第23回「教会とインターネット」セミナーレポート

2018年3月3日、第23回「教会とインターネット」セミナー――インターネットが拓く新・福音宣教(主催:SIGNIS JAPAN、後援:サンパウロ、女子パウロ会)が、カトリック上野教会(東京都台東区)にて行われました。

今回のテーマは「キリスト教会の福音発信術を考える」と題し、教会ホームページとSNSの現状をふまえながら、これからの方向性を考えました。この記事では、講師の丸山泰地さん(キリスト教会専門のホームページ制作サービス「BREADFISH」代表、日本同盟基督教団名古屋福音伝道教会教会員)による講演「キリスト教会の情報発信術 ~大切なのはITスキルではなかった~」をまとめています。

 

BREADFISHを始めたきっかけ

まず、丸山さんは「教会ホームページ制作の技術的な手伝いをしたいと思って、BREADFISHを始めた」と語り始めました。しかし、ホームページ制作を手伝っていくうちに「本当に必要なのは『伝える』こと」であり、「教会の案内や自分たちの魅力などをいかに伝えるかということが大事だ」と気付いたそうです。

 

「BREADFISH」代表の丸山泰地さん

教会ホームページの問題点と対策

教会ホームページの問題点として、丸山さんは「なんとなく情報発信している」「〈相手の聞きたいこと〉より〈自分の言いたいこと〉を優先している」「自分をよく見せようとしすぎ」「誰に向かって話しているのかわからない」「上から目線、説教されている感じがある、おしつけがましい」「戦略がまったくない」などを指摘しました。

その対策として挙げられたのが「〈何の目的で〉〈誰に向けて〉情報発信をするのかを明確に」「読み手との距離感を意識する」「安易に大企業の広告のまねをしない」という三つです。

 

1)「何の目的で」「誰に向けて」情報発信をするのか明確に

ホームページを作るときには何らかの目的がありますが、教会ホームページの一番の目的は「教会に来てもらうこと」でしょう。それについて丸山さんは「1サイトにつき1目的、その目的に合わない内容のものは入れない」と言います。理由は「ホームページというのは目的を持って見に来るものであり、ある程度興味があって検索した人だけがたどりつくものだから」です。例えば、教会ホームページを見るまでのプロセスは以下のようなものが考えられます。

A きっかけ……小説、映画など
B 欲求……教会に行ってみたい
C 検索……「名古屋 初心者 教会」など
D 調査……教会ホームページを見て、どんなところか調べる
E 行動に移す……実際に教会へ行ってみる

丸山さんによると、多くの教会ホームページはAに手をつけがちだと言います。つまり、聖書解説や福音宣教的な内容をホームページに載せ、キリスト教に興味を持ってもらおうとしているということです。しかし、それは「教会に来てもらうこと」とはまた別の目的であり、それも入れると「1サイトにつき1目的」を超えてしまいます。

教会ホームページを検索して調査する人はすでにきっかけがあり、A~Bをクリアしているため、教会ホームページの守備範囲はC~Eということになります。「教会に興味がない人を振り向かせるようなメッセージを入れるのはほとんど意味がない」「教会ホームページは宣教の場ではない」と丸山さんは言います。確かに、福音を伝えたいという気持ちは大事ですが、「まずは教会に来てもらうことが目的で、福音は教会に来てから伝えればいいのではないか」との考えでした。

セミナーの様子

まとめると、教会ホームページは「教会に来てもらう目的で」「教会に行ってみたいという興味を持っている人に向けて」情報発信している、ということになります。したがって、教会ホームページを「教会に興味を持っている人が安心して教会に足を運べるようにするためのツール」であると考えれば、自然とどのような内容を載せればいいのかがわかってきます。

 

2)読み手との距離感を意識する

これは端的に言えば、「読み手に寄りそって、相手の視点でホームページを作る」ということです。

初めて教会に来た人と教会には、信頼関係がありません。そこでいきなり「信じませんか?」などと尋ねても、おそらく「はい」と答えてはくれないでしょう。それはホームページにおいても同じであり、教会に初めて行こうとしている人には、まず信頼感や安心感を持ってもらうことが大事だと丸山さんは言います。

そのためには、初めての人でも安心して教会に来てもらえるような文章を書くことが重要になります。信仰の押しつけがないことを伝え、あまり専門用語を使わないようにして敷居を下げ、服装・持ちもの・所作・ミサや礼拝の手引きといった具体的なことが書いてあるといいそうです。

 

3)安易に大企業の広告をまねしない

広告には、ブランドイメージをアップするための「イメージ広告」と、読み手の反応を得るための「レスポンス広告」があります。前者はある程度知名度がある場合に使うものですが、教会はまず知名度や信頼を得ることから始めなければならないので、具体的・説明的・機能的なレスポンス広告のほうがよいと丸山さんは言います。

そこには「共感」「信頼・安心」「効果(結果)」「期待する行動」という四要素を入れるといいらしく、特に「期待する行動」は明記しておいたほうがいいとのこと。例えば「どなたでも安心していらしてください」「お気軽にどうぞ」「献金をお願いしています」といった具合です。

 

SIGNIS JAPAN顧問司祭・晴佐久昌英神父

教会ホームページはどのように運営すればいいのか

次のテーマは教会ホームページの運営方法です。丸山さんは「毎日更新しなくてもいい」「文章をたくさん書く」「ホームページからあたたかくもてなす」といったポイントを挙げました。

 

1)毎日更新しなくてもいい

ホームページを作っていると、「毎日更新すればアクセス数が増えるのでは」と思いがちですが、今まで想定してきた読み手のことを考えると、教会ホームページを毎日見にくるという人はほとんどいないでしょう。

したがって、「一人の人が教会ホームページを見にくるのはたった一回だと考え、その〈たった一回〉で相手の聞きたいことを伝えるのが重要」だと丸山さんは述べます。そうなると、「最初の作り込みが大事であり、それを改善していくことが大事」になってきます。また、改善するということは必然的に更新するということにもなります。

