ユルゲン・ハーバマス/ヨーゼフ・ラッツィンガー著『世俗化の弁証法:理性と宗教について』

名誉教皇ベネディクト16世ことヨーゼフ・ラッツィンガーはどの立場から評価するにしても、第2バチカン公会議後の時代に足跡を残した神学者であることは間違いない。教皇として彼が発信したメッセージの背後にある精神を覗かれる一書の紹介:

ユルゲン・ハーバマス/ヨーゼフ・ラッツィンガー『世俗化の弁証法:理性と宗教について』
Jürgen Habermas/Joseph Ratzinger, Dialektik der Säkuralisierung: Über Vernunft und Religion (Freiburg: Herder Verlag, 2005), 64 pages

本書は、小冊子であるが、教理省長官ラッツィンガー枢機卿(生年1927)が教皇に選出され、ベネディクト16世となる2年ほど前(2003年)にドイツ、バイエルン州カトリック・アカデミーで、批判哲学のフランクフルト学派の一人ハーバマス(生年1929)と、現代社会における宗教の貢献をめぐって討論した時のそれぞれの発題を収めたものである。

ハーバマスはコミュニケーション理論、社会理論において同じフランクフルト学派の創立者であるマルクス主義的なテオドール・アドルノ(生没年1903~1969)やマックス・ホルクハイマー(生没年1895~1973)の次の世代の哲学者であり、本来プロテスタント・福音主義教会の背景をもっているため、この二人からはある距離を保っている。それでも、すでにカトリック教会の保守派という評判の神学者ラッツィンガーがハーバマスと同じ会合に出席し、友好裡に議論を行ったことは一般の人々から驚きをもって受けとめられた。

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本書は、バイエルン州カトリック・アカデミーの会長フロリオン・シュラーの前置きで始まっているが、2人が用意し、まず自らの立場を語った発題内容を収録したもので、二人が交わした討論の部分はない。討論内容と雰囲気は『ライニシャー・メルクール』2004年1月22日号の詳細な記事と要約を読まなければよくつかむことができないと思われる(『ライニシャー・メルクール』は1946年から2010年までボンで発行されていた保守的カトリック系週刊新聞。2010年以降は『ディー・ツァイト』紙の中の「キリスト者と世界」という折込付録の形をとっている)。シュラーはほとんど同年輩の2人の知的巨人の出会いと友好裡に行われた議論がもたらす意義を強調している。

テーマは、いわゆるポストモダン市民社会における共通の倫理価値と基準の必要性をめぐるものであった。ハーバマスはそれを伝統的な教会に求め、多元的な市民社会に通用するように教会がもっている倫理的認識を今日に訴える言語で表現するように求めた。それに対してラッツィンガーは、現代の宗教的空白において台頭しつつある宗教的病理現象に憂慮の念を表明しながら、理性の側に立つ世俗思想と伝統的立場に立つ教会が互いに聴く力をもつようにならなければならないと応答している。

それまで、ラッツィンガー枢機卿が神学者として、キリスト教とカトリック教会の立場から政治的社会的な根本問題に関心を示していたことは、彼が教皇になってから出版された論文集『信仰・真理・寛容』の中の諸論文を読めばわかる。だから、彼がこのような討論会で、世俗的理性を代表する市民社会の弁護者ハーバマスの挑戦を受けて立ったのは決して突飛なことではない。彼はハーバマスに対して18世紀の啓蒙主義的理性を基礎とする古典的西欧市民社会が他の世界観をもつ宗教の脅威を受けるばかりでなく、人間存在の尊厳の保持が生命科学の進歩によって限界に来ていることを指摘した。ラッツィンガーが代表したキリスト教的立場からの主張の核心は、多元化した市民社会を分裂から救うものは、市民的価値に先行し、それを裏付ける根底が何であるかの認識であるという点にある。

(高柳俊一/英文学者)


ジョン・W・オマリー著『第2バチカン公会議で起こったのは何か』

前々回紹介した『トリエント――公会議で何が起こったか?』の著者オマリーが2008年に発表した第2バチカン公会議についての書を紹介する。日本では、司教団によって『第二バチカン公会議公文書』の改訂公式訳が2013年に出ており、この公会議の経緯や意義についての新しい視点が求められるところである。その刺激の一つにしたい:

ジョン・W・オマリー著『第2バチカン公会議で起こったのは何か』
John W. O’Malley, What Happened at Vatican II, Cambridge, Massachusetts. : The Belknap Press of Harvard University Press, 2008,xi+380 Pages.

第2バチカン公会議の経過については、1965年から2006年にかけて各国語に翻訳されて出版されたジュセッペ・アルベリゴの『第2ヴァティカン公会議史』をはじめ、日本語に翻訳された小史を含めて、いく冊の本がすでにある。カール・ラーナー(生没年1904〜1984)は、公会議後数十年経た時点を「教会の冬の時代」と呼んだが、半世紀を経た今日、この公会議で意図されたものは何であったかをあらためて考える必要がある時期が来ているようである。

公会議は教皇ヨハネ23世(在位年1958〜1963)が開催のスローガンとしてアジョルナメント(教会の現代化)をあげたが、今日では公会議のルスースマン(〔仏〕Ressourcement =源泉回帰)が教会当局によってスローガンとして折に触れて強調される時代となっている。ルスースマンとは手っ取り早く言えばリサイクルのことである。確かに、ルスースマンは本書の著者オマリーがあげる三つ、アジョルナメント(現代化)、デヴェロプメント(未来志向)とともに過去との連結を保証するものであるが、今日盛んに使われる意味では、第2バチカン公会議から純正な要素をリサイクルして再解釈するということ、それがスローガンになっているのである。

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イエズス会司祭である教会史家オマリーは、教会史における幾多の公会議を歴史的に概観し、近代、特に、「長かった19世紀」の背景をふり返ったあと、4会期にわたった第2バチカン公会議の成果を分析している。そして個々の論点を超えて、この公会議が教会のために何を達成し、将来にどのような方向を示しているかを語ろうとしている。

「長かった19世紀」は、間にレオ13世(在位年1878〜1903)のやや開放的な時期もあったが、グレゴリウス16世(在位年1831〜1846)の治世に始まる、近代主義に包囲された教会のカルチャーから理解されなければならない。イヴ・コンガール(生没年1904〜1995)が日記で記しているように、冷戦時代においてこのカルチャーのゆえに、教皇庁は、イタリア国内での共産主義政府樹立によるバチカン包囲への恐怖感によって、世俗世界への対立姿勢を強めていた。だから「長かった19世紀」は、20世紀が後半に入りまもなくの第2バチカン公会議開催直前まで続いたと言える。その姿勢は、数々の近代主義的傾向の排斥に見られるものである。

著者は、教会典礼用語としてのラテン語がすべてを統括する普遍主義を象徴していたことを指摘する。ハンス・キュング(生年1928)は自叙伝の中で、公会議の最初の文書がもっと重要であるはずのテーマでなく、典礼についての憲章であったことに対して滑稽感ともに幻滅感をもったと回想しているが、著者は『典礼憲章』の採択は、公会議において重要な、象徴的出来事として受け止めている。それは、以後、公会議で「起こったこと」、特に19世紀に高揚した教会の中央集権的メンタリティとの決別を象徴しているからである。

