葉ですが、おおよそ3分の一ほどは風の意味で用いられています。呼吸の「息」の意味でも用いられます。しかしここでは風ではなく、神から与えられる力、というような意味です。正確に翻訳するのは不可能ですが、「神の息吹き」とも訳せます。風と無関係ではありません。他の宗教やサブカルチャーなら、自然を含めた世界のどこか、あるいは地球の外からやってくるであろう不思議な力は、旧約聖書の世界観ではすべて主なる神から与えられるのです。

さて、士師記での彼らはリーダーとなってイスラエルの民を統率します。神によって選ばれた指導者としてイスラエルの民の苦境を救うのです。イザヤやエゼキエルたち預言者も神からの霊を受けます。

夜の秋葉原にて

このような霊を受ける者の最たるは、王になる人物です。「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」(サムエル記上巻16章13節)。このダビデ王の即位の様子は聖書の中の歴史上、決定的な出来事として描かれます。主の霊とは、地上の歴史の只中で神の計画を実現するために働き、行動させる活力なのです。そして新約聖書のマタイ福音書によれば、このダビデの子孫からイエス・キリストが生まれます。

最後に、ヨエルという預言者はこんなことを言っています。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人たちは夢を見、若者たちは幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」(ヨエル3章1-2節)。すべての諸民族に神の霊が降るというわけです。新約聖書の使徒言行録2章に記されて今も教会が祝っているペンテコステ(聖霊降臨)は、この預言の成就です。これもまた歴史上決定的な瞬間です。教会の中では、主の霊はみんなに開かれているのです。もちろん教会の信者は魔法少女みたいに変身したりはしませんが。

文・写真=石原良明(AMOR編集部・サブカルマニア・聖書読み)

 


第41回日本カトリック映画賞授賞式&上映会レポート

2017年5月20日、第41回日本カトリック映画賞授賞式&上映会(主催:SIGNIS JAPAN、後援:カトリック中央協議会広報)が、中野ZERO大ホール(東京都中野区)にて行われました。

1976年に始まった日本カトリック映画賞は、毎年、前々年の12月から前年の11月までに公開された日本映画の中で、カトリックの精神に合致する普遍的なテーマを描いた優秀な映画作品の監督に贈られます。今回の受賞作は、片渕須直監督『この世界の片隅に』(原作は、こうの史代さんによる同名の漫画)です。

受賞理由について、日本カトリック映画賞を選ぶSIGNIS JAPAN(カトリック・メディア協議会)の顧問司祭である晴佐久昌英神父は「今年ほどこんなに誇らしく、幸いな気持ちで受賞理由を述べるのもめずらしいくらいの大きな喜び、というくらい、この映画が大好きです」と話し、一番の受賞理由として、「最初に映画を観たとき、今という時間や生活、そして一人ひとりを大切にしなければと思いました。一人ひとりのうちに秘められた尊さをもっと大切にしたい。その気持ちを皆さんにも味わってほしい」との思いを語りました。さらに主人公のすず(CV:のん)が自分にとっては実在の人物で家族同然だと述べた上で、「この世界の片隅に誰が住んでいるのか。この世界の片隅に、どうでもいい人がいるわけではない。その人が幸せでなければ私も幸せになれない。この世界の片隅に幸せが訪れない限り、誰も幸せになれない。こんな当たり前なことにもう一度気付かせてくれた。わたしはこれからすずさんと一生いっしょに暮らしていくことになります」と熱く思い入れを語りました。

この映画が教えてくれる福音的なメッセージとして、「これらの小さなものの一人を軽んじないように気をつけなさい」(マタイ福音書18章10節)という言葉を引用し、「聖書の時代も今この現代も、この世界の片隅の一人ひとりが軽んじられている。しかしこの世界の片隅こそが、この宇宙の中心なんです」と話し、他者や弱者を大切にするまなざしや思いを新たにしてくれるこの映画への感謝を述べました。

 