 

2)文章をたくさん書く

ほかにも、「文章はあまり読んでくれないだろうから、画像や動画を増やそう」と思うことがありますが、前述のように、ホームページの特性は「まったく興味のない人は来ない=ある程度興味のある人が来る」です。したがって、そのような人たちは文章を読んでくれるので、相手の知りたい情報をきちんと書くことが重要になってきます。

読みやすくするため、あるいはわかりやすくするために写真や画像、動画を入れる必要もありますが、それらはあくまで主役である文章を引き立てるための脇役だと丸山さんは語ります。

 

3)ホームページからあたたかくもてなす

読み手がホームページを開いて自分のニーズに合わないと思うと、すぐに離れてしまうので、読み手がどういうきっかけで検索するか、どんなニーズがあるかといったことを想定しながらホームページを作ることが大切になってきます。「読み手との距離感を意識する」で挙げたことのほかにも、トップページに読み手が検索しそうなキーワードをちりばめることで、検索エンジン対策にもなります。

このように、教会に足を運ぶ前から、つまりホームページからあたたかくもてなすことは非常に重要であり、「ホームページは教会の玄関」だと丸山さんは考えています。集会案内の時間・内容・目的などをわかりやすく丁寧に説明するなど、そっけないデータではなくあたたかみのある言葉を載せ、集会の様子を撮影した写真や動画で実際の教会の中が見えるほどにオープンにすることによって、相手に安心感を与えることができるということです。

ほかにも、Googleアナリティクスなどの解析ツールを使うことによって、どのようなキーワードで検索されたか、どのくらいの時間いたか、年齢層や男女比はどうかなどを調べ、より読み手のニーズに合った改善ができるとのことです。

 

セミナーの様子

ホームページで福音は伝えられないのか

丸山さんは「教会ホームページは宣教の場ではない」と述べましたが、ホームページで福音は伝えられないのか、教会のホームページなのにそういうものがないのは変ではないか、という疑問が浮かびます。それに対して丸山さんは、「そのようなホームページも可能だが、教会ホームページとは分けて作ったほうがいい」と言います。

ここで押さえておきたいのは、今回丸山さんがお話しくださった「教会ホームページ」とは、各地に存在する教会(小教区)の案内のようなものであり、上記C~Eをカバーするものだということです。一方、A~Bを担っているものとして有名なのは上馬キリスト教会のツイッターですが、それもやはり教会ホームページとは別の独立したサイトととらえたほうがいいでしょう。

 

教会ホームページにとって大事なこと

最後に丸山さんは、「教会ホームページにこそ愛が必要です。愛を伝える教会のホームページに愛がないのは残念なこと。初めての方々の立場に立ちきって、ホームページからおもてなしを始めていきましょう」と講演を締めくくりました。

(文:高原夏希/AMOR編集部)

 


第42回日本カトリック映画賞レポート

2018年5月12日、第42回日本カトリック映画賞授賞式&上映会(主催:SIGNIS JAPAN、後援:カトリック中央協議会広報)が、なかのZERO大ホール(東京都中野区)にて行われました。

1976年に始まった日本カトリック映画賞は、毎年、前々年の12月から前年の11月までに公開された日本映画の中で、カトリックの精神に合致する普遍的なテーマを描いた優秀な映画作品の監督に贈られます。今回の授賞作は、長谷井宏紀監督『ブランカとギター弾き』です。また、シグニス特別賞が松本准平監督『パーフェクト・レボリューション』に贈られました。

 

『パーフェクト・レボリューション』授賞理由

SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)の顧問司祭である晴佐久昌英神父は『パーフェクト・レボリューション』の予告編を観て、「初めてこの映画を観たときの感動がよみがえりました」と話し始め、続けて「人間は素晴らしい。可能性がある。人と人が出会うことは素晴らしい。未来がある。私たちは本当に何があっても神様によって出会わされている、そのような家族なんだ。そんな思いを持たせてもらった映画です」と語りました。

シグニス特別賞『パーフェクト・レボリューション』の松本准平監督

この映画は、体の障害を持っている人と心の障害を持っている人の出会いを描いた作品ですが、私たちにも躊躇や恐れ、ひるむ気持ちがあり、障害を持っている人たちと上手くつながったり向き合ったりできないことから、「もしかして、私たちみんな恐れているという意味では障害者なんじゃないか」と晴佐久神父は指摘します。

そして、「そこを超えてつながることができたら、この世界はどんなに変わっていくだろうと。まさにパーフェクト・レボリューション。完璧な、完全な革命。神の国はもうすぐそこだ。私たちが障害を超えて、恐れを超えて、つながるならば」と、そのような可能性を見せてくれたことに対する感謝を述べました。

 

『ブランカとギター弾き』授賞理由

次に『ブランカとギター弾き』の授賞理由について、最近涙もろくなったという晴佐久神父は「もう何か申し上げるまでもないという思いでここに立っております」と言い、「今の自分にとって、私たちにとって、教会にとって、この世界にとって、一番大事なことがこの映画の中にこめられている。それを今観て改めて感じて、やっぱり私たちにとって人と人が本当に家族としてつながる、それが何より価値のあることなんだという、当たり前と言えば当たり前なんだけれども、一番この世界が忘れてしまっていることを思い起こさせてくれた」と力強く語りました。

第42回日本カトリック映画賞『ブランカとギター弾き』の長谷井宏紀監督

また、「最後にまったく血縁じゃない三人が、血縁の家族以上につながっているシーンは、私たちにとって本当に大きな励まし、希望、私たちもできるはずというようなそんな力になると、そう感じました」とも述べています。

