神さまの絵の具箱 30

末森英機(ミュージシャン)

「あなた以外の、生き物が、流す涙を、あなたは見たことがないのですか?」

「身体を蹴られているんですよ」

「他人(ひと)の不幸は、あなたの不幸ではないのですか?」

「ひとが苦しめば、あなたも苦しい?」

「ひとの痛みは、わたしの痛み、主人を守る犬のようにぶつかってゆくことはありますね?」

「寒さのなかで、置き去りにされた、よそ者をどうしますか?」

6年間、通わせていただいた、東北の被災地で、しっかりと胸に結びつけて帰京した言葉。けっして、忘れられない言葉のひとつひとつに、それを語っていらっしゃる、ひとりひとりの胸にも、最後の審判のような朝がきっと来る。そのためにも、苦しんでいるひとと、苦しむ。悩んでいるひとと、悩む。喜んでいるひとと喜ぶ。それが、おおきな弱さをたすける。ひとの、幸せのために生きるという、確信になる。愛は、ほかのひとのなかに、住まうということが、見えてくる。ひとびとの、なかの神。こころを、没頭することができる。愛ゆえに、流れる涙をこらえなければならない、ひととの邂逅(であ)いもある。

信じることで、奇跡をもったひとびとがいる。神にふれることも、見ることも、ぢかに知ることもなく、ただ信じることで。ひとのすばらしいところ、神を愛することができるということ。「目が見もせず、耳が聞きもせず、ひとの心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」(Ⅰコリント2:9)愛ゆえに、愛ゆえに。


神さまの絵の具箱

末森英機(ミュージシャン)

死が近づく。呼吸は出口を求める。そのとき、ひとりひとりの人間は、その胸に、最後の審判の朝を、はたして、見ているのだろうか。それとも、底なしの闇の時間を、さらに、眠り続けて、いるのだろうか。

あのとき、あなたは、美しい恋人のために、極上のギフトをするために、胸にすばやく、十字を切ると、アザラシの子どもを、撃ち殺した。

欲望にただ、苛まれる、全世界で起こることだ。

夕べ、人を殺した手は、次の朝、食卓で妻や子どもたちのために、祈りのあと、パンを裂く。いつでも、悪魔に都合のよい時間が、訪れる。

奴隷にされた者。奴隷になった者。奴隷の奴隷になった者。そして、奴隷に生まれた者。人間は、主への、信仰によって、この世に住むことを許されたのでは、なかったのか?心を込めて、主を思いつづけた。辛抱は、報われるから。

愛のもっとも気高いかたちである、赦し。身に覚えのある、暗闇。そして、人ならば、こみあげる、愛の想いに、涙の海にも浸かってしまうこともあるだろう。目の光は、虹となる。

闘うということ。洗い場の女が、酔って騒ぐ、男たちに、棒で殴られる。すぐさま「殺しあうなら、裏のお庭で、やってちょうだい!ここは、洗ったばかりなんだ!」と女将の怒鳴り声がぴしゃり。


神さまの絵の具箱 28

末森英機(ミュージシャン)

わたしたちは、神さまの道具になりたい? わたしたちは、神さまの奇跡の、道具になる。

十字架と復活は、ほんとうの、つまずき。そう言ったのは、キルケゴールだったかしら? この十字架と、復活の前に、わたしたちは、粉々に、打ち砕かれること! ときならぬ、終わりにも、ときならぬ、始まりにでさえも。のりこえるため、だとか、のりこえられる、だとか。沈みに沈んでも、わたしたちは、とげのついた棒を、サウルのように、旅を続けるならば、蹴りつづける。神さまの、道具に、なりたい?たとえば、重い皮膚病を患う者を、抱きしめる、使徒。あくまでも、文字ではなく、霊の乞食たる、使徒。喜びが、満たされて、それが、熱病のように広まってゆく、使徒。もうひとつの、世界を歩く、靴の使徒。若い命の、自殺で終わる、使徒。魂について、いくつかの転生を語る、使徒。ユダヤ教のラビたちわたしたちはが、集まる使徒。パルチザン運動の、使徒。ブッダと、マハーヴィーラと友情を結んだ、使徒。クリシュナやアヴァターラと歌う、使徒。神の愛が、先になければ、わたしたちが存在しない、使徒。パレットと絵筆を、持った使徒。ギターを持った使徒。ふつつかなしもべ。馬と鹿。ロバとウマのあいだの、ダバと呼ばれる、使徒。パレスチナの駆けつける、深い思いやりの、イエスの使徒。わたしたちは、傲慢にも、こうして、神さまに向かって、斧を振り上げる。それでも、はなはだよい、と神さまは、おっしゃられる。神の相続人よ(ガラテヤ4:5〜6、エペソ1:5)。ねたみ深い、神だからこそ!