授賞式の様子(土屋至・SIGNIS JAPAN会長より、表彰状が手渡される)

クリスマスみたいなのをやれるのが平和だと思う

晴佐久神父と片渕監督の対談は、「日本カトリック賞と聞いてどう思いましたか」という晴佐久神父の質問から始まりました。片渕監督は「そんな賞があるんだなと思った」と正直に答えましたが、実は家系がカトリックと縁があるとのこと。ひいおばあさんがカトリックの信者で、ご自身も教会に所属の幼稚園に通っていたそうです。

それを受けて、「冒頭で賛美歌が流れていたことと何か関係があるのですか」と晴佐久神父が聞くと、「そういうわけではなく、クリスマスのシーンを表現するために賛美歌を使った」ということです。原作は翌年の昭和9年の1月から始まっているため、このシーンはアニメオリジナルです。これについて監督は「クリスマスみたいなことをやれるのが平和なんじゃないかなと思って」と話しました。このクリスマスのシーンは非常に重要な意味を持っています。

 

理不尽さと救い

次に、晴佐久神父が「映画を観て、普段の生活が突然壊される恐ろしさや理不尽さ、機銃掃射(きじゅうそうしゃ、機関銃で敵をなぎ払うように射撃すること)のリアリティを感じました」と感想を述べると、監督は「本当は日常だけを描きたかったんです」と話しました。しかし、「原作はあえて戦争も描いているので、それによって日常のかけがえのなさや意味深さが見えてくると思った」と続けました。

また、「すずさんと晴美さんが歌を歌ってるところから始まって、それがラッパの音になって、それから大きな音が聞こえてきて、大砲の音が鳴って」というような戦争の描写についても、「音によって戦争が発展していくのは、漫画では表現できないこと」であり、色についてもそれが同じであると監督は言います。空が爆発しているシーンは非常に色とりどりで、晴佐久神父は「きれいだなと思っちゃった」と話しました。実際にお二人が戦争を体験した人から聞いた話には、赤く染まった空がきれいだったとか、B29がきらきらしていたという感想もあったそうです。

できあがった2時間の映画を通しで見たあとに、監督は「すずさんを救いきれていないような気がした」と感じたそうです。生き残ってしまった人が自分のせいで誰かが死んでしまったのではないか、と罪の意識に苛まれてしまう「サバイバーズ・ギルト」というものがあります。監督は、すずさんの背負ったものが大きすぎると感じ、エンドロールにもアニメーションを入れました。「あのエンドロールのおかげで、私たちも本当に救われた気持ちになる」と言う晴佐久神父に対して、監督は「本当にあそこまでそろって一本の映画なんじゃないかな」と応えました。ここもアニメオリジナルのものです。

 

片渕監督と召命

この映画によって救われたのは、すずさんや観客だけではありません。晴佐久神父が「監督のこの映画を作ろうと思ったモチベーションはすごいなと思いました。それはただのエゴや仕事を超えた何か、これはどうしても作らなければっていうような思いが自分の中にあったのではないかと思ったんですが、いかがですか」と尋ねると、監督は「一つはこれを作ることで、自分自身としても救われるんじゃないかなという気がしました」と答えています。

片渕須直監督(後ろは幸田和生・SIGNIS JAPAN顧問司教)

監督は原作を知ったときから、これは多くの人に観てもらえるものになると思っていたそうですが、「こういう映画を形にすることができるなら、自分が今まで生きてきたこと、経験してきたことが色んな意味でその映画の中で結実できるというか、自分がここまでやってきたことが無駄じゃなかったんだなという意識を抱けると思った」と続けました。

また、この映画を作るための資料集めが苦にならなかったという「オタク気質」な監督は、戦闘機や飛行機がお好きだそうで、その知識も豊富です。そのような積み重ねがこの映画につながっており、「このために僕は存在していたんだろうかって思ったくらい」だと話します。それに対して、晴佐久神父が「カトリックではそれを『召命』って呼ぶんですよ。神に選ばれて使われているんだって考えです」と言うと、監督は「誰かに使われているんじゃないのかなっていうふうな気持ちは本当にしました」と語ります。