この作品は上映前にSIGNIS JAPANの土屋至会長から紹介があったように、舞台も役者も言語もすべてフィリピンであり、唯一の日本的な要素は監督が日本人だということです。それについて晴佐久神父は、現在ご自身が力を入れている「福音家族」について説明したあとで、「この映画がそのような本当の家族をもたらす力を私たちに与えてくださるという思いで、この作品に自信をこめて、皆さんも納得していただけたと思いますけれども、シグニスから日本カトリック映画賞を差し上げることといたしました」と、この映画の授賞理由を述べました。

 

ピーターとの出会いと奇跡

晴佐久神父と長谷井監督の対談は、「いつもですと、もうちょっと冷静にお話しができるんですけど」という晴佐久神父のあふれる想いから始まりました。上映が終わったあとの休憩時間に初めて監督とお会いしたという晴佐久神父は、感激で涙が止まらなかったそうです。

話はまず、晴佐久神父の「どうしても聞きたいこと」であったピーターの話題から。映画の中のピーターを演じているのは、キャラクターと同じ名前のピーター・ミラリという人物です。生まれつき盲目だった彼は、8歳で両親を亡くして孤児となり、生きるためにお金を道端で集めて回ることから人生が始まったといいます。

そんなピーターと長谷井監督の出会いは、マニラにあるキアポ教会の地下通路でした。「彼は小っちゃい子にお金の番をさせて歌ってたんですけど、そのときに『この人と映画を作ってみたいな』と」監督は思ったそうです。それは、偶然にも短編映画の登場人物である盲目のギター弾きを演じる役者を探していたときでした。その後、『ブランカとギター弾き』を撮影するためにピーターを一ヶ月半かけて探し、再会。見つけたときは非常に嬉しかったし、ピーターも「また帰ってきたんだね」と喜んでいたそうです。

授賞式の様子

晴佐久神父が「監督とピーターとの出会いがね、すべてじゃないですか。ほかの誰か、役者がやってもこういう映画にならなかったと思うし、最後に『ピーターの魂は映画と共に全世界を旅している』っていうのを読んで、またぐっときて」「神がかってるっていうか、特別な力がすごく働いている作品だなっていうのは観ていてとっても思いました」と述べると、長谷井監督も同意し、「ぼくも撮影する日々の中で、本当にそういう奇跡がきらきらと毎日見えていたので、本当に良い時間を過ごさせてもらったなって」と話しました。

この映画と同じようなことがピーターの人生に起こっていたというのも、奇跡の一つでしょう。ピーターがキアポ教会の前でギターを弾いていると、11歳の女の子が毎日自分の近くに来て歌を歌い始めたそうです。ピーターは「自分はそれでお金を稼いでいるから来るんじゃない」と言ったそうですが、それでも毎日女の子が来るので一緒に稼ごうということになり、教会の前で一緒に歌っていました。そのうち、マカティのクラブのオーナーに誘われてそこでパフォーマンスをしていると、その女の子は大阪から来たカップルに養子に迎えられていった、ということがあったそうです。

何も知らずに脚本を書いていた監督は「そのときはもう鳥肌が立つというか。結局自分が書いてることに何かを招き入れたのか、それとも、何かある場所に招かれたのか、それはちょっとどっちなのかわからないですけど」と言うと、「何かそういうものを呼び込む力というか、選らばれし者みたいなオーラがあるような気がしますけどね」と晴佐久神父はコメントしました。

 

セバスチャンがいた!

ジョマル・ピスヨ演じるセバスチャンは晴佐久神父のお気に入りキャラクターですが、彼を見つけるまでに二ヶ月かかったそうです。「11歳の歌を歌える少女ブランカ」の役に「25歳のアクロバットができる男性」が来るなど、オーディションがなかなか上手くいかず、最終的には監督自ら街を歩きながら役者を探したとのこと。

最初は通り過ぎてしまったそうですが、何かぴんと来るものがあったらしく、引き返して演技をしてもらったところ、「アドリブがどんどん入ってきちゃって止まらない」「フィリピンのクルーも驚いていて、『彼は本当に才能がある役者だ』と言っていた」というほど天性の才能を持っていたと言います。そのとき、監督は「セバスチャンいた。いたんだ」と思ったとか。撮影中に急にいなくなるというトラブルもありましたが(海で泳いでいたそうです)、撮影を始めると一発OKというプロフェッショナルぶりも発揮したそうです。

SIGNIS JAPAN顧問司祭の晴佐久昌英神父

晴佐久神父は「自由で、やさしくて、そして一番大切なことを本人が知らずににじませている存在みたいな、とても新鮮なものを感じました。セバスチャン見つけてくれてありがとう。だから最後にセバスチャンが一緒にいて、またあれがツボでね」と嬉しそうに語りましたが、当初そのラストシーンにセバスチャンは出てこない予定だったそうです。「あの最後のカットはブランカの笑顔と涙っていうのは決めてたんですけど、あそこにセバスチャンはいなかった。ただ撮影をしていく中で、セバスチャンっていうものが本当に大きくなって」と監督は言います。

そのほかにも即興の演技やシーンがいくつも生まれたとのことですが、現場には通訳の人がいなかったため、「本当に言葉じゃなくて、映画って感覚っていうか感情っていうか、それが本当にとても重要」だと感じたとのことでした。

 

子どもたちの本当の豊かさや幸せを伝えたい

「今、日本の若い人たちはすごく狭い世界で常識の中にとらわれていますが、監督自身もお若いのに、こういう自由な発想があったり、フィリピンのストリートチルドレンの中に飛び込んでいったりして、神が降りてくる映画を作っちゃう。その秘密がね、どこにあるんだろうってすごく不思議な気がするんですよね」と疑問を投げかけた晴佐久神父。