ヨハネ23世の「アジョルナメント」は、「現代世界を恐れるな」ということであった。当時もっぱら進歩的若き神学者として評価が高かったラッツィンガー(生年1927。教皇ベネディクト16世としての在位年2005〜2013)は、『第二バチカン公会議をふり返って』(原著1966年、再版2009年)という小著の結論として、「教会は喜ばしい時にも、悲しむべき状況でも、心の単純な人々の信仰に生きている。……彼らこそが新約の希望の灯火を後世に伝えるのである」と述べている。しかし「単純な人々の信仰」には、たしかに信徒のローマと教皇に対する強い愛着がつきものであるが、ローマ中枢の聖職者主義的カルチャーとは無縁であったのではなかろうか。オマリーの説明をたどれば、公会議の結末をなす重要な文書『現代世界憲章』は『典礼憲章』から出発したうねりの帰着、大団円であったのである。

『現代世界憲章』は、もっとも激しい議論を経て出来上がった文書であった。ルター派の義認論的人間観を意識したドイツ司教団は、フランス語圏の顧問が作成した原案に賛成しなかった。おそらくその背後には、よく言われるようにアウグスティヌスから出発するラッツィンガーの考え方があったのかもしれない。彼は公会議閉幕の典礼が「バロック的」雰囲気を醸し出したとコメントし、以下のように述べている。「しかし、公会議後の仕事はもっと深いところに及ぶ。ローマで起こったことは与えられた使命の公文書化にすぎない。その遂行が今や始まるのである」。つまり、それらの文書が現実に教会の制度に受肉されていくかどうかが問題なのだということであろう。

近代世界は、技術の次元にとどまるものではない。重要なのはそこに生きる人々である。著者によると、第2バチカン公会議は、外面的様相においても内面的姿勢においても、第1バチカン公会議とはまったく異なる教会の姿を夢想する一種のユートピアを掲げた。第2バチカン公会議で起こったのは、長すぎた「19世紀」の影と決別し、近代世界に対して識別の眼差しをもって積極的に関わらなければならないと考えた多数の司教たちの考え方が優位に立ったということである。しかし『教会憲章』で打ち出された司教の「共同性=コレジアリタス」の原理は、世界代表司教会議(シノドス)の制度化へと矮小化され、結果的にはそれを超えることなくとどまり、一極集中型の制度自体を本質的に変えるためにはさほどの影響を与えなかった。

オマリーの冷徹な歴史眼は、この公会議がそれまでと同様の権力中枢で開かれ、その名前(バチカン)を戴き、その組織の助けによらなければ成果を上げることができなかったという矛盾を内包していた事実を見抜いている。保守派は、かつて国務長官だったパウロ6世の後ろ盾によって最後まで結束を保っていた。ハンス・キュンクは、保守派の頭目オッタヴィアーニ(生没年1890〜1979)枢機卿が公会議閉幕時に「我々は勝利した」と喝破した、と記している。その後、改革を推進しようとするならば、さらに保守派の助けによって行わなければならないというジレンマが第2バチカン公会議の行く手にはあったというのである。

(高柳俊一/英文学者)


ヘレン・K・ボンド著『ポンティオ・ピラト:歴史と解釈における』と『カイアファ:ローマの友、イエスの裁判官?』

福音書が物語るイエスの受難史の中で、大きく立ちはだかるローマとユダヤそれぞれ体制の代表者総督ピラトと大祭司カイアファ。この二人の人物の歴史的実像はどのようなものなのだろうか。特にピラトは使徒信条を唱える際に繰り返し名を告げるだけに興味深い。近年の研究の様相を伝える2書を紹介ししよう:

ヘレン・K・ボンド著『ポンティオ・ピラト:歴史と解釈における』
同著『カイアファ:ローマの友、イエスの裁判官?』
Helen K. Bond, Pontius Pilate: in History and interpretation (Cambridge: Cambridge University Press, 1998) (Society for New Testament Studies Monograph Series 100), xxv+249 pages.
Helen K. Bond, Caiaphas: Friend of Rome and Judge of Jesus? (Louisville: Westminster John Knox Press, 2004), x+220 pages.

以上の2点は同じ女性新約学者によるイエスの裁判におけるそれぞれローマ行政官とユダヤ教大祭司であった2人の当事者についての研究である。

『ピラト』では、著者はまずローマの歴史家タキトゥスらの資料に基づいて、この第5代ユダヤ総督の政治・行政的状況をシリアとパレスティナの関係についての地政学的見地から説明している。すでにこの問題については多くの研究者の研究対象となっており、意見が分かれる点が多い。著者は序論で研究・学説史を展望して自分の立場を明らかにしようとする。ついで、新約時代におけるギリシア化したユダヤ人著作家フィロンとヨセフスの著書におけるピラトの記述を出発点として、彼らそれぞれの立場からのこのローマ総督に対する見方を紹介している。続いて、マルコから始めて第4福音書ヨハネまでのそれぞれの福音書の神学からなされたピラトの性格解釈を引き出す方法が取られ、最後に総括として、福音書の受難物語の背後に何があったのか、いわばイエスの史的裁判ともいうべきものを再現しようと試みている。著者は『ピラト』を発表した後、このローマ総督に対してイエスの受難史におけるもう一方の立役者エルサレムの大祭司長カイアファの研究を著している。

ピラトとカイアファ。両者のついての見方は、ピラトが東方教会では聖人とまで考えられるほどの高い評価を与えたのに対して、西方教会では反対にピラトに対する評価は低く、その死が恐ろしいものであったとしている。カイアファについては多くの場合、彼の人物はユダヤ人一般のイメージの中に取り込まれ、キリスト教徒の想像力をかき立てるものにはならなかった。

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『ピラト』において、著者はローマ属領史とその行政的区分と関係の問題、さらには当時のユダヤ側資料としてのフィロン(生没年 前25~後45)の著書やヨセフス(生没年 37/38頃~100頃)の『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』については多くの研究がなされていることを指摘し、そのおおかたの意見をまとめるが、福音書が描くピラトを細かく検討した研究は英語圏ではほとんど見られないと述べている。二人のユダヤ人著作家によるピラト像はそれぞれの立場や利害関係の網をとおして解釈されたものである。福音書におけるピラト像もその記述者の背景や意図のリトマス紙を通したものである。つまり、著者が言うには、共観福音書マタイとルカのものがどのようにマルコのものから違ったものになっているかが重要になってくる。あるいはヨハネ福音書の場合はどうであるのか。そして、それが1世紀のそれぞれ異なったキリスト教団がもっていたローマ当局に対してもっていた態度にどのように反映されているのかを見ることは重要である。

共観福音書の最初であるマルコは原始的な段階のものとされてきたが、著者はこのような古典的聖書学の見方には反対のようである。マルコの目的は、彼の教団の信者たちを来るべき迫害の困難のために準備させることであった。ピラトはこうしていわば強い性格の迫害者の原型としてマルコによって描かれる。マルコにとってイエスは何の非もなく処刑された救い主である。ピラトは有能な政治家で、けっして優柔不断な弱い性格の持ち主ではない。イエスは彼の前で沈黙したが、その沈黙が彼を十字架の刑に導いたのである。著者はこの点に関してマルコ4章17節と8章34~38節に言及している。すべての責任はユダヤ人祭司の側にある。ピラトによる処刑はねたみと誤解に由来する。マルコの福音は無実な人の子が決して失敗した政治的指導者などではなく、多くの人のために命を代価として支払った救い主であるとするものである。