神さまの絵の具箱 27

末森英機(ミュージシャン)

疵(きず)のない善。それを言うのは、滅びることのない悪である。その言葉をあらわすのは、イエスが、足の骨を折らずに、殺された、というしるしである。砕かれる者と、砕く者がいる。そして、にもかかわらず、その骨は、ひとつも砕かれないと聖書に3回も出てくる。その道しるべ的な、しるしを、3回も受け取っているのに。人間には、やがて、悪魔に都合のよい時間だけが、訪れるようになる。欲望過多症に苛まれる全世界。かなうということは、疵のない善を自己実現することだから。ならば、かなうということは、ありえないのか? 神理の言葉も、根を張らなければ、実りは幻。慈悲にのみ、満たされようとする人間の体には、罪だけが、宿り続ける。悪いことが、起きたときには、その不運を当然のことと思わず、嘆き苦しむ。汝の敵を、愛せよ! おまえの愛で、相手がうんざりするほど、愛してやればいい! 愛はどこを取っても喜び! 愛し愛されすぎて、地上に天敵がいなくなってしまったら、悪はどうなる? 愛を閉じ込める閂(かんぬき)が、枷(かせ)があるものか? あなたはほんとうに、隣人(となりびと)の塩と薄粥(うすがゆ)になれるのか。人間は、知れば知るほど、無知であることを知るようになったことに、感謝しなければならないことを、いつかしら悟る。いつ? あのとき、創り主の呼びかけに。裸の姿を、隠そうとしたのは、無知のなせる業で、あったろうか。善と悪を、語ることこそ、浅ましい生まれを生む。わずかな塩と、澄んだ水のような粥を、隣人からいただくとき、きっと「その骨は、ひとつも砕かれない」(ヨハネ19:33)。『神は誰の行ないが優れているか見るために、生死を創った』(コーラン第67:2)。
*その骨はひとつも砕かれない(出エジプト12:46、民数記9:12、詩篇34:20)


神さまの絵の具箱 26

末森英機(ミュージシャン)

世界でいちばん不運で、幸せな、わたし。とは、どんなことがあろうとも、変えたくて、変えられなくて、でも、始まりだけが、春だと覚えていること。きれいに、疑うことを、知らないこと。酔っぱらいの、ユメでもいい。なぜ、わたしに。イエスのあかしが、なされたのか?エゴがしぼんでゆくように、わたしには、見えている。イエスのスケッチが。イエスのポートレートが。イエスのスクリーンを見るように。すると、エゴはしぼみ、かれてゆくばかりだ。なぜなら?彼とともに、彼のうちにある、ということはそのことだから。きく耳を、つくってくださったのは、そのためだったから。最高、実在の化身ではない。ただ、唯一、不可分のイエス。と、わたし。祭服などまとわずに、花を集められる。いつでも、どこでも、異邦人になれる、わたし。たとえ、異教の香りのなかでさえ。頭のてっぺんから、爪先まで、すっかり変わっても、彼をして、自由。もはや、時を告げる鐘もいらない。だって、始めのない、時間から「先にガリラヤに行っている」(マタイ26:32)と、ひとつの火の粉を目印にされたイエスだから。


神さまの絵の具箱 24

末森英機(ミュージシャン)

あるとすれば、正義の戦(いくさ)に、〝奇跡〟は、瞬間の出来事(もの)。露で顔を洗ってくれるような〝癒(い)やし〟は、進行するもの。
「主は、主のときにわたしをいやす」(ルカ17:12-19)
神の時まで、待つ!
子どもにする、おやすみの、小さなキスのようなもの。だれかの手が、やわらかい髪に触れるのを感じ、それから、ひたいにうっすらとした、ほおに、小さなくちづけを受ける。両方の腕で、受けとめてくれる。
世界の一方のはずれから、世界のもう一方のはずれまで、主とともに、過ごすならば。信じる者にとって、足りないものは、なにひとつない、と聖書は言っています。
踏みつけられた花にも、しおれた花にも、摘み取られた花にも、襲いかかる混沌(カオス)さえ、愉(たの)しみにかえる愛ににているもの。けれど、癒やしは、わたしたちのやり方で、起こりません。〝とげ〟のある美しさを、恵みという力でいただく。わたしたちが、「はい」と、深くうなずいたときに、覚えるもの。
天国か地獄か!それは、わたしたちしだい。水のなかに、苦しみがふしぎとなく、おぼれてゆくようなもの。主の時に。


ことばの窓 4

 

詩人とは、見者である。多くの人々が通り過ぎてゆく風景にふと立ち止まり、風の囁きに耳を澄まし、詩(うた)を紡ぐ。それは本来、誰もがもつ視力であるが、大人になるにつれて、忘れられてゆく。詩人は日常に隠れた神と対話する。自分でも気づかぬうちに、手にしたペンは走り出す。詩人は時に、〈神〉という言葉を使わず、〈神〉を運ぶ。そして、詩集という本の中から語るだろう。誰もの中に、目には見えない宝が宿っていることを。

(服部 剛)

※今回の詩は、末森英機著『光の礫、音の楔』(港の人)に掲載されています。

 