それに対して長谷井監督は、基本的にお金を持たない旅なので、いろんな国のスラムや道端で人と出会ってきたと言い、中でもフィリピンのゴミの山で出会った8歳の少年のエピソードを挙げました。なんでも、ゴミの山で仕事をしていた子どもたちにアイスクリームを買うためにポケットから財布を出そうとしたところ、その少年に止められ、「コウキの分は俺がおごるよ」と言われたそうです。そのとき、監督は「この人たちかっこいいなって。世代っていうか、年齢ではないというか。本当にぼくはあそこの子どもたちの力に素晴らしいものを見た」と思い、「それをやっぱりお伝えしたいなっていう気持ちで(この映画を作った)」と言います。

さらに、「子どもたちの中に本当にすごく光る美しいものがあって、彼らの視点から社会を見たときに、何か伝えられるものはないかなっていうのがこの映画で」とも語り、「やっぱり子どもたちの本当の豊かさというか幸せ、そういうことを訴える映画っていうのが監督の今後の一つの(目標ですか)」と晴佐久神父が問いかけると、「そうですね。一つ、それは続けていきたいなと」と監督は答えていました。

 

対談の様子

長谷井監督の不思議な魅力

会長挨拶の中で、『パーフェクト・レボリューション』の松本監督がクリスチャンであることが紹介されましたが、実は長谷井監督もクリスチャンです。「先ほどうかがったんですけど、洗礼を受けてらっしゃる?」と晴佐久神父が尋ねると、「そうなんですよ。セルビア正教」と答えた長谷井監督。

長谷井監督の短編映画を気に入った映画監督がセルビアでリゾート経営をしており、そこで2年ほど食事と寝る場所を提供してくださったそうです。そのときに「コウキ、洗礼を受けてみる?」と言われ、「やってみようかな」と思ったのだとか。「セルビアの新聞の一面に載ったんですよ。日本人が正教の洗礼を受けたっていうのが、本当にもう新聞の一面にばーんと。セルビアにいた日本の大使館からも電話がかかってきて、長谷井さん今めっちゃ注目受けてますよって(言われた)」と当時のことを振り返りました。

そんな監督について、晴佐久神父は「何か最初ぱっとお会いしたときに、イエスさまに会ったような雰囲気が漂っていて。不思議な方ですよね」と印象を語り、「今ここの会場内のみんながきっとこの監督を応援したいってね、心から思っている」と続けると、会場からは拍手が起こりました。

最後に、晴佐久神父は「是非一層の素晴らしい作品を送り出してほしいと思いますし、ともかくピーターに会わせてくれてありがとう。ブランカに、セバスチャンに会わせてくれてありがとう。そういう思いでいっぱいです」と感謝を述べました。そして、「私たちももうちょっと街角ではっと出会うね、セバスチャンと深いかかわりを持ちたいし、通り過ぎるんじゃなく、ピーターと何かこう家族のように触れ合えるそんな恵み」を大事にしたいと言うと、「そうですね。それが広がっていけばどんどん幸せな力が広がっていって、過ごしやすい日常がどんどん増えていくんじゃないかなと」と長谷井監督も同意し、対談を終えました。

(文:高原夏希=AMOR編集部/写真提供:生川一哉)

 


一本足打法から生まれた快挙——王貞治

鵜飼清(評論家)

メジャーで活躍する大谷翔平選手に注目が集まっています。二刀流をメジャーで実現する大谷選手は、きっとベーブルースの記録を超えてくれることでしょう。

私が野球で記録ということを意識するときに浮かんでくるのは、王貞治選手のことです。私たちの世代では、巨人軍のV9を達成した立役者として、ON(王と長嶋)は忘れられない存在です。

『スポーツニッポン』号外(1980年11月4日)

王さんは、早稲田実業高校のピッチャーとして甲子園のマウンドを踏みました。そして、1954年に巨人軍に入団しました。そのとき投手から一塁手になったのです。

それまで巨人軍の一塁手は川上哲治さんが守っていて、ここに名実ともにホームランバッターのバトンタッチが行われたわけです。しかし、王さんのバッティングは最初3年間振るいませんでした。そこで荒川博コーチとの特訓がはじまります。

「やる気があるなら、3年間は俺のいうことを黙って聞けッ」と言われ頷く王さん。

「お前のヒッチ(もう一度余計にキャッチャーの方へ身体をひねってしまう)の癖は直りそうもない。とすればだ。最初から打っていく構え、もうこれ以上はヒッチのできない構えで打つ方法もあるのだ」「こういうホームではどうだ」荒川コーチは片足で立って素振りをしました。この奇想天外の打法が「一本足打法」のはじまりでした。

そして王さんは「もう、これ以上底がないというところまでいっていたから、一本足打法なんて、誰もやったことのないものに踏み切れたのだと思います。これが、2割7、8分の打率で、ホームランを20本ぐらい打っていたら、大打者とまではいかなくても、まあ、プロ選手として通ります。そこそこプロ生活ができていれば、そういう冒険はできなかったでしょうね。一本足で、初めてやった日(1962年7月1日対大洋戦)に、3本ヒットが打てたんです。うち一本は、ホームランでした。この日、4-0をくっていれば、一本足打法はなかったかもしれない」と語ります。

どん底からの起死回生には、こんなエピソードが残っているのです。

『劇的人間』(安部敏行編著 マルジュ社 1981年刊)より

私が王さんのファンだったから、このようなエピソードが印象にあるのはまちがいないのですが、それにはもう1つの理由があります。私が編集した『劇的人間』(安部敏行編著 マルジュ社 1981年刊)で安部さんが王さんに聞き書きした文章が載せられているからです。そのなかから、王さんの回想として、1つ紹介しましょう。

「いつも若々しくて、なにかXめいたものを秘めていると人に感じさせ、自分ではそうあるべく努力するのが、プロにとっては大事な条件であるとともに、コンスタントに高成績を上げることができるポイントじゃないかって、ぼくは考えています。それで、74年型とか、75年型という、その年の打法をやることにしているわけです。年とともに、顔も考え方も違ってくるでしょ。それと同じようにバッティングも変える。65年のときの成績が最高だったからといって、そのときのバッティングを、いまやるのは無理があります。それから10年という経験を積んできているし、肉体的にも違ってきています。現在は、現在の最高のバッティングをやる、という方がいいんです」