 

どこにでも宿る愛

映画の最後のほうで流れる歌に、「どこにでも宿る愛」という歌詞が出てきます。「周作さんという旦那さんとすずさんは本当にたまたまの偶然みたいなもので出会ったかもしれないけれど、出会ったがゆえに愛情が芽生え、育っていくこともある」と監督は話し、「一番最後の広島で見つけてきた孤児ともたまたまの出会いなんですけど、そこに宿る、宿っている、育っていく愛があったろうなと思う」と続けました。

原作では、この言葉はすずさんの失われた右手の言葉として出てくるそうですが、「そういう意味では、悲劇は悲劇だけれども、決して悲劇で終わらず、失ったかに見えるものが非常に大きな働きをしている。希望になりますね」と晴佐久神父は話しました。

 

一人ひとりの大切さ

印象に残ったシーンとして、「群集のシーンが忘れられない。本当に一人ひとりが生きているというか、ちょっと駅ですれ違っているような人、ちょっとおしゃべりしているような人も、その一人ひとりにすずさんと同じ場面や人生というか、喜びや悲しみがあるんだなと思った」と語った晴佐久神父。それについて監督は、「自分は映画の中に存在している群集のほうかなって思ってしまうので、自分もここに存在しているから気にしといてね、という感じで」とコメント。

それを受け、晴佐久神父は「一人ひとりを大切にして作られている映画だなという気持ちになったし、僕らも自分中心で生きているけれども、ふっとすれ違った一人ひとりがとても尊い人生を生きているんだなと感じさせてくれた」と話しました。さらに、一人の司祭としてこの映画を選んでよかったことでも、「この作品の奥に一人の人間の美しさっていうものを私たちはきちんと見ることができる、表現することができる、そういう希望や励ましをもらったのが大きかった」と、動くすずさんに出会えたことの喜びを熱く語っていました。

 

晴佐久神父とアニメ

監督は幼稚園に上がる前からアニメーションを見始め、東映の長編アニメーションや鉄腕アトムというタイトルが出ると、同世代かもしれない、と晴佐久神父が反応(片渕監督は1960年、晴佐久神父は1957年生まれ)。さらには「映画を観ていてカット割りが本当にテンポよくって、こんなに観ていてゆったりしたほがらかな気持ちで観ていながら、よく見るとカット割りは本当に細かくきちんとつながれていてびっくりした」と話しており、受賞理由でも『君の名は。』に触れるなど、晴佐久神父はアニメーションにかなり詳しいようです。「カット割り」は映像関係の専門用語ですが、神父様の口からそんな言葉が出ることに少し驚きました。さすがはSIGNIS JAPANの顧問司祭。

晴佐久昌英神父

晴佐久神父が指摘したように、テンポが速いのには理由があります。原作の漫画は週刊連載でたくさんのエピソードから成っているのですが、それをできるだけ全部入れようとしたためにこのようなテンポになったそうです。晴佐久神父が「本当にテンポがぽんぽんと、もっと観ていたい、美しい絵なのに、あっという間に過ぎていく」と名残惜しそうに言うと、「すずさんのある一日を長く描いて、代表的な何日しか描かないという方法もあったのですが、すずさんがお嫁に来てからその先の丸二年間、こういう毎日があったんだよっていうことを紹介したかったんです」と監督は述べました。

そして、晴佐久神父が「ずーっと長く愛されますよ。『この世界の片隅に』以前以降って言われるくらい、大きな影響力を持っていて、特にこの年代(70代や80代、時には90歳を越えた方もいたようです)の方たちがアニメを観るっていう(のはなかなかないこと)」と絶賛すると、片渕監督は「そういうのは本当にありがたいなと」と述べ、続けて「アニメーションには色んな可能性がまだ秘められていると思っていますので、こういう映画も作れるし、また別のタイプのも作れるでしょう。色んなジャンルがアニメーションという技法で表現できるし、作られると思いますので、もしそういうのを見かけたときは是非ご覧になっていただけたらありがたいかなと」とアニメーションの可能性を語りました。

