神さまの絵の具箱 26

末森英機(ミュージシャン)

世界でいちばん不運で、幸せな、わたし。とは、どんなことがあろうとも、変えたくて、変えられなくて、でも、始まりだけが、春だと覚えていること。きれいに、疑うことを、知らないこと。酔っぱらいの、ユメでもいい。なぜ、わたしに。イエスのあかしが、なされたのか?エゴがしぼんでゆくように、わたしには、見えている。イエスのスケッチが。イエスのポートレートが。イエスのスクリーンを見るように。すると、エゴはしぼみ、かれてゆくばかりだ。なぜなら?彼とともに、彼のうちにある、ということはそのことだから。きく耳を、つくってくださったのは、そのためだったから。最高、実在の化身ではない。ただ、唯一、不可分のイエス。と、わたし。祭服などまとわずに、花を集められる。いつでも、どこでも、異邦人になれる、わたし。たとえ、異教の香りのなかでさえ。頭のてっぺんから、爪先まで、すっかり変わっても、彼をして、自由。もはや、時を告げる鐘もいらない。だって、始めのない、時間から「先にガリラヤに行っている」(マタイ26:32)と、ひとつの火の粉を目印にされたイエスだから。


神さまの絵の具箱 24

末森英機(ミュージシャン)

あるとすれば、正義の戦(いくさ)に、〝奇跡〟は、瞬間の出来事(もの)。露で顔を洗ってくれるような〝癒(い)やし〟は、進行するもの。
「主は、主のときにわたしをいやす」(ルカ17:12-19)
神の時まで、待つ!
子どもにする、おやすみの、小さなキスのようなもの。だれかの手が、やわらかい髪に触れるのを感じ、それから、ひたいにうっすらとした、ほおに、小さなくちづけを受ける。両方の腕で、受けとめてくれる。
世界の一方のはずれから、世界のもう一方のはずれまで、主とともに、過ごすならば。信じる者にとって、足りないものは、なにひとつない、と聖書は言っています。
踏みつけられた花にも、しおれた花にも、摘み取られた花にも、襲いかかる混沌(カオス)さえ、愉(たの)しみにかえる愛ににているもの。けれど、癒やしは、わたしたちのやり方で、起こりません。〝とげ〟のある美しさを、恵みという力でいただく。わたしたちが、「はい」と、深くうなずいたときに、覚えるもの。
天国か地獄か!それは、わたしたちしだい。水のなかに、苦しみがふしぎとなく、おぼれてゆくようなもの。主の時に。


ことばの窓 4

 

詩人とは、見者である。多くの人々が通り過ぎてゆく風景にふと立ち止まり、風の囁きに耳を澄まし、詩(うた)を紡ぐ。それは本来、誰もがもつ視力であるが、大人になるにつれて、忘れられてゆく。詩人は日常に隠れた神と対話する。自分でも気づかぬうちに、手にしたペンは走り出す。詩人は時に、〈神〉という言葉を使わず、〈神〉を運ぶ。そして、詩集という本の中から語るだろう。誰もの中に、目には見えない宝が宿っていることを。

(服部 剛)

※今回の詩は、末森英機著『光の礫、音の楔』(港の人)に掲載されています。

 


神さまの絵の具箱 23

末森英機(ミュージシャン)

イエス・キリストだけが、フシギを行なわれる。閉ざされた秘密ではない。わたしたちの、体のなかに、天のやさしい風が、吹いていることを感じられるなら。愛が戦いを好むことが、いつでも、わかる。なぜなら、愛は征服することを、好むから! 愛に、愛をもって報いよ!
言語域を超えて、神の支配は、愛による支配だから。わたしたちは、うりふたつの運命を、背負う、ヨハネとイエスのことを、読んだだろう。十字架の言葉のみを、お歩きになるふたりを。どこまでも、神の愛の調べの出来事だった。わたしたちは死ぬ。そして、何よりも、わたしたちは死なない、わたしたち。わたしたちの対決は、いつふさわしいものに、なってゆくのか?血に染まった、すりきれた、目隠しや、血にまみれた、イバラの冠が語る愛について。ああ、人間を創造しなおしてください。やさしさを、欠いたあいさつ。
疑うことなかれ! 死刑執行人よ!
疑うことなかれ! おおいなる犠牲よ!
花を埋め尽くす死よ!
釘の上に、打ち下ろされる黒い音よ!
木をゆるやかに、出発する。痛みを通してしか、得られない。木の十字架で、まず、子どもたちの、骨をつくり、耕したい。火打ち石の火花が、ふたつの眼をきるように。ともした火花。かわいい預言者たちもまた、はるか遠くへ、追いやられるだろう。約束の地とは、捕囚の、あのひとたち。ヘブライのことわざにある「足はいつも、ほんとうに死にたいところへ、そのひとを運んでゆく」。「わたしはキリストとともに、十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)なら。