マタイはこのテーマを受け取ったが、ユダの自殺の話や、ピラトの妻が見た夢、バラバのことなどを加えて語りとして引き立つようにした。著者はマタイにおいて群衆の役割とその責任を強調する。ある意味でマタイは反ユダヤ人主義的である。著者はピラトが総督ピラトと呼ばれることに注意を喚起する。裁判はあくまでもローマ当局による裁判である。しかしマルコに較べてマタイでは、ピラトの裁判での役割はあまり重要でなくなる。マタイの関心事はキリスト教徒とユダヤ教の関係の断絶であり、イエスの死の責任はユダヤ人祭司階級と群衆にある。ピラトにまったく責任がないのではないが、マタイの記述には、ピラトがローマとユダヤ人との微妙な関係を背景にして、事件の責任をユダヤ人側に押しつけようとしたことがうかがわれる。

ルカは受難物語の前にすでに3度ピラトの名前を出している。(ルカ3・1、13・1、20・20以下)。著者はルカがマルコの記述を大いに書き換えたと考える。ルカのキリスト教弁明の中心路線は23章1~25節で披瀝(ひれき)されているが、それはピラトをイエスの無実についての公的証言者として利用し、イエスの十字架刑の責任をユダヤ人の代表である大祭司たちの陰謀に結びつけることであった。最終的には群衆がローマの正義に勝つことになる。

ルカは初めてピラトを弱いローマ総督として描いたのに対して、ヨハネにおけるピラトは優柔不断の支配者ではなく、イエスを直ちに裁判し、彼がローマの支配にとって脅威であることを見抜く総督である。しかし彼はイエスを嘲ることを最後までやめない。ヨハネ福音書においてユダヤ人もピラトもともにイエスに敵対的である。イエスのこの世のものでない支配とカエサルの権力のはっきりとした対照は、この福音書の読者の教団が帝国主義的ローマの力をつねに意識していたことを暗示する。

聖書外からの証言は、ピラトが強力な行政官であり、同時に地域の平和を維持するために柔軟であったことを示し、水道の建設は彼が大祭司たちと協力関係をもつことができた有能な政治家であったことを示している。イエスの処刑は過越祭というもっとも手腕と緊張を要求する時期に行われた。ここでもピラトは、神殿当局と協力して秩序を守ることができることを示している。ヨセフスは彼が反乱を抑圧するのに容赦しない残忍な人物であると述べているが、フィロンが述べているように、過越祭のエルサレムで、兵士たちの盾から帝国のイメージを消させたような配慮ができる行政官であった。

次に『カイアファ』を紹介しよう。カイアファは代々大祭司を出していた一族であった。なぜ彼が長くこの職に就くことができたかはヘロデ・アンティパスの政策とのかかわりがある。著者はまず1990年11月の終わり頃、エルサレムの南で行われていた公共工事の現場で偶然発見された墓の石棺の文字からそれがカイアファ一族のものである可能性が取りざたされた墓について語る。その中にあった60歳前後の男性の骨は不確かだが、カイアファのものの可能性はある。それが、カイアファが実際の歴史の中で重要な人物であったことを示す証拠になりうると著者は述べている。

5世紀の外典『ピラトの言行録』では、彼と叔父のアンアは一貫してイエスの裁判で彼を糾弾するが、イエスの神性が証明されると、彼は回心して敬虔なキリスト教徒になる。アラビヤ語の幼児福音とも呼ばれる『ヨセフ・カイアファの本』は同じような見方をしている。しかし、この人物に対する好意的見方はキリスト教の中で一般的にならなかった。中世の神秘劇ではカイアファはおきまりの登場人物となったが、彼の滑稽さだけが強調された。そして後の時代でも現代に至るまで彼を好意的に見る者はいない。

カイアファは、裁判でイエスに出会う以前に彼自身の歴史をもち、それがイエスの裁判で大きな役割を演じた。この裁判はエルサレムの大祭司一族に生まれ育った人物とガリラヤの農村部で生まれ育った人物の文化的衝突であったことを著者は暗示する。カイアファはその生涯中多くのメシアや反乱者を経験し、大祭司として神殿で公的中心人物として生き、その政治的に重要な役目はローマ軍を彼の同胞に近づけないようにすることであった。その観点で彼とピラトとの関係は見られなければならない。こうして本書で著者はヨセフスと他のユダヤ教文書、死海文書やクムラン文書さらには後世のユダヤ教文書、考古学的知見を福音書に照らしあわせて「史的カイアファ」にたどりとこうとする。

まずカイアファという名前だが、それが「籠」を意味するようであるので、著者は祖先がおそらく市場で籠を売っていた商人か、ロバで籠を運ぶ運搬業者だったのではないかと推測する。しかし紀元前1世紀頃からエルサレムとその周辺に土地をもつ富豪になっていて、周辺の土地管理は代理人に任せてエルサレム市内に住む貴族となっていた。そのような貴族の中から、彼はエルサレム神殿で奉仕する大祭司に上り詰めるのだが、もともと祭司の一族でなかった彼がその地位に着くことができたのは彼が結婚によって大祭司アンナスの一族とつながりができたためであった。

ローマ属領、ヘロデ・アンティパスの支配の時、大祭司の第1の使命は神殿の行事がスムースに運ぶようにすることであり、そのために、ローマ当局と複雑で広い神殿構内の運営が任されるように微妙な妥協をすることであった。カイアファが受けた教育は当時の文書から知られるものであったはずである。ローマ支配時代はすべてのユダヤ人にとって困難なものであったが、彼は政治的現実を受け入れなければならず、ローマ当局が要求するところと神への義務の間を調整しなければならなかった。カイアファが19年間も大祭司でありえた事実は、彼の調整能力と外交的手腕のほどを暗示している。ある意味でそれが可能であったのはピラトとの良好な関係であった。ピラトがローマに召還され、パレスティナの現地を離れたとき、彼は大祭司の地位を失う。その後、彼はどうなったのか、彼の死はその誕生がヴェールに包まれているように神秘に包まれている。

著者は以上の考察の後、それぞれに1章をふりあてて4つの福音書における「文学的カイアファ」がどのようなものであり、どう違うかを詳しく分析する。最初のマルコ福音書は大祭司を名指しすることを拒否し、イエスの死刑が神殿の祭司団の責任であったことを暗示する。ルカは歴史的人物カイアファに興味をもったように見えるが(ルカ3・2、使徒言行録4・6)、実はマルコと同じで、カイアファの名前を出していないし、大祭司は使徒言行録の初めのペトロと弟子たちが神殿で起こす騒動には姿を見せない。マタイとヨハネにおいては、イエスの裁判をめぐって彼とイエスの対決の図式が使われている。マタイではまだ萌芽の段階だが、ヨハネはそれをはっきりと打ち出している。4人の福音書記述者とも「史的カイアファ」についての歴史的正確さには興味をもたず、なぜイスラエルの指導者、祭司たちがイエスを受け付けなかったのか、教会がどのようにして「新しいイスラエル」なのか、誰がそのメンバーなのかに興味を寄せるだけなのである。

(高柳俊一/英文学者)


ジョン・オマリー『トリエント――公会議で何が起こったか』

今年は、宗教改革500年にあたり、ルターに始まるあの運動が盛んに回顧され論じられている。この歴史的反省は、やがては、近代カトリック教会の揺籃といえるトリエント公会議にまで広げられていくであろう。更新された史料状況に基づく検証を示す書を紹介しよう:

ジョン・オマリー『トリエント――公会議で何が起こったか』
John O’Malley, Trent: What Happened at the Council,
(Cambridge Mass.: The Belknap Press of Harvard University Press) 2013, 335 pages.