 

映画の見どころ

対談の様子

最後に、大切に観てほしいシーンを聞かれた監督は、意外にも「服」に注目してほしいと答えました。その理由を「すずさんは色んな服を着ているように見えますが、実はそんなに多くの数を持っているわけではない。小さいころにおばあちゃんがくれた椿の柄の着物や、お義姉さんモガ(モダンガール)だったんですね、と言っていたお義姉さんの服がどうなっていくのかというように、服の上にも歴史があるので、その服の運命を観てほしい。びっくりするくらいドラマチックです」と語りました。

最盛期よりは上映館数が減ったものの、今回のようなホールでの上映や、季節柄8月にも再上映の可能性があるとのこと。最後に、監督は「何度も観ることで、また違ったものが見えてくると思います。群集の一人ひとりに色と表情がついていて、世界の切れ端がこの映画の中にあります。画面の真ん中だけでなく、端っこにもたくさんのドラマが潜んでいるのかもしれません」と述べ、晴佐久神父が「画面の片隅にも注目ということですね」と締めくくりました。

(文:高原夏希、写真:石原良明/AMOR編集部)

 


『ローマ法王になる日まで』トークディスカッション付き特別上映会レポート

2017年4月27日、上智大学において、6月3日より公開される映画『ローマ法王になる日まで』のトークディスカッション付き特別上映会が開催されました。

上映終了後のトークディスカッションは「宗教対立やテロが頻発する現代に大きなメッセージ! 現在のローマ法王・フランシスコの半生から『平和な社会』を考える」と題し、本作の監督であるダニエーレ・ルケッティ氏、上智大学神学部教授でカトリックセンター長のホアン・アイダル神父、イエズス会日本管区長のレンゾ・デ・ルカ神父が登壇しました。二人の神父はアルゼンチン出身で、サン・ミゲルの神学校時代に、ローマ教皇フランシスコ(当時ベルゴリオ神父)から直接指導を受けています。

 

ダニエーレ・ルケッティ監督

バチカンと世界との間の壁に穴を開けた人物

まず、監督から二人の神父へ、二人の神父から監督へと、交互に質問が交わされました。ホアン・アイダル神父からは、「ヨーロッパ人から見た教皇とは、どんな印象ですか。南米人だなと感じるようなことはありますか。また、今までの教皇との違いなどあれば、教えてください」という質問がありました。

それに対して、ダニエーレ・ルケッティ監督は、「フランシスコ教皇は、ダイレクトな形で人々とコミュニケーションを取っているという印象があります。また、無宗教の人とも話をすることができる。このようなことによって、バチカンと世界との間の壁に穴を開けたと思います」と答えました。また、映画本編(つまり神父や補佐司教時代)の人物像についても、「人々のために有益なことをしようとした人だが、必ずしもヒロイックではない」と述べています。

アイダル神父も「自分の感情を抑えて人々のために、というのは素晴らしいことですが、自分自身の苦しみを生むものでもあったでしょう」と話し、「結び目を解(ほど)くマリアに出会ったことによって、初めて他人のことだけではなく、自分のことも考えていいと思えるようになったのでは」と続けました。この「結び目を解く聖母マリア」というのは、映画本編で非常に重要な意味を持っています。

 

ホアン・アイダル神父

教皇は右でも左でもなく、キリストの側にいる

次に、会場にいた学生からの質問へと移り、その中に「教皇はポピュリストなのですか」という質問がありました。ポピュリズムとは、「民衆の情緒的支持を基盤とする指導者が、国家主導により民族主義的政策を進める政治運動。1930年代以降の中南米諸国で展開された。民衆主義。人民主義」(『大辞林』第三版より)であり、政治的な意味を持っていますが、「ポピュリストが組織や国(の利益)よりも人を大切にする、という意味であれば、そうでしょう」とアイダル神父は答えました。ルケッティ監督は「貧しい人のいる地区に実際に赴くという活動は、あまりヨーロッパの教会ではやっていないように思われます。アルゼンチンでは、政治の力が及ばないことも教会がやっている」と貧しい人を助けるベルゴリオ神父の姿を賞賛しました。