王貞治選手は1980年に現役引退をしました。首位打者5回、本塁打王15回(連続13回を含む)、打点王13回、三冠王2回(2年連続)、終身打率3割1厘、通算本塁打868本などの大記録を残してユニホームを脱いだのです。

 


マザー・テレサにあずかるご復活とは

末森英機(ミュージシャン)

その昔、カルカッタ。今はコルカタ。中心街にほど近い、ボウズロードという、比較的、イスラム教の人々が多い、そのメインストリート沿いに、マザー・テレサの本部がある。その一階に、マザーの棺が納められる部屋。質素(じみ)で、まったく飾り気のない安置所が設けられている。履き物をぬいで、はだしになり、その敷居をまたぐと、毎回、込み上げてくるのは、いったい、なんだろう。悲しみではない。苦しみではない。喜びとも違う。つつましいものに、ならざるをえない、という涙に似たもの。あるいは、魂のゆくえが、知らせてくれる言葉にならない、祈りのようなもの。それとも、迷いの眠りから、はっと目覚める、ひとが神の御計らいと呼ぶようなもの。いただける復活。たしか神は、善悪を復活の日に与えると、約束されていたけれど。

毎朝、夜明け前の祈りの時間を過ごす。たくさんの、さまざまな国から見えた、ボランティアに参加する老若男女。祈りの場の1階にある、マザーのお墓に、一歩足を踏み入れるたび、胸に込み上げてくる。のどをつまらせる。もうとっくにマザーは亡くなられているのに、こんなにもたくさんの人々が、あとを絶たない。神の心にかなう心と、かなわぬ心というものが、あるだろうか? 神のことで、苦しみを覚えた瞬間、たったひとつの小さな埃でさえ、神の蒔く砂糖の粒をえられるものなのか? マザーはその答えとなった。いただける復活を生きる、生きなさいとほほえんでいらっしゃる。

なにが、人を幸せにしたいと思っているのか? それを知ることができるのか、復活を生きれば、生まれ変わるというのが、この岐路にあるということに気づかされるのだ。当時、マザーがカーリーテンプルを巡るスラムに漂いでたときに、飢え渇く者たちを、満たそうとすることは、正気の沙汰ではなかった。復活というステージを与えられたとき、彼女は思った。本当に憎まなければならないものが、何かを知ることで、罪人(つみびと)を罰しないというキリストの声を自分のものにできると。それが、復活を呼び寄せると。神はみずからを贈ると。だから、わたしたちは、光でできていると。

花びらで「JESUS I TRUST IN YOU」と書かれたマザー・テレサの墓。毎朝シスターによって書かれ、その日ごとに言葉が変わる(写真提供:町田雅昭)

わたしたちは、少しの混乱と、無とその闇を破ることのできない、あいまいなまなざしをいつも捨てることができないでいる。いただく復活。否、それが共通の人間性を持たせているということもできる。だから、宗教が生まれ、祈りをもらい、疑わしい選びに振り回され、衝突と沈黙を常とする。人に刻印される裏(面)と表(面)、それすらも申し分のない奇跡ではないか。いかしいただける復活。信じられるものすべては、存在する。数え挙げることもできないほどの。あずかる復活。

与え、そして激しく奪う、人は肉体を脱ぎ捨て、灰に変わる。肉体は死そのもの。神のみ言葉はいつも、時と場所にふさわしく、神に奪ってきてもらうもの。力ずくで奪ってきてもらうもの。マザーはそのとき、深くこうべを垂れる。とげを抜くために、使ったとげを捨てるような神のため。それは、マザーのほほえみのように、神がまるで、風のなかを行き来するように。主のみ名がとなえられる。それはいただける復活。心がやさしく、やわらぐことができないのなら、その人の心は石。

かつて生まれてきた、また、今生まれつつあり、やがて生まれてくる、普通の人にとっては、神のなされようは、とても解釈のおよばぬものとなり。けれど、このマザー・テレサの前で、こみあげてきて、喉をつまらせるもの。復活にあずかる。人の望むすべてが、得られる場所。

 


特集19 復活のリアル

復活節も終わりに近づく今、復活というテーマに向けての思いを寄せていきます。普通の生活感覚、言語感覚で、教会でいわれる言葉を考えるとどうなるのか、そんなアプローチが必要となる最大のテーマの一つが「復活」ではないでしょうか。キリスト教の真理の中心を示す言葉、しかし、そこから人生のリアリティーに迫るには一つも二つも発想の展開と視野の拡大が必要となるのかもしれません。

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「起こされて生きる」こととしての復活

母と暮せば

マザー・テレサにあずかるご復活とは(2018年5月15日追加)

一本足打法から生まれた快挙——王貞治(2018年5月25日追加)

 


「起こされて生きる」こととしての復活

「立ち上がる/起き上がる」という動詞

「復活」は、キリスト教の重要な信仰内容を表す代表的な言葉とされています。「キリストの死と復活」、あるいは信条(使徒信条)中で宣言する「からだの復活を信じます」というところなど。典礼で聞く言葉としても、聖書の訳語としても「復活」は用語として定着しています。かつて「よみがえり」ということばが使われていたのに対して、「復活」に統一されたという経緯もあったようです。

とはいえ、こうキリスト教のある意味で“定番用語”になりきってしまうと、逆にキリスト教の教えの奥座敷に鎮座しているようでもあり、それが、わたしたち一人ひとりの生き死に痛烈にかかわっているという実感が湧いてこない一面もあるのではないでしょうか。