神さまの絵の具箱 22

末森英機(ミュージシャン)

キリストの言葉に、身をまかせて、水の上を歩くとき。月の届かないほどの、長い梯子がどこまでも、そびえていて、その梯子をのぼることが、神に近よるということを忘れます。独楽のようにおどりめぐり、火の粉のようにきらめいて、陽のやさしい明るみに、はげまされるなら、不幸が、不幸としてどんなかたちで、おとずれようとも、少しもかまわない。思いがけないうちに、すぐに、主のみ足もとに、とらわれてゆけば、風の息にも、またはげまされて。飛び交うハチが、本能的に、ミツとロウを、さがしもとめ、あつめるように、これ以上のぞめぬほどの、安らぎのうちに、水の波の上を、歩くようになるのです。
「これをしなさい」と、律法に言うけれど、それはそれ。そうではなくて、「これを信じよ」と、生きた恵みの言うとおり、言われたそのときこそ、すべてのことは、もうなされているから。『百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)』が、海の水のきわ、崖(がけ)っぷちであっても、とびこむ、とびおりる。主が壁を、通りぬけられるようなもの。あなたたちが、あなたたちの疑いによって、その場に、窒息死してしまわないように。そして、河のよどみに、おぼれることがありませんように。おっしゃってください「もし、あなたでしたら、わたしに、水の上を、歩いてここまで来い、と命じください」(マタイ14:28)。


神さまの絵の具箱 21

末森英機(ミュージシャン)

「あなたは、どこにおられるのですか?」「あなたは、何をしていらっしゃるのですか?」「あなたは、なぜ黙ったままで、おられるのですか?」。あなたたちが、思いどおりにならなかったとき、思いもよらないことが起きたり、とんでもない不幸に見舞われたりすると、必ず神さまに、ぶつける言葉。しかし、当の神さまは、最初の人間から、そのままこの3つの問いを、あの、裁判所にしつこく通い、裁きをくだしてくれと、やかましく裁判所の扉をたたきつづけたやもめのように、注いでいる。「あなたたちは、どこにいるのか?」「あなたたちは、何をしているのか?」「あなたたちは、なぜ黙ったままでいるのか?」。柴の火は、燃えているのに、燃え尽きない。そこに、何があろうと、燃えつづける火。神はその火のように、在る。それが、あなたたちに対する問いであり答えでもある、ということを、旧約の世界で体に刻んだはずだった。「なぜ、なぜ、なぜ?」。退屈な罪も、退屈な疑いも、ここからスタートしている。神さまは、もう何も答えずに、ただほほえむだけの、スフィンクスのようだ。そのまなざしは、水を器にさしあげる、サマリアの女を、見つめるイエスさまのそれだ。そのまなざしを、聞くために、あのとき神は「エッタファ」、聞く耳のある者は聞きなさい、とおっしゃった。神がだんまりをして、人間に意地悪をしているわけではない。どれだけ、人間が神に、だんまりを決め込んできたか?あなたたちは、神の〝できごと〟ではないか?「罪の増したところには、恵みはいっそう、満ちあふれました」(ローマ5:20)。その沈黙こそ、神の調べ、神の耳の中から、流れる音楽。少年ダビデは初めてギターを手に、それを、未来のために、爪弾く。


神さまの絵の具箱 20

末森英機(ミュージシャン)