本書の著者オマリーは米国の著名な教会史家であり、イエズス会創立時代と第2バチカン公会議についての著書もある。今回は、トリエント公会議についての著書である。

15世紀末の低迷ぶりに教会の聖職階級内外から改革を求める声が上がっていた。コンスタンツ公会議(1414〜18年)は、俗人諸侯が3人の教皇座主張者の出現による教会分裂(西方教会大分裂)を解消し、教会規律の再確立をめざした公会議であった。しかし、教会分裂が解消され、教皇と教皇庁がローマに戻り、教皇の権威が再び確立されたのちも、神聖ローマ帝国領ドイツと中央ヨーロッパでは、ルターの追従者による改革の叫びが大きくなったので、皇帝カール5世(在位年1519〜56)は、教皇に新たに公会議を開くように強く要求した。当初、消極的であった教皇側もこれに応じざるを得なくなったが、公会議開催の場所をめぐって両者の交渉は長引いた。教皇側は、当初イタリア中部の都市、どちらかといえばローマに近いマントヴァで公会議を開こうとしていたが、ルターを支持するシュマルカルデン同盟の諸侯が反対し、帝国都市とはいえ皇帝の影響を受けないであろう、北イタリアのトリエントでの開催ということで合意し、公会議が開かれることになった。

著者は、この公会議の経緯を検証し、本来のトリエント公会議それ自体と、それ以後に派生し蓄積されたトリエント公会議以後の現象としての「トリエント(公会議的伝統)」を区別し、この公会議にまとわりつく誤解を歴史学的に払拭しようとしている。

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著者はこの町が現在では中規模の都市になっていると書いているが、評者は、昔クリスマスに近いある日、ミュンヘンを朝6時に発ちローマに夜9時に着く列車で旅行したとき、トリエントの駅が小さく、ここがあのトリエントかと思ったことを今でも記憶している。半世紀前のことである。今では、ローマやイタリアの主要都市に行く旅行者の大部分は航空機を使うから、トリエント公会議に関心があっても実際にその町を通る者は少ないであろう。

16世紀当時、この町は帝国都市とはいえ、今よりもっと小さな山岳地帯の町であった。まず、このような小さな町に、ヨーロッパ各地から教会の高位聖職者と皇帝使節、随員、召使、それに聖職者顧問らのための宿泊施設や食料補給が可能なのか、ローマが本気で公会議を開くつもりなのかを疑う者も多かった。しかし、教皇パウルス3世(在位年1534〜49)の決意は堅く、フランス国王フランソア1世(在位年1515〜47)の軍隊を打ち破り、パリ近くまで侵攻していたカール5世は、スペインを含むヨーロッパ全土から配下の司教を送り込み、ベネディクト会修道院の院長や托鉢修道会の長上、諸国の大使が加わって、教皇使節モローネ枢機卿(生没年1509-80)の司式によって聖霊のミサが荘厳に祝われ、その5日後、最初の総会が開かれ、議事日程と議題が決められ、審議が始まった。

こうしてトリエント公会議は、1545〜47年、1551〜52年、1562〜63年の3つの会期を通じて18年にわたって続けられた。回を重ねるごとに参加者の数は増え、そのことは宿泊と食料補給の問題をいっそう差し迫ったものとした。加えて、この町の冬の寒さと夏の暑さに参加者は悩まされ、身体的疲労は長期にわたって、いつ終わるか先行きのわからない議論の連続に対する倦怠感を助長した。

この18年の間に、教皇はパウルス3世からユリウス3世(在位年1550〜55)、そしてピウス5世(在位年1566〜72)へと受け継がれ、神聖ローマ皇帝は、カール5世からフェルディナント1世(在位年1558〜64)の時代へと移り、フランスではフランソア1世とアンリ2世(在位年1547〜59)、スペインではフェリペ2世(在位年1556〜98)が頭角を現し、顧問神学者の中でアウグスチノ会のセリパンド(生没年1492〜1563)が最初の2期、イエズス会のライネス(生没年1512〜65)は最初の2期は教皇顧問神学者として、第3会期では総会長として、同じくイエズス会士サルメロン(生没年1515〜85)は全会期を通して教皇顧問神学者として抜きんでた活躍をした。数人の教皇代理の中で最後までその任にとどまったのはモローネ枢機卿であり、彼こそがさまざまな障害と行き詰まりを、卓越した能力によって克服し、トリエント公会議を成功裏に終了に導いた功労者であった。彼の成功は、第3期の途中にやっと姿を現したフランス勢の中心的人物シャルル・ド・ギーズ枢機卿(生没年1524〜74)の協力のおかげであった。そして、第3期まで常時200名だった参加者は、最後には280人になっていた。

なぜ、そのような緩慢な始まりだったのだろうか。アルプス以北のヨーロッパは政情、社会状況とも不安定であった。派遣する司教を選ぶ領主は、当然のことながら費用を抑えるために派遣司教の数を最小限にしていた。最後の会期では、イタリア勢がフィレンツェ、ハプスブルク家領のミラノ公とナポリを含めて多数を占め、アイルランド、中央ヨーロッパのハンガリー、チェコ、クロアチアからもごく少数の参加者があったが、ドイツ国内の宗教問題による騒動を終結させるのが、この公会議の当初の目的であったにもかかわらず、第2期をのぞいてドイツ勢はほとんど無に近かった。

コンスタンツ公会議では、諸侯つまり聖職者を含む諸国の大使が「オラトーレス」と呼ばれ、すべての会議に出席する権利を与えられており、会議の決定に大きな影響力をもっていた。しかし、ともかくも、コンスタンツ公会議に比べて、トリエント公会議は、聖職者が主導権をもった公会議であった。教皇はローマに在住し、枢機卿たちを集めた枢密院会議を定期的に開いていたので、教皇代理としてトリエントに派遣されていた数人をのぞいて大部分の枢機卿はローマにとどまっていた。教皇代理たちは、トリエントからローマへ議事録を送ったり、教皇から指令を仰いだりするために、多くの日時を要した。

18年もかかった公会議は、教皇にとって財政的に重い負担を背負わされる、結末の見えない事業であった。だから、彼らは教皇代理にしばしば強い調子で議事促進の指令を出した。それで「昔の公会議は聖霊が天から司教たちに降って進行したが、この公会議では聖霊がローマ教皇の指令の郵便袋によって到着する」と皮肉をささやかれたものである。