「復活」という日本語(訳語)で意味されることのリアリティーはどうしたら見いだせるのでしょうか。ちょっと調べてみると、なかなか刺激的です。新約聖書で「復活する」を表す動詞は二つあり(アニステーミとエゲイロー)、どちらも「立ち上がる」「起き上がる」あるいは「立ち上がらせる」「起き上がらせる」「起こす」という意味のものです。エゲイローには「目を覚ます」という意味もあるとすれば、日本語の「起こす」「起きる」がそれだけで対応します。復活とは「起こされること」。基本の語義がそこにあるとすると、いろいろな事象への連想が広がっていきます。

参考にラテン語で復活を表すレスレクティオ (resurrectio) はレスルゴーという動詞に対応するものです。スルゴー(立ち上がる・起き上がる)に「レ」がついて「再び立ち上がる・起き上がる」の意味になっています。「再興する・復興する」という大きな事柄も指す語です(フランス語や英語もこのラテン語をそのまま導入して、キリスト教の「復活」を指す言葉として定着しています)。

もう一つドイツ語を見てみるとキリスト教の「復活」を表す単語は「アオフエアシュテーウング」(Auferstehung)。これもキリスト教用語「復活」の定番用語ですが、動詞アウフエアシュテーエンは (auferstehen) はやはり「立ち上がる/起き上がる」で、病気から「立ち直る」、廃墟から「復興する」などの意味でも使われるのです。こうしてみると、だいたい同じような現象に触れる単語であることがわかります。

 

「再」と「リ」の時代への福音

なぜ新約聖書で、復活が「立ち上がる/起き上がる」という語で表現されるかについては、聖書の背景にある死生観を見る必要があり、そこでは、死ぬということが、しばしの間、横たわること、眠ることと考えられています。それでこそ、その状態から「起こされ、立ち上がる」ことがまさしく命への回帰・復帰、復活だということになるのです。

さて、復興という意味が復活を表す単語に含まれていることを見るとき、わたしたちには、すぐさま震災からの復興、戦災からの復興という歴史と、今も直面している震災と原発事故からの復興という社会全体の命題が目の前に迫ってきます。全体的な復興の中にある、災禍を被った一人ひとりの人生における絶望や再起をかけてのそれぞれの歴史に思いを向けさせられずにはいられません。また、いうまでもなく、イエスの時代も今の時代も、病や負傷、ハンディある状態からの再起やリハビリということも、社会をかたちづくる本質的な側面であることが意識化されるようになっています。

社会のメジャーな体制、正規の階段から落ちこぼれたり、はなから疎外されたりするマイナーの存在、非正規の存在が互いに反射し合いながら、社会の実相を創り出している時代。いつの世もそうだったのかもしれませんが、イエスのまなざしは、やはり、そのようなマイナーな存在にこそ向かっていました。そしてその十字架からの復活への展開は、一人ひとりの中にある不安や絶望からの再起、立ち直りの不断の原動力として、今も人々に働きかけている、と考えるとき、ようやくキリストの死と復活が現実味を帯びてきます。

最近では「レジリエンス」 (resilience またはレジリアンス)という言葉が頻繁に聞かれます。回復力・耐久力を意味する物理の世界でも使われる言葉が、心理学の次元で、心のもろさ、折れやすさに対する回復力、要するに立ち直る力という意味になり、その力をどのように培うことができるかというテーマに展開しています。このようなアプローチにも、キリストの復活の意味と力を新たに見いだすヒントがあるのかもしれません。

どのような人の人生にもある「再起の物語」に目を向けていくこと、それがひいてはキリストの復活の反照として見えくるとき、この信仰と世の中のひとりの人生がはじめて絡み合っていくようになるのでしょう。さまざまな再起の物語を照らし出し、語り継いでいくことのうちに、復活と呼ばれる神秘の真のあかしを見いだせるのではないでしょうか。「AMOR-陽だまりの丘」にそのようなあかしをこれから集めていけたらと思います。

(石井祥裕/AMOR編集長)

 


母と暮せば

復活というテーマで思い出す映画はたくさんありますが、キリストの生涯を描いたものを外して死者が復活するということで映画を探すとこれまたたくさんあります。その中で、今回は、小説家で劇作家の井上ひさしが、広島を舞台にした戯曲「父と暮せば」と対になる作品として長崎を舞台にしたものを書こうと思いながらかなわなかった物語を山田洋次監督が映画化した作品「母を暮らせば」をご紹介します。

第二次世界大戦中の1945年8月9日、長崎医科大学に通う医大生の福原浩二(二宮和也)は普段通り、自宅を出て大学の講 義を受けている途中で長崎に投下された原爆によって命を落としてしまいます。3年後、助産師として働く福原伸子(吉永小百合)は一瞬にして消えてしまった 浩二が亡くなった事実を受け入れることができませんでした。浩二の恋人・町子(黒木華)や上海のおじさん(加藤健一)、近所の人たちに支えられ、浩二の死を受け入れ始めたある日、死んだはずの浩二が亡霊としてひょっこり現れます。

伸子の前に現れた浩二は生前と変わらぬ様子でいろいろな思い出話を懐かしそうに話しては伸子の支えとなります。浩二は 幼馴染で恋人だった町子のことが気にかかりますが、町子がやってくるときに浩二は姿を現すことがありません。

死者となった浩二と母・信子はその後どうなるのか、町子は……。これは観てのお楽しみです。この映画、親しき人の突然の死をどう受け入れるのか、その後の人生をどう進めるのかを定義している作品ですが、とても予定調和の感が強く、突っ込みどころが満載です。たとえば、長崎=カトリックの図式で、家庭祭壇があり、教会に行って祈るシーンもあるのですが、なぜかカトリック信徒のように見えません。ただ、長崎だからカトリックという感じしか与えないのです。また、母・信子が教会でミサ中に倒れてしまうのですが、私たち信徒がミサ中にだれかが具合が悪くなって倒れてしまったら周りの人が誰か助けるか救急車を呼びますが、近所の親しい人しか気がつかないのです。そんなことがあるでしょうか。