神さまの絵の具箱 23

末森英機(ミュージシャン)

イエス・キリストだけが、フシギを行なわれる。閉ざされた秘密ではない。わたしたちの、体のなかに、天のやさしい風が、吹いていることを感じられるなら。愛が戦いを好むことが、いつでも、わかる。なぜなら、愛は征服することを、好むから! 愛に、愛をもって報いよ!
言語域を超えて、神の支配は、愛による支配だから。わたしたちは、うりふたつの運命を、背負う、ヨハネとイエスのことを、読んだだろう。十字架の言葉のみを、お歩きになるふたりを。どこまでも、神の愛の調べの出来事だった。わたしたちは死ぬ。そして、何よりも、わたしたちは死なない、わたしたち。わたしたちの対決は、いつふさわしいものに、なってゆくのか?血に染まった、すりきれた、目隠しや、血にまみれた、イバラの冠が語る愛について。ああ、人間を創造しなおしてください。やさしさを、欠いたあいさつ。
疑うことなかれ! 死刑執行人よ!
疑うことなかれ! おおいなる犠牲よ!
花を埋め尽くす死よ!
釘の上に、打ち下ろされる黒い音よ!
木をゆるやかに、出発する。痛みを通してしか、得られない。木の十字架で、まず、子どもたちの、骨をつくり、耕したい。火打ち石の火花が、ふたつの眼をきるように。ともした火花。かわいい預言者たちもまた、はるか遠くへ、追いやられるだろう。約束の地とは、捕囚の、あのひとたち。ヘブライのことわざにある「足はいつも、ほんとうに死にたいところへ、そのひとを運んでゆく」。「わたしはキリストとともに、十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)なら。


神さまの絵の具箱 22

末森英機(ミュージシャン)

キリストの言葉に、身をまかせて、水の上を歩くとき。月の届かないほどの、長い梯子がどこまでも、そびえていて、その梯子をのぼることが、神に近よるということを忘れます。独楽のようにおどりめぐり、火の粉のようにきらめいて、陽のやさしい明るみに、はげまされるなら、不幸が、不幸としてどんなかたちで、おとずれようとも、少しもかまわない。思いがけないうちに、すぐに、主のみ足もとに、とらわれてゆけば、風の息にも、またはげまされて。飛び交うハチが、本能的に、ミツとロウを、さがしもとめ、あつめるように、これ以上のぞめぬほどの、安らぎのうちに、水の波の上を、歩くようになるのです。
「これをしなさい」と、律法に言うけれど、それはそれ。そうではなくて、「これを信じよ」と、生きた恵みの言うとおり、言われたそのときこそ、すべてのことは、もうなされているから。『百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)』が、海の水のきわ、崖(がけ)っぷちであっても、とびこむ、とびおりる。主が壁を、通りぬけられるようなもの。あなたたちが、あなたたちの疑いによって、その場に、窒息死してしまわないように。そして、河のよどみに、おぼれることがありませんように。おっしゃってください「もし、あなたでしたら、わたしに、水の上を、歩いてここまで来い、と命じください」(マタイ14:28)。


神さまの絵の具箱 21

末森英機(ミュージシャン)

「あなたは、どこにおられるのですか?」「あなたは、何をしていらっしゃるのですか?」「あなたは、なぜ黙ったままで、おられるのですか?」。あなたたちが、思いどおりにならなかったとき、思いもよらないことが起きたり、とんでもない不幸に見舞われたりすると、必ず神さまに、ぶつける言葉。しかし、当の神さまは、最初の人間から、そのままこの3つの問いを、あの、裁判所にしつこく通い、裁きをくだしてくれと、やかましく裁判所の扉をたたきつづけたやもめのように、注いでいる。「あなたたちは、どこにいるのか?」「あなたたちは、何をしているのか?」「あなたたちは、なぜ黙ったままでいるのか?」。柴の火は、燃えているのに、燃え尽きない。そこに、何があろうと、燃えつづける火。神はその火のように、在る。それが、あなたたちに対する問いであり答えでもある、ということを、旧約の世界で体に刻んだはずだった。「なぜ、なぜ、なぜ?」。退屈な罪も、退屈な疑いも、ここからスタートしている。神さまは、もう何も答えずに、ただほほえむだけの、スフィンクスのようだ。そのまなざしは、水を器にさしあげる、サマリアの女を、見つめるイエスさまのそれだ。そのまなざしを、聞くために、あのとき神は「エッタファ」、聞く耳のある者は聞きなさい、とおっしゃった。神がだんまりをして、人間に意地悪をしているわけではない。どれだけ、人間が神に、だんまりを決め込んできたか?あなたたちは、神の〝できごと〟ではないか?「罪の増したところには、恵みはいっそう、満ちあふれました」(ローマ5:20)。その沈黙こそ、神の調べ、神の耳の中から、流れる音楽。少年ダビデは初めてギターを手に、それを、未来のために、爪弾く。