「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(コリントⅠ 12:27)

「神さまのおかげで、わたしは無神論者ですよ」とおっしゃる方がいる。彼の家の前を、いつのころか、同じ時間にあるお乞食さんが、通るようになった。毎日、そのお乞食さんに、茶碗一杯のお茶と、わずかばかりの食べ物をプレゼントするようになった。「両手で受け取るんですね。笑顔で」。エピソードといえるほどのことでもないので、誰にも言わないでほしい、と最後に。もう一人、「神さまのおかげで、こんなに神狂いなんですよ」と神さまと水いらずの暮らしが、いかに幸福かを語る人がいる。日々、祈りを唱え、教会へ欠かさず通い、告解も絶えない。チャリティ活動へも積極的に参加される。「主のそばにいると、罪を認めるようになるんですから」と結ぶ。『ひとつの霊によって、わたしたちは、皆ひとつの体となるために、洗礼を受け、皆ひとつの霊を飲ませてもらいたいのです』。神狂いの、あの信者さんは、お乞食さんに触れたことはないんだそうだ。教会では、ともに苦しむと、つねづね、歌っていないか? ともに苦しむとは、同じ傷を引き受けるということではなかったろうか? 平和について、話し合いながら、戦争の準備をしている。どれだけの人が、そのように今を生きているだろう? ナザレの大工は、決して、罪の告白の席のための、いすを、おつくりにはならなかった。


Missionaries Of Charity Brothers CAVITE, MANILAのこと

末森英機(ミュージシャン)

両方の目から、涙があふれるのは、もう十二分に人が、地球の重荷になったということだろう。家族や友人、愛する人の死に、バケツいっぱいに、あふれるほどの涙をしても、イエスさまのために、スプーンひと匙ぶんの、涙するものがどれくらい、この世にいることだろう。あの泣くマリアさまの像も、片方の目から、涙していたっけ。けっして、両方の目から、涙していたわけではなかった。

涙にぬれた左の目を見て、右の目は、じつは同じ涙でいっぱいになった。あなたやきみを通して、神さまが悲しめと、本気でおっしゃるので、左の目は、涙にあふれた。けれど、神さまについてゆきます、とこころしたならば、希(ねが)うならば、神さまに苦しみなさい、哀れみなさいと、うながされようと、右の目が涙であふれることはない。

左の目が、とてもかわいそうになるので。そのことが、理解できても、まぶたは、まつげとその涙を、せきとめるから、のどにこみあげる、そして、つまる。スッと、かすかに、そう流れずに流れる、ホーキ星の光のしっぽのように光るだけだ。涙はうつくしい。人は、醜(みにく)く、美しいわけがある。それは「だれもが、ひとりで生まれ、ひとりで続け、ひとりで死ぬから……」。そこには、だれもいない。いることはできない。では、歌い、踊るこのマニラの広大な、ガベージ・エリアのスラムに捨てられている子どもたちは何なのか? 炎が燃えていると、人はなぜ、いのちを思うのか?東の空、西の空とたわむれる雲や鳥たちに、 眠りと目覚めがあると、どうして思うのか?

死と生が、眠りと目覚めのように、陰と陽のように。出会うのだ。「あなた」は「わたし」というように。「あなた」と「わたし」ではなく、「あなた」に「わたし」だ。ゴミの山に棄(す)てられた障害をもった子どもたちの「あなた」、それをほほえみながら抱きすくめて、拾って持ち帰るブラザーたちの「わたし」。殺されかけた子どもたち、見殺しにしようとしたおとなたち、ではない。世紀のゴミの山、かつての、スモーキー・マウンテンで、小さな小さな、一瞥(いちべつ)が起きる。「あなた」は「わたし」という。そこには、二者(プロティノス)はない。

生まれ落ちたそのとき、その瞬間から、死のもとへ、巡礼の旅は始まる。一瞬一瞬が、誕生と死だ。それがすべて。生と存在が、人が許してもらった事実。深い安らぎに満ちる。永遠の安らぎに、まったき、休息のなかに。見つめるこのふたつの目が、知っている。人そのものが、安らぎになることを。