そして、映画全体のストーリーも井上ひさしさんならこう描くだろうと推測して作品作りをしたという山田洋次氏の言葉がありますが、井上ひさし氏がこんな作品を書くだろうかと疑問をもたらざるを得ないのです。これはあくまでも私的感想です。すでにDVDになっていますので、ご覧になって皆さんの感想をお聞かせいただければと思います。

(中村恵里香/ライター)

予告編:https://www.youtube.com/watch?v=hvrs_103jRw

監督・脚本:山田洋次/脚本:平松恵美子/音楽:坂本龍一
製作年:2015年/製作・配給:松竹
出演:吉永小百合、二宮和也、黒木華、浅野忠信、加藤健一、広岡由里子ほか

 


私がつくった本の原点に立ち戻りたい

書店に行って驚いたのですが、「食」に関する本のコーナーがつくられて、いろいろな種類の書物が並んでいました。それらは健康に関するもので、「食事術」やら「カラダに良い食のレシピ」といった実用的なものがあります。なかには、「腸は第2の脳」である」といったカラダの内部へ目を向けたものもあります。食べ物と腸という内臓器官との関係が、いままでの医学では捉えられなかったメカニズムとして明らかになってきています。NHKでは「人体」といった番組で健康への意識を高めています。「健康長寿への挑戦」とかが取り上げられ、人々はとにかく健康で長生きしたいのだなと感じました。

医学の父と言われるヒポクラテス(紀元前5~4世紀)は次のような格言を残しています。①汝の食事を薬とし、汝の薬は食事とせよ。②食べ物で治せない病気は医者でも治せない。③食べ物について知らない人が、どうして人の病気について理解できようか。

「食」の語源は、人に良いと書きます。人のカラダは、何を食べるかで結果が決まってくるとも言われます。そこで「食育」ということが注目され、「食」に関する意識が高まってきたのでしょう。

『農薬を使わない野菜づくり』『農薬を使わない野菜づくり part 2』徳野雅仁著(マルジュ社刊)

私たちが食べている食材は、確かに農薬で汚染されていたり、化学肥料や遺伝子組み換えによって、かなり変化してきています。それがカラダに悪いことが専門家によって明らかにされてきました。「パンと牛乳はすぐやめよう」といった内容の本も読まれているようです。パンは小麦に問題があり、牛乳は乳牛が食べる餌などに問題があるということです。

私にはこうした現代の風潮に対して甦ってくるものがあります。それは私が編集した1冊の本です。『農薬を使わない野菜づくり』という徳野雅仁さんが著した本です。徳野さんは漫画家で、家庭菜園をしていました。本の奥付に1980年4月2日発行とあります。当時は家庭菜園をはじめる人たちが少しずつ増えていました。そうしたなかで、農薬を使わないで野菜を育てるということに注目されたのです。

徳野さんは、文芸春秋漫画賞を受賞したばかりでした。得意のイラストで分かり易く説明された『農薬を使わない野菜づくり』は朝日新聞の家庭欄で紹介され、広く人々に読まれていきました。

同上

私は、この本をつくるときに「食」ということへの関心が高まりました。そして、自然のなかであるがままに育てることが一番大切なのだと知りました。キュウリは曲がっていてもいいし、トマトは歪んでいても美味しいのです。無耕転栽培するなかで、農薬など使わなくても、野菜は育っていくことを教えられました。

「食」を考えるとき、いまでは地球環境についてまで思考を巡らさなければなりません。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は、農薬で利用されている化学物質の危険性を取り上げて話題になりました。「食」ということへの関心を持続することが、生きとし生けるものたちの生命をどのように守っていくのかを考えることなのだと、いま改めて意識しているところです。

鵜飼清(評論家)

 


特集18 「食」の霊性を求めて

3月をとおしてテーマとして浮かび上がってきたのは「食」です。きっかけは、今年の3月がすっかり四旬節に包まれていたことです。四旬節の意味合いの一つとして「断食」があります。キリスト教において「食」を節することへの勧めがどのような意味をもっているのか……。そこから現代の「食」の危機、食育の大切さ、「食」を通じての人間回復、共同性回復の試みなど、今、「食」をめぐる動きの活発なすがたが見えてきました。人間にとってはもちろん、そして、キリスト教にとっても「食」は大切なテーマです。その入口、窓口、切り口はどこにあるのでしょうか。いくつかのアプローチをとおして触れてみたいと思います。

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「食」とキリスト教あれこれ

教室に吹く風

恋するレストラン

私がつくった本の原点に立ち戻りたい(2018年4月3日追加)

 


「食」とキリスト教あれこれ

キリスト教には食べ物に関するタブーがない

さまざまな宗教の人々が出会う現代ですから、ある宗教ではあれやこれを食べないという食べ物に関する戒律があることにも少しあります。日本には精進料理という伝統があるので、そのような習慣の人に出会っても「ああ、なるほど」と納得できる面がありますが、たとえば、イスラム教やユダヤ教では豚を、ヒンズー教では牛を食べないといった規定は、ふつうにそれらを食べている私たちにとっては、厳しいもののように思えます。変な言い方かもしれませんが、宗教らしいなと思わせるところもあるのではないでしょうか(食のタブー、宗教における食のタブーについては、いろいろな情報がネット世界に出ていますので、もろもろご参照ください)。

では、キリスト教には、そのような食に関する戒律があるでしょうか。確かに、ある教派では、食べ物や酒に関する禁忌を設けているところもありますが、本来、そしてカトリックの伝統においても、食べ物に関するタブーはない、禁忌戒律のようなものはないというのがほんとうです。だから……暴飲暴食が発生するのでは……と心配するかもしれません。何か食べ物に関するタブーがあるほうが宗教らしいのでは……と思われるでしょうか。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』(1495~98年、ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院)