また、映画の中でベルゴリオ神父が「あなたはどちら側の人間か」と聞かれる場面が二度あるのですが、一度目は「そんなことに意味はない」、二度目は「キリストの側にいる」と答えています。これについて、アイダル神父は「教皇は自分がどう見られるかを嫌い、あまりそういうこと(右か左か)を考えていない。それは見る側の問題であって、教皇は右でも左でもないと思います」とコメント。さらに、「枢機卿時代は保守的だったと言われますが、それにも理由があります」と述べ、「政治家がカトリックだと言いつつ、その精神に反するようなことを行なっていたので、彼は真に教会を守る立場にありました」と続けました。

 

レンゾ・デ・ルカ神父

「平和な社会」をめざして

最後に、司会者から「宗教対立やテロが頻発している現代社会において、ローマ教皇の役割や存在はどんな意味を持つと思いますか」というトークディスカッションのテーマに関する質問がありました。

ルケッティ監督は無宗教だそうですが、「宗教は平和をもたらすことができるものだと思います。そしてそれは、自分の宗教の外に対してもそうであってほしい。文化的スペースを広くし、対話を多く持ってほしい」と宗教間対話、あるいは無宗教の人たちとの対話、そして平和についての希望を述べました。

ルカ神父は「教皇はリーダーとしての存在感が非常に大きいです。現代はリーダーに対する不信が見られるので(教皇には期待できる)」と述べ、アイダル神父は「世界を変えたいという思いはどんなリーダーも同じだと思いますが、それぞれ方法が違います。教皇は暴力ではなく、ゆるしや他者中心ということを大切にします。私たちはそんな教皇に希望を持っています」としめくくりました。

 

上映会・トークディスカッションを終えて

リーダーが変わるとき、人は大いに期待します。しかし、その期待がすぐに落胆に変わってしまうことも少なくありません。ところが、教皇フランシスコは、就任から現在までその人気や期待、信頼を持続しているように思われます。それはやはり、教皇にそれだけの実績があるからでしょう。多くの人々とダイレクトに触れ合うことをはじめ、アメリカとキューバの国交正常化交渉の仲介、ロシア正教会モスクワ総主教との歴史的な対話、アメリカと北朝鮮との対話の呼びかけなど、自ら平和のために精力的に働き、カトリック信徒だけではなく世界に大きな影響を与えています。

しかし、この映画の中のベルゴリオ神父は「必ずしもヒロイックではない」のです。ヒーローのようにカッコよくスマートに物事を解決できればよいのですが、現実はもっと複雑で難しく、それこそ「結び目」がたくさんあります。右か左かではなく、「キリストの側にいる」という立場はシンプルではありますが、いざ実際に行動しようとするとなかなか思うようにいかず、政府ばかりか教会内の様々な立場との間で板挟みになって苦しむことになります。

それは、管区長や補佐司教としての責任感や、仲間や友人などより多くの人を助けたいという気持ちが強くあったからでしょう。何より、カトリックのキリスト者としてふるまおうとしたがゆえに、そのような困難に直面していたのだと思います。そして、それが真に平和を作る人間を形づくったのではないでしょうか。

教皇は現在も世界中に存在する「結び目」を解くために奔走しています。すべての人が教皇のように大きな行動を取れるわけではありませんが、人知れず行なわれた小さなことも、身近な誰かの「結び目」を解いているかもしれません。それを多くの人の目に見える形で行なっているのがフランシスコ教皇であり、だからこそ人々は教皇に大きな希望を持っているのだと思います。

(文:高原夏希、写真:石原良明/AMOR編集部)