トリエント公会議についての書物といえば、ドイツの教会史家イェディン(生没年1900〜80)の『トリエント公会議史』全4巻(刊行年間1949〜75)が学問的な権威ある書物である。著者はイェディンに多くを依存しつつも、第2バチカン公会議以後の教会の現状に対する歴史的展望を読者に提供しようとしたと述べている。確かに、トリエント公会議は、ヨーロッパ内の不安定な状況に加えて、中央ヨーロッパと地中海へのイスラム(オスマン帝国)の進出による脅威の中で続けられた、教会刷新をめざした公会議であった。J.H.ニューマン(生没年1801〜90)が長い間、ローマ・カトリックへの改宗をためらった理由は、彼自身の言葉によれば、トリエント公会議がそれまでのキリスト教の伝統を捨てて、教会が昔の姿とは似ても似つかない代物に変わったと考えたからであった。

しかし、カトリック教会はまさにトリエント公会議によって近代への対応ができる教会になったのである。トリエント公会議は「祭具室の中での話し合い」では決してなく、近代に向かいつつある社会に対応する教義と制度に基づいて教会生活を確立しようとしたものであった。著者には、ぜひ19世紀末の第1バチカン公会議の評価も書いてもらいたいと思う。

(高柳俊一/英文学者)


イヴォン・シャーウッド著『聖書テクストとその後の生命・西欧文化におけるヨナの生存』

たった4章だけの旧約聖書の小預言書、ヨナ書。そこに登場するヨナは、巨大な魚(鯨とは書かれていないが自然に想像してしまう)に呑み込まれたエピソードで有名である。この話のゆえにキリスト教美術でも人気がある。このヨナ書を、ヨーロッパ文化はどのように「読んで」きたのか。その精神史の陰影を探る一書である:

イヴォン・シャーウッド著『聖書テクストとその後の生命・西欧文化におけるヨナの生存』

Yvonne Sherwood, Biblical Text and Its Afterlives: The Survival of Jonah in Western Culture
(Cambridge: Cambridge University Press, 2000), xii+321 pages.

旧約聖書のヨナ書は預言書の中に位置づけられているが、その位置は不安定である。他の預言書のように預言者ヨナが述べた預言から成り立つのではなく、ヨナにふりかかった出来事の物語であり、神から逃れた彼が鯨に呑み込まれ、3日3晩その内部にいてから吐き出され、ニネベで罪を悔い改めるように説いて回る物語である。ヨナは物語上の人物である。イエスも自分の復活を預言するのに使ったこの物語の主人公は、ヨセフやヨブと同じく、今日に至るまでさまざまな性格をもつ人物として描かれ、語られ続けてきた。ヨナとその物語は、聖書の中から外に出て、その後の長い生命をもっている。著者はその長い生存の歴史をたどる。ヨナ像の変遷は、聖書テクストとそれが読まれた文化との出会いの結実である。

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ヨナの物語の読みは解釈から解釈を呼び起こし、主人公ヨナのイメージを変形し、それを取り巻く場である物語を変えていく。その始まりを、著者は、マタイとルカが伝えるイエスの説教にみられる分裂に置いている。両者の差違がヨナの変形の原動力となり、教父たちから宗教改革者たちに至る釈義に対する刺激となった。

教父たちは予型論的にヨナとイエスとの関係を説明した。たとえばヒエロニムスはヨナが神から逃れたということを、キリストが御父のいる天から逃れてタルシシュ、つまり「この世界の海」に向かったと説明した。逃亡するヨナは御父の家と国を棄てて人間となった受肉したキリストである。ヒエロニムスにとって、嵐の時、船底で眠っていたヨナは、共観福音書の中で嵐の湖で船の上で眠っていたイエスを指し示す。偽クリュソストモス文書では、船底で眠っていたヨナは聖母の胎内にいたキリストである。ヨナの物語をイエスに予型論的に結びつける過程はやがてイエスの受難物語に結びつけられるまでに成長する。

ヨナが神から逃れるために乗った船は、教会や世界あるいは会堂に変化し、それがヨナの犠牲によって破局から救われたと説明されるようになる。船乗りたちは教会という船を操っていたのだが、彼らはゲツセマネの園でイエスが彼らの慰めを必要としていたときに眠っていた使徒、あるいはキリストに死刑を宣告したローマ官憲、あるいはキリストに反対したユダヤ人になっていく。嵐は、人類の苦しみ、あるいは罪によって起こされた混乱、あるいはペトロやパウロが経験した嵐の予型、あるいはユダの心に忍び込んだ悪魔の悪巧みと説明され、このとき船乗りの一人が「イエスを船から海に投げ捨てた」とされた。

ヨナとキリストの関連は、宇宙論的、黙示録的に拡大され、キリストと悪魔の戦いとなる。大魚は、人類に害を及ぼす巨大なあらゆる敵の軍勢、その頭目、サタン、最初のアダムを誘惑によって敗北させた死と地獄の受肉したものとされる。その内部の暗黒世界ではあらゆる汚物が呑み込まれ、失われた霊魂が永遠にあえぎ苦しんでいる。ヨナ=キリストは、古代の石棺に刻まれているように、その中から復活して死に勝利したと説明された。

ヨナの物語のテーマである彼と主なる神との争いは都合良く忘れ去られ、ヨナの名前が「ハト」を意味するとされ、聖霊のしるしとされた。アイルランドの宣教師コルンバヌス(543頃〜615)は、自分の名前とハトの結びつきをもじって自分が受けた苦難をヨナのものになぞらえている。12万の人口のニネベは、イスラエルの12部族のものよりもはるかに多く、それゆえにユダヤ教に対する教会の勝利を予告していると、ベダ・ヴェネラビリス(672/73 〜735頃。イングランドの司祭、神学者、歴史家)は釈義したが、ここに、ヨナ書の解説で初めて反ユダヤ主義が現れたと著者は考えている

教父の時代から中世の終わりまでのヨナに好意的な解釈は、宗教改革の時代に転機を迎える。ルター(1483〜1546)の説教によって、ヨナのユダヤ人としての性格が強調される。ルターは、一方ではヨナ=キリストの予型説、ヨナ=聖霊説を受け入れたが、ユダヤ人ヨナを神の意志に対応する頑迷な姿勢を示した人物、新約が取って代わる瞬間の、死に絶えようとする旧約を代表する人物を見ている。復活の予型というテーマは、大魚の体内の暗黒世界から新しい人に変化して現れた人物として、ルターがヨナを見るきっかけになっている。

ルターが、ヨナをユダヤ人とし、キリスト教徒にとっての「敵対者」として対照的に位置づけたのに対して、カルヴァン(1509〜1564)は、ヨナの物語を「教会=キリスト教徒共同体」内の敵対者の象徴と見て、教会内の規律を保つために用いた。ヨナの物語における嵐は、カルヴァンによれば、揺れ動く個人の良心の世界である。大魚の体内は地獄あるいは墓場、ヨナが引き込まれることを強いられた法廷であると同時に、驚くべきことに、それが病院であるとも説く。著者はミシェル・フーコー(1926〜1984)の『監獄の誕生:監視と刑罰』(1975)に言及しながら、カルヴァンは魚の体内に地獄の炎を見て、それがヨナの良心の呵責だと説明しているが、それはヨナの問題を外的世界から内面の世界へ向けることになる。キリスト教徒は自分の心の中の「敵対者」の誘惑に対決しなければならない。こうしてヨナは、心理的葛藤のドラマの中に位置づけられることになった。