あまり、言われていないですし、ましてや神学できちんと論じられてきたこともないかもしれませんが、「食」はキリスト教の本質にとても深く関わっています。……というより、そのことが、今日、ようやく気づかされてきたといえるかもしれません。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵が有名なように、キリスト教にとって晩餐、食事ということは重要な場であったのですが、そのことの意味がきちんと論じられていなかったのでしょうか。

 

「食」は世の中を映し出す縮図

いつの頃か、メディアを通じて、「食」のつくことばが増えてきました。「飽食」の時代というように高度経済成長を遂げた日本社会のあり様を指していわれたり、一家団欒の食卓風景というものはテレビ・ドラマの中だけで、両親ともにそれぞれ働き、子どもは塾などがあって夕食も家族が揃わない光景が普通になると、「個食」ということばが生まれ、さらにそうしたくないのに、一人寂しく食べなくてはならない状況については「孤食」ということばが生まれたり。これらの現象に言及するネット情報からも、社会の姿が浮かび上がってきます。この場合の「食」は食べ物、食物に関しても、食べることのあり方、食べ方、食事のあり様に関してもいわれているのが特徴です。そして、とりわけ子どもたちにとって、これら「食」のありようが、人間としての成長・成熟に支障をきたす重大なことなのだという点の意識化が進んできました。

「農家さん」⇒「米屋さん・八百屋さん」⇒「家」というだけではない食をめぐる産業の発展ぶりはもういうまでもありません。まさに先進国での「飽食」と途上国での「飢餓」が隣り合わせになっている世界、地球環境、生命の問題すべてに関わる現象の中で、わたしたちはふだんどのように生きているのでしょう。あまり意識せずに生活の必要から、健康や経済にそれなりに気遣いながら適宜、利用し、駆け抜けているというのが実情かもしれません。

現代の「食」のあり方と「人」のあり方が相関し合っていること、その中で、いのちと食の関係を見直し、人間回復の機関活動にしようという広い意味での「食育」的活動がクローズアップされてきました。佐藤初女(はつめ)さん、辰巳芳子さん、伊藤幸史(こうし)神父の活動は、それぞれにわたしたちの意識化を促してくれています。

 

キリスト教神学と「食」

今、「食」は人類そのものにとって最前線の問題であるといえるかもしれません。人間にとって最重要テーマの一つであるならば、キリスト教にとっても、大きなテーマのはずです。では、どのように神学で研究されるべきかというと、案外、まだそれがきちんとできていないようにも思われます。

宮本久雄『存在の季節:ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生』(知泉書館 2002年)

そんななか、一つの論考が目に止まりました。宮本久雄師(ドミニコ会司祭、元東京大学教授、上智大学教授)の著書『存在の季節:ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生』(知泉書館 2002年)の第6章にある「食卓協働態とハヤトロギア」という論考です。西洋哲学の主流となったギリシア的存在論(オントロギア)と異なる「ハヤトロギア」という立場から存在を新たな視点で論じるという難しい書ですが、ここの論考自体は、人間の本質を称して、「ホモ・マンドゥカンス」、つまり「食するところのもの」として捉える人間論が展開されています。難しいのですが、こんな文章が目に止まります。

「生命の広大な連関や食連鎖という、いわばウィトゲンシュタイン流の『生の形式』にあって、人間は生と食を問う存在である。彼はこの生命と食の連関に無意識的に埋没せず、そこに依存するこの意味を問う特異な在り方をしつつ、生命的在り方を他の生物とは異なった仕方で創造する。すなわち人間は食を文化として再創造、再構成する。その意味で『人はその食べるところのもので在る』(フォイエルバッハ)といえる。そして人間はさらに自己が広大な生命連関において生かされてあることを感謝し、その宇宙大の生の形式を示す。古来人が食物の収穫時や祭礼において、神々に供物を捧げ、犠牲の家畜を奉献したこともその証左の一つであろう。」(221ページ)

「食は、人間的生命の普遍的交流の場であり、また根源的な生命力に感謝する祭礼でもあり、また生死をかけて闘争する根源悪の場面でもあり、文化や善や義の徳を創造する場でもある」(222ページ)

 

「食」の神学、「食」の霊性へ

宮本師は、この論考で、まさに、「食」を人間理解、それだけでなく人間の宗教性あるいは宗教そのものの理解の核心に置きつつあるようです。こうしたことを前置きとした上で、本論では、新約聖書に示された「食卓協働態」、つまりイエスが行ったり、語ったりした「食卓」や「宴」のあり方、使徒時代の信者共同体における「主の晩餐」のあり方を考察し、最後に、現代の食文明の危機的様相に目を向けます。大胆な考察で、まだ試論と呼ぶべきものでしょうが、ここには「食」を人間論、あるいは人と神との関係の中核に据えた実践的な神学の素描があるように思います。考察の展開の中で、石牟礼道子さん、道元、安藤昌益などが参照されているところには、「食」という主題の普遍性、現代性が如実に示されています。

イエスの食事、主の晩餐への論究からただちに連想されるのは、やはりミサではないでしょうか。他の教会では聖餐とも呼ばれるように、キリスト教の中心的な典礼は、結局は食事の営みがもとになっています(「ミサはなかなか面白い」でも考察が続いていますが)。今、復活祭を迎えていますが、イエスとの食事の記憶、特に復活したイエスとの一緒の食事の記憶がまさしくミサや聖餐の根源をなしています。

キリスト者とは、さきほどの「人間、食するもの」になぞらえていえば、まさしく「神の恵みとしてキリストを食するもの」です。神からの恵みを受け入れ、分かち合うこと(食すること)と、恵みへの感謝を神にささげることは表裏一体のことです。こんな、すごいことの意味合いを考えるのが神学であるとするならば、「食」はもっとも中心的な主題となってよいはずです。「食」の神学、「食」の霊性は、世の中でも求められており、教会や学校、家庭をとおしても意識化され、深められていくときを迎えているのではないでしょうか。

(石井祥裕/AMOR編集長)