 

【登壇者プロフィール】

ダニエーレ・ルケッティ監督
1960年ローマ生まれ。友人のナンニ・モレッティが監督した『僕のビアンカ』(83)にエキストラ出演後、同監督作品で助監督、俳優として関わる。CM制作を経て、映画デビュー間もないマルゲリータ・ブイを起用した長編『イタリア不思議旅』(88)でデビュー、イタリアのアカデミー賞にあたるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の最優秀新人監督賞を受賞、第41回カンヌ映画祭<あ る視点>部門ノミネートされた。代表作は、エリオ・ジェルマーノにカンヌ国際映画祭の男優賞をもたらした『我らの生活』(10)。他に東京国際映画祭で上映された監督の自伝的作品『ハッピー・イヤーズ』(13)など、コンスタントに作品を発表しているイタリアの名匠である。

ホアン・アイダル神父:上智大学神学部教授・カトリックセンター長
1965年生まれ、アルゼンチン出身のイエズス会員。現ローマ法王フランシスコ(当時ベルゴリオ神父)が1980-86年にかけて院長をつとめたサン・ミゲル神学校神学科・哲学科にて通算4年間直接指導を受ける。

レンゾ・デ・ルカ神父:イエズス会日本管区長
1963年アルゼンチン生まれ、1981年イエズス会へ入会。サン・ミゲルの神学院時代、現ローマ法王フランシスコ(当時ベルゴリオ神父)に3年間直接指導を受ける。1985年来日。上智大で日本語、哲学、神学を学び、長崎に派遣され1997年より日本二十六聖人記念館副館長を務める。2004年より日本二十六聖人記念館館長を務め、キリシタン歴史研究に貢献。2017年よりイエズス会日本管区長。

※本記事ではカトリック中央協議会の方針に従い、作品名などを除いては「法王」ではなく「教皇」という表記で統一させていただきました。

 


聖母マリアの名にちなみ

マリア、という名前を聞いて聖母を思い浮かべる日本人はそう多くないかもしれません。欧米では一般的な女性の名前の一つです。そこからマンガ等々に大変よく登場してきます。ニコニコ大百科に主な使用例が列挙されています。そこだけでも40ほどはありますが、当然その程度ではないでしょう。

聖書の中では、この名前はモーセの姉であるミリアムに遡ります。エジプトを脱出したイスラエルの民をモーセとその兄弟アロンとともに導いた指導者として登場する人物です。元々はエジプトにいて、生まれたばかりのモーセが殺されないように機転をきかせて助けたのは彼女です。有名な海を渡るシーンでは、無事に海を渡ったあと、ミリアムがタンバリンを持って神を賛美して歌い出すという場面があります。別の箇所ではアロンとともにモーセにたて突いて罰を受けて病気になったりもします。このミリアムが、アラム語やギリシア語を経由して、後にマリアという名前になります。

このミリアムという名前の意味なのですが、実は詳しいことはわかっていません。「神の贈り物」、「愛された者」という意味が提案されていますが、「苦い海」「反抗する者」「太った者」という諸説も提案されています。聖書では人の名前で人物描写することが稀ではなく、このように本来の意味がわからないと、難しいとしか言いようがなくなってしまいます。物語から直接人物を想像するしかありません。

さて、ローマ帝国末期の時代の聖人で聖書解釈者として有名なヒエロニムスという人がこのミリアムの名前の意味を「海のしずく」と解釈しました。ミリは元はマルで滴という意味、アムはヤムで海の意味だというのです。ラテン語では Stilla Maris となります。これが後にどういうわけだか Stella Maris「海の星」という言葉となって、マリアの称号、タイトルとなってカトリック教会に定着していきました。羅針盤が中国からヨーロッパに伝来し発達するまでは、船乗りにとって天測、星の導きが唯一の頼りでした。中世からアヴェ・ステラ・マリスという祈りがありますが、聖母マリアに数多くあるイメージのひとつに、このような暗闇の中で輝くマリアというイメージがあります。海沿いや港町の学校や病院に「海星」や「海の星」という名前の施設がたまにあるのはこういうわけです。マリアに献げられたもの、という意味でそう名付けられるわけです。