ブラザーたちが、いとうものはなにもない。恋人たちが、お互いのなかに、死ぬことができるように、貧しく生きる、スラムのひとびとと暮らしている。

試される、という言葉がある。ブラザーたちに、この言葉はとても、不向きだ。神は体験されなければならない。ブラザーたちは、この子どもたちになる、そんなユメさえ見る。それを、笑顔の光で包んで、胸に思いつづける。ならば、朝になって眠り、救われた子どもたちも、ブラザーになる夢を見るだろう。ふたつの目が、それを訴える。涙は、ひとつぶであろうと、方舟を、アララトの頂に押し運ぶ、力があることを、すでに子どもは知っているのだ。

神父・ダニエーレが、ついに修道士・フランチェスコ修道士になった。抱きしめたい。かれはこれからも、子どもたちといっしょ、いともかんたんに、神のこころをとかして、しまうだろう。いっさいのものが一となる日よ!!

 


神さまの絵の具箱 19

末森英機(ミュージシャン)

空しさ、愚かさ、定めなさを、自由への長い道のりに変えてください。近道ではなく、なるべくなら、遠回りの道で。曲がり角から、あなたの天使たちの、香りが花のように漂ってくるでしょうから。それも道しるべです。調べです。メロディという曲調。未来を呼び寄せる場所にすること。しゃれこうべの、あの丘を。ときには、底なしの井戸に神さがしであれ! それも、道です。無言の羊であれ! ラクダが、いや象が、針の穴を通るよりもたやすい。

中央がタゴール師

「わたしが、『神さまの話を、しておくれ』というと、木は花を咲かせた」。ラビンドラナート・タゴールさんは、そう言って低く低く、小さく小さく、なられました。あのとき、あなたは、わたしたち、いやわたしのために、すべての人から、見捨てられましたでしょう?わたしは、喜びのなかで、死にたい。だから、自分に生まれ変わること。あなたは、こうでした、手作りの旅をつづけなさい。心と言葉と行ないの。それは、愛を信ずるということ。「忘れないでください。あなたが、み国に行かれるとき、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)


神さまの絵の具箱 18

末森英機(ミュージシャン)

たとえば、イチジクの、ブドウの、ウリーブの、ナツメの、リンゴの木は、やがて、しおれ、崩れ落ちて、そうして埃になる。老いた旅人は、くたびれ果てて、歌うちからもなくして、まなざしも貧しげ、うつむいてしまう。祈り深い者たちに、日々、毎朝、生まれ変わる恵みをあたえる神さまは、その者たちが、ハチドリの翼のようにきらきらと生まれ変わる、そのおかげで、変わらぬ神さまで、いつづける。コウモリどもは巣をつくり、キツネにも眠る巣があり、海を渡る鳥にも、波のうえに流木が見つけられるのに、人の子にはまくらするところさえなかった。ソドムとゴモラ、もっともっと、ヒロシマ、ナガサキと億劫(おくごう)絶えることのないあやまち。
「幸いなことよ」で始まる詩篇。神さまの愛、昼も夜も、トーラーというおしえを口ずさめとおっしゃる。神さまの愛は、愛情ではなかった。愛が愛情に変わることはない。神さまの愛には情はない。そうだ、愛情には情けがあるけれど、神さまの愛には情けがない。わたしたちが、さかしらをやめるとき、わたしたちの預かり知れないものが、帰ってくるに違いない。旧約聖書にきつく描かれていた〝妬み深い神〟。人間のこころにあたえたかった最大のもの。どんなに祈ろうと、手を取って迎えにきてくれる、やさしいマリアさまはいまい。
あわれなこころの切れはじをつかむ神よ。あなたに似せてつくられたわたしたちは、厚紙でできた人形のようだ?とほうもない辛抱強さはもう、期限切れだ。迫害の味にもなれすぎた。群れは弱り、飢えている。手は合わさったまま、どこへ落ちてゆくものか?『水路のそばに植わった木のように、時が来ると、実がなり、その葉は枯れず、何をしても栄える』。
それから、鞭のうなりも、拷問の悲鳴も、喜びは口ずさむ「幸いなことよ」と。