以後、啓蒙期から19世紀にかけての聖書学の確立に至る過程で、ヨナは啓蒙主義哲学の代弁者に仕立て上げられていく。シュライエルマハー(1768〜1834)とアドルフ・フォン・ハルナック(1851〜1930)は、新約の純粋に倫理的宗教が旧約の抑圧的一神教に取って代わり、アブラハムの子孫は迷信にしがみつく古い時代の残り物であるとみなした。ハルナックは、旧約聖書が新約聖書の後に付録としてつけなければならないと主張した。ユダヤ系詩人ハイネ(1797〜1856)にとって,ヨナ書は迷信と排他性を乗り越えて西欧文化への入場券を手にするための格好な文献であった。ユダヤ教は古めかしく、時代遅れ、偏狭な神の声に対して抵抗した合理主義者として、旧約の内部からユダヤ教を非難した人物とみなされるようになる。ヨナ書は「原福音書」として、ユダヤ教を棄てて近代化の道を取るための道しるべとなった。

19世紀半ばになると、エドワード・ピュージ(1800〜1882。イングランド国教会の司祭。教父叢書の創刊者)の注釈に見られるように、古生物学や海洋生物学の発達のおかげで、注釈者たちはヨナ書の大魚に注目するようになった。彼は動物学的知見によってこの大魚の大きさを特定し、そのような生物が実在することを証明しようとした。そうすることによって、彼はダーウィン(1809〜1882)の進化論における生命の自然的連続の中に聖書を位置づけ、聖書のテクストを自然史の一部に組み入れようとしたのである。

著者は、ここまでをヨナについての思想・文化・文学史の表層における主流部分と位置づけ、以後を底流の部分として、ユダヤ教の旧約聖書ミドラシュ(ユダヤ教的聖書解釈)における解釈とそれが生み出した続編物語、さらに民間伝承の産物を分析している。その際、著者は19世紀のミドラシュと14世紀の二つのミドラシュを取り上げている。キリスト教のヨナの取り扱いにおいて、予型論を主流としたところの聖書の世界が自然科学の世界に組み込まれることができるかどうか、その意味で近代的な思考の世界に属しうるかの問題に焦点を置くものとなっていったが、ミドラシュの伝統は、ヨナの物語を旧約聖書の他のテクストに結びつける。そして、イディシュ語(ヘブライ語的要素の混合したドイツ語で、中東欧ユダヤ人の言語)の非論理的な語呂合わせ、語源解説および旧約聖書の他のテクストの引用や言及による、荒唐無稽で、ますます拡大して終わりのない喜劇的世界の中で不安定に動き回る「生き物」にしている。ミドラシュによるヨナ物語は、大魚の体内の暗黒の世界とヨナの苦しみとそこから解放されても癒されない絶望に、ブラックユーモアの感覚をもって集中しているようである。

このようなヨナ像は過去の主流のヨナ像とは正反対のものである。ミドラシュにおける、正統的なものとは違うヨナ像は、中世伝承・文学から近代文学にかけてのヨナ物語と一脈通じるものがある。著者はその要素がポストモダン文学につながっていくと考えているようである。中世物語文学では、『ヨナの物語』(Carmen de Jona)や14世紀の『忍耐』(Patience)のヨナが、呑み込まれた鯨の体内の世界につながる。この世界の「不気味さ」は、たとえばフランソア・ラブレー(1494頃~1553頃)の『ガルガンチュア物語』では滑稽なブラックユーモアの世界において表現される。あるいは絵ではヒエロニムス・ボス(1450頃~1516。ネーデルラントの画家)の混沌世界に発展していく。イディシュ的ユーモアは、ジョージ・オーウェル(1903 〜1950。イギリスの作家。『1984年』で知られる)の有名な随筆「鯨の体内」につながり、それが作品引用による滑稽な混沌世界に拡大されれば、ジョイス(1882〜1941。アイルランドの小説家)の『ユリシーズ』の世界になっていく。

著者は、解釈の主流と底流の伝統枠からヨナを救い出そうとし、それを新しい、ポストモダンの不確定な神義論の現場に位置づけようとしている。そして、そこに聖書学の将来があることを暗示する。

(高柳俊一/英文学者)


デイヴィッド・アルヴァレス著『ヴァティカンのスパイ・ナポレオンからホロコーストまでの諜報活動と陰謀』

教皇のもつ国際政治における働き、影響力、存在感は、カトリック系のメディア以外でも注目の的であることは周知であろう。その外交に不可欠な教皇庁の情報活動を主題とする本書。近代史の知られざる一面に光を投げかけている:

デイヴィッド・アルヴァレス著『ヴァティカンのスパイ・ナポレオンからホロコーストまでの諜報活動と陰謀』 
David Alvarez, Spies in the Vatican: Espionage and Intrigue from Napoleon to the Holocaust (University Press of Kansas, 2002), 341 pages

本書は本題と副題ともに刺激的であり、メディアで騒がれるような類のものとの先入観を呼び起こしかねない。だが、これは大学出版局から出た研究書であり、外交史の分野に属し、その中での情報活動の歴史を取り扱っている。しかも、それは同時に近代教皇史になっている。本書の内容はヴァティカンの奥でのスパイの暗躍あるいは内部の暴露記事ではなく、あくまでも外交戦略を補助するものとしての情報収集活動である。この時期、諜報活動は国の外交政策決定をも左右していたのである。

本書は各国のスパイがヴァティカンの内部情報、特に自国に対する政策に関するものを入手しようとした活動とともに、各国の宗教政策の情報を入手する活動を取り扱っている。「ヴァティカン」の内部その推移の叙述は、ナポレオンが台頭したピウス7世の治世から始まり、第2次大戦中のピウス12世の時代に及んでいる。この間、10人の教皇が在位し、教皇庁はしだいに近代的機構を整備していった。

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著者はヴァティカン文書館を中心に数年にわたって調査を行ったという。そして第1次大戦から第2次大戦への時期に諜報活動が国家戦略と外交政策においてますます重要となった経緯、そしてこの世界最古の国際的組織がどのような列強の諜報活動の対象となり、自らも情報収集を組織的に行うようになっていったかを探っている。

列強がヴァティカンに対して諜報活動を行って得ようとしたものは、ヴァティカンそのものについてばかりでなく、ヴァティカンに集まってくると思われた他の列強の情報であった。その限りでは、世界の情報が集まる場所としてヴァティカンが他の場所で得られない情報をもっているという「神話」が出来上がり、過大評価されるようになったことである。

本書はそのような神話にあまり根拠がないことを示すようである。ヴァティカンに寄せられた情報は多くの場合、各国駐在の教皇使節(大使)から寄せられたものであり、政府関係者との個人的接触によって得られたものであったが、彼らは聖職者としての関心と特有な心理の枠組みを通して報告していたからである。確かに、ヴァティカンに寄せられた修道会や個人からの情報もあったが、それらはほとんど各地の教会内の問題に関するものであった。さらに、教皇庁国務省における情報処理の効率性が高まったのも列強に比べればはるかに遅かった。