ところで、マリアは英語ではメアリー、フランス語だとマリーになるのは有名ですが、英語圏で教会に行くと Our Lady という表記を頻繁に見かけます。ドイツ語では Unsere Lieb Frau(ウンゼレ・リープ・フラウ)、フランス語では Notle-Dame(ノートル・ダム)、ラテン語やイタリア語では Madonna(マドンナ)です。これは「我らの淑女」「私たちの貴婦人」という意味で、聖母マリアのことを指しています。「マドンナ的存在」という表現はここから来てるんですね。

文・写真=石原良明(AMOR編集部・サブカルマニア・聖書読み)


エゼキエルさんの足下には死体が埋まっている

復活祭のシーズンを迎えました。世間では、2015年の秋アニメでも注目を集めた人気小説『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』(太田紫織著・角川書店刊) のテレビドラマ化が話題になっているそうです。この話というのは、骨を愛する標本士、主人公・九条櫻子が高校生で助手役の館脇正太郎とともに殺人事件や人物たちの心の問題を次々と解決していくミステリーです。推理と謎解きが実に爽快です。アニメ版ではCGによる美しい描写が大変注目され、私は魅了されました。櫻子さんの動物の骨に対する異常な愛情と知識の叙述は本格的なミステリーにより深みを与えており、組み上げられた白骨標本は「生き生き」としています。ドラマ版では櫻子さんのマッドな性格がどれだけ再現されていくのか楽しみです。

そんな櫻子さんが喜ぶかどうかわからない場面が、旧約聖書にはあります。このコラムではその記事から復活について考えてみたいと思います。

エゼキエル書37章の『枯れた骨の復活』です。エゼキエルという人はバビロン捕囚でイスラエルから連行された祭司なのですが、ある日神からの啓示を受けて預言者になった人です。中でも黙示録のような幻を見ることで有名です。

そのエゼキエルが、ある日不思議な幻を見ます。まずある谷に連れて来られます。そこはたくさんの人骨でいっぱいでした。さて、神の命令の通りにエゼキエルが預言を発すると、その朽ち果てた骨がカタカタと音を立てて組み上がって、そのうちに肉がついて皮膚が覆います。さらに四方に吹き渡る風が彼らに入って立ち上がって大きな群衆になります。すさまじい描写です。

神によれば、彼らは「イスラエルの全家」であり、「われわれの骨は枯れた。われわれの望みは失せ、われわれは滅びる」と言っています。それに対して、神はエゼキエルに「わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」と言うよう指示します。死んで終わりでは決してない、絶望の思いに対する神からの答え、と言えるでしょうか。

「鹿の頭蓋骨」2015年5月、奥多摩山域・石尾根登山道の千本ツツジ付近(標高約1700m)にて。 撮影:佐治多利康

祖国は滅亡、民族も離散。夢も希望もない。絶望しかない。しかしそれでは終わらず、「新しい心」「新しい霊」が与えられるというのです。この幻を通してイスラエルの復興が示され、そのイスラエルの民は神の霊を注がれた民となる、というわけです。イスラエルの民全体の復活です。個人の復活や本格的な復活思想の発展はさらに後の時代に起こり、それが新約聖書に流れ込んでいきます。

ところで、この預言は新約聖書で地味に「実現」しています。マタイ福音書27章52~53節です。十字架で磔になったイエスが死ぬと天変地異が起こりますが、その時「イスラエルの聖なる者たち」が復活して聖徒に押し寄せて入ってくる、というのです。イエスの復活パワーが大いに力を及ぼしている、というところでしょうか。いずれにしても、櫻子さんなら「せっかくの骨がもったいない」とか言いそうな場面です。

(石原良明/AMOR編集部・サブカルマニア・聖書読み)