20世紀、ヴァティカンは暗号システムの遅れにつねに不安を抱いていた。特にドイツのナチス政権時代、外交官特権で守られるべき、封印された外交郵便袋は、途中で傍受されることがつねに危惧されていた。そこで、ヨーロッパ大陸の国へのものは信頼できる第三国の外交郵便袋に入れて送られるか、あるいはヴァティカン職員の聖職者に運ばせていた。その成功例でもっとも有名なのは、ナチス政権の政教条約違反を非難し、ナチズムを弾劾したピウス11世の回勅『ミット・ブレンネンダー・ゾルゲ』(「燃えさかる憂慮をもって」1937年)がナチスの保安網をくぐり抜けてドイツ国内に運ばれ、秘密が漏洩することなく各教会に配布され、枝の日曜日に、劇的に説教台から読み上げられた事件であった。多くの主任司祭はこの文書を当日の朝受け取ったのである。

ヴァティカンにとってもう一つ重要な課題は、ロシア革命後のソヴィエト政権の反宗教政策下でのカトリック教会の運命であった。それはいかにしてカトリック教会を地下で存続させることができるかの問題であった。寄せられる情報は少なく、断片的であった。著者は次のような事件を伝える。フランス政府の協力を得てピウス11世が1926年にフランス人イエズス会司祭デルビンユをベルリンで教皇大使によって司教に叙階させて派遣し、彼はモスクワの教会で数人の信徒の前で早朝ミサを行った。その後、参列者の一人で、田舎から出てきたように見える農民(実は革命後まで取り残されたフランス人司祭)を香部屋に呼び入れ、驚く彼を2人の証人の前で、略式で司教に叙階し、地下で教会が続くようにしたというものである。

枢軸国側ばかりでなく、英仏側もヴァティカンの動きを正確にいち早く知ろうとして躍起になっていた。教皇は「ヴァティカンの囚人」といわれたが、それは主権が及ぶ領土がローマ市によって取り囲まれていたからである。そのことは1929年にムッソリーニのイタリアと政教条約が結ばれても、ヴァティカン市国が外国から包囲された状態に置かれていわば孤立状態であり、各国へ派遣した教皇大使の公式報告、その他の関係者・信者の非公式報告と各国のヴァティカン大使館から得られる情報に頼り続けていた。おまけに、国務省はつねに人員不足であり、第1次大戦前には12人にも満たない状態だった。第2次大戦中のピーク時でさえもローマの人と外国人を合わせて100人ぐらいのもので、1人がいくつかの専門部署を兼任していた。第2次大戦中の孤立状態の中でヴァティカンの情報収集活動がまがりなりにも組織的であることができたのは、要員の献身的働きに加えて、ピウス12世が任命した2人の次官タルディーニ(1888〜1961)とモンティーニ(1897〜1978. 後の教皇パウルス6世)の貢献である。気性の激しいタルディーニに比べて、モッティーニは統率力があった。

著者によれば、ヴァティカンでは、秘書仕事を除いて外交要員が聖職者であり、その志気と職業意識が高かったために、国務省の秘密ファイルに幾度も接触を執拗に試みた枢軸側の諜報員の活動は失敗に終わった。事実、ナチス政権は多くの場合、元司祭という不審な人物を使ってヴァティカン職員から秘密情報を入手しようとしたが、成功しなかった。ヴァティカン市国を取り囲んだムソリーニのファシスト政権の要員も同じイタリア人であったから、ヴァティカン市国周辺でその職員が通っていたコーヒーショップでの会話、高位聖職者が加わった社交サロン等でのうわさ話からしか情報を得ることができなかった。ヴァティカンの近所に諜報拠点を構えたナチス・ドイツは、現地の新聞とイタリア政府が得た間接的なものをヴァティカンの情報としては本国に送っていた。

他方、事実としてヴァティカンが孤立状態の中で得ていた、壁の外の世界の情報はあまりにも少なかった。この問題は、ヴァティカンがどの程度ナチス政権下のドイツとオーストリアでユダヤ人虐殺の全貌の情報を得ていたかにかかわってくる。近年、ピウス12世の責任問題でやかましく議論され、幾冊もの書物が出版されている。その多くが、没後20年余り称賛されてきたこの教皇が、すべての情報を得ながら沈黙を守り、ユダヤ人を見殺しにしたとして責任を追及するものである。さらに、イタリアの反ナチス活動家が居室の窓から見えるところで処刑されても、「ドイツびいき」であった教皇がナチスを非難する言葉を一言も発しなかったことまで追及するものもある。

この点に関して著者は、ヴァティカンが最初の段階で情報を得て各国政府に警告したが、アウシュヴィツや他所での“ホロコースト”については情報を得ていなかったとしている。この議論には決着はないであろう。当時の複雑な事情に加えて、さまざまな先入観や意図が論者たちに作用するからである。

著者が証明した一つの事実は、ヴァティカンが外交政策を決定し推進する過程で、世俗政府が行うような諜報手段を使うことができない制約があるということ、「情報」の宝庫であるという「神話」にもかかわらず、実は入手する情報が少なかったということである。ヴァティカンの情報網なるものは列強によって過大評価されていた。ピウス12世を非難する側にも、奇妙な具合にこの「神話」が無意識に影響を与えて、歪んだ見方を助長しているのかもしれない。

(高柳俊一/英文学者)


ケスター・アスプデン著『要塞教会:英国のローマ・カトリック司教と政治 1903〜63』

EU離脱との話題で国家の針路に関心が高まる英国、その中でローマ・カトリック教会はどのような立ち位置にあるのだろうか。20世紀の軌跡についての概観の書を紹介する。なお文中、英国教会と記さされるのは英国国教会、イングランド国教会とも訳されるThe Church of Englandのこと。世界的教派「アングリカン・チャーチ」(Anglican Church= 聖公会)の母教会である:

ケスター・アスプデン著『要塞教会:英国のローマ・カトリック司教と政治 1903〜63』
Kester Aspden,Fortress Church: The English Roman Catholic Bishops and Politics 1903-63 (Leominster:Gracewing,2002), x+351 pages
同じ英語圏でも、米国のカトリック教会については研究が進み、その移民時代から今日に至るまで多くの単行本が出版されている。英国についてよく知られているのはエリザベス朝の迫害期と1829年のカトリック解放令のこと。続いて1850年にカトリックの教会位階組織が再建され、新たに司教区が創設されて以降、英国社会に残されたカトリック教会が3人の枢機卿、マニング(1808年〜1892年、1851年国教会からローマ・カトリックに転会、1865年ウェストミンスター大司教、1875年枢機卿)、ニューマン(1801年〜1890年、国教会から転会し1846年ローマ・カトリックの司祭叙階。1878年枢機卿)、ワイズマン(1802年〜1865年。スペイン・アイルランド人移民家庭に生まれたカトリック信者で、1825年司祭叙階、1850年ウェストミンスター大司教および枢機卿となる)の指導のもと、「外国の教会」という根強い偏見や反カトリック感情に対抗した20世紀初めまでのことであろう。その後の20世紀になってからどうであったかについては、これまでほとんどまとまった書物がなかった。本書は副題にあるように英国におけるローマ・カトリックの司教たちがウェストミンスター大司教を中心として、少数者の教会から「事実上の英国の国教」といわれるほど社会的認知を受けるまでに成長する前夜、第2バチカン公会議終了までを取り扱っている。

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上述の19世紀の3人の偉大な指導者のうち2人は英国教会からの改宗者であり、攻撃の矢面に立たされたが、社会的にはよく知られた優れた人物たちであった。著者が述べるように、彼らの後の時代の教会指導者たちはほとんど今では忘れられているような平均的教会人なのに対して、19世紀の教会指導者はたしかに卓越した知性をもつ思想家であった。ところで、著者は19世紀以来のカトリック教会史学が傾向として、この頂点をなす三人の思想や行動に重点を置き過ぎ、その影響で現在は信徒の信心に集中していることを批判している。1903年から1963年の間の英国カトリック教会の歴史をふり返るために、司教を頂点とした聖職位階の指導的役割とその重要性を過少評価するのは誤りであるとするのである。

著者は、本書がヨーロッパ全体の国際情勢を背景に、英国内の社会・政治問題に対する司教たちの反応に特に注目して叙述する。それは、強力な指導者たちが教会行政に集中し、全体的に閉鎖的メンタリティになったのに加えて、ローマ依存を強めた時代であった。「ゲットーの中に閉じこもった教会」とか「要塞教会」の時代と呼ばれるように、この時代にウェストミンスター大司教ブーン(在職1903〜35年)、ヒンズリ(在職1935〜43年)、グリフィン(在職1943〜56年)、ゴッドフリ(在職1956〜63年)の指導下にあった英国のカトリック教会は内向きで、もっぱら教会組織を固めることに専念していた。それはローマの傾向を反映したものでもあった。教皇ピウス10世(在位1903〜14年)は教会法を整備し、ベネディクトゥス15世(1914〜22)がそれを『教会法典』として1917年に公布した。この法典は各教区司教に自分の教区に対する霊的、現世的裁治権を付与し(335条)、司教は教会法の遵守を監督し、悪弊を斥け、教義と道徳の純粋性を保証し、カトリック教育を推進する役割をもつこととなった(336条)。そして329条2項によって、教皇はすべての司教の任命権者となり、かつてなかったような権限をもつこととなり、教会制度は中央集権的となり、教皇庁の制度的整備によってこの傾向は一層強まった。

1908年に、英国のカトリック司教区は整備されたとして、その管轄が布教聖省(現在の福音宣教省)から枢機卿会議聖省(現在の司教省)に移管され、もはや英国は布教地との位置づけではなくなった。実際、それは中央集権政策の所産であった。司教にはローマで教育を受けた人材が選ばれるようになり、定期訪問によって司教たちは各自の教区の運営について詳細な報告が義務づけられた。

ヨアンネス23世(在位1958〜63年)以前の歴代教皇は、近代主義が教会に入り込むのを極度に警戒し、信者の社会運動は必ず司祭の指導下にあることを義務づけ、徹底的にローマの監視が行き届くように配慮した。「教える教会」(ecclesia docens)と「習う教会」(ecclesia discens)ははっきりと区別され、後者から司教教書、教皇庁各省の文書を含む教導権への従順が義務づけられた。ピウス10世の時、英国のカトリック司教位階組織に対してこの政策を具体的に実施する務めを担ったのは教皇庁国務長官メリ・デル・ヴァル(1865年〜1930年)であった。彼はスペイン・アイルランド系で英国生まれであったため、
英国のカトリック界に強力な影響力を行使した。

このように、英国カトリック教会の公的姿勢は教皇至上主義的でローマ依存的であったのだが、ベネディクトゥス15世(在位1914〜1922)は回勅『アド・ベアティッシミ・アポストロールム』で、カトリック信者に、使徒座の介入がない領域でのさまざまな意見表明を容認した。一貫して、近代主義の脅威に対する敏感な姿勢が取られたが、社会問題についてはかなり広範な意見表明の可能性が与えられた。司教たちは主要な問題となった社会問題に関心を示し、教会の社会教説の原理を説くことが使命であると考えた。ただし、政治の分野へのカトリックの司教位階組織からの直接的な指導や介入は英国ではみられず、政治に対する関心の表明は信者にゆだねられ、そこではおおむね公正、寛容、自由の原則が容認されていた。ヨーロッパ大陸におけるような、聖職者の強力な指導下にあるカトリック政党は英国では実現しなかった。それはおそらく英国のカトリック教会が一般社会から隔離されていたためであった。

他方、教派立学校の存続の問題では、協力関係を樹立しようとする試みに対してカトリックの司教たちは否定的であった。19世紀のカトリック解放令の結果として、オックスフォード大学やケンブリッジ大学へのカトリック子弟の入学拒否は撤回されていたにもかかわらず、ローマの神学校で教育された多くの司教は大学に対しては敵対的であった。

それでも、カトリック教会は近代主義と道徳的、社会的混乱に対して残された最後の砦と考えられ、ロナルド・ノックス司祭(1888年〜1957年。1917年カトリックに転会)に代表されるように、英国教会からローマ・カトリック教会への転会者の数は増加の一途をたどり、1920年には12,621人とそれまでの推移のピークに達した。両大戦間時代の世界情勢と国内情勢は、英国社会に根強かった反カトリック感情を弱めると同時にカトリック教会を社会の主要な潮流に統合させ、指導者たちは、英国社会に属する教会であるという自覚と対外姿勢を明らかにするようになった。この時期、19世紀のマニング枢機卿以来はじめて英国カトリック教会は、ヒンズリ大司教という温かく包容力のある人柄、独裁政治に対する嫌悪や他のキリスト教徒と共に祈る連帯の気持ちをもった指導者を生み出すことができた。そして、エキュメニズム(キリスト教一致促進運動)への展望は、本書の最後の部分にあたるヒーナン枢機卿(在職1963〜76年)の時代にようやく顔を出すこととなる。

(高柳俊一/英文学者)


ロバート・クリーグ著『ナチ・ドイツにおけるドイツ神学者』

最近の欧米での排外主義の台頭は、20世紀の悪夢ともいえるドイツ・ナチズムの記憶を呼び起さずにはいられない。キリスト教の立場から、あのナチズムと対決した教会指導者・神学者たちについて物語る本を紹介し、認識を新たにしてみたい。

ロバート・クリーグ著『ナチ・ドイツにおけるドイツ神学者』
Robert A. Krieg, Catholic Theologians in Nazi Germany  (New York:Continuum,2004), xi+234 pages

ナチ(ナチス)政権下の第三帝国時代のドイツにおいてキリスト教の指導者はどのように行動したのだろうか。プロテスタント教会の監督の多くはナチに協力したわけではないが、無抵抗であった。反面、ナチに抵抗する地下運動に加わり、処刑されたディートリヒ・ボンヘッファー(1906〜45. ルター教会牧師)らの殉教者がいた。カトリック教会でボンヘッファーに相当する殉教者の代表格はルーペルト・マイアー(1876〜1945. イエズス会司祭)である。

では、ナチに対するドイツのカトリック教会の司教たちの態度はどうであったのだろうか。司教たちの態度はある意味でドイツのカトリック信者の態度を代表していた。著者は、まず当時のドイツにおける政治と教会の関係を展望し、続いて5人の当時活躍した神学者たちの立場を論じ、最後にナチ時代におけるカトリック教会の対応を背景に、神学の動向の全体像を描いている。さらに、1917年~1949年の年表と1933年~1945年の神学著作の文献目録が付録として添えられている。

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著者は前書きで、ケルン中央駅のそば、ライン河のほとりに樫の木が天を目指すように高くそびえ立つゴシック式建築の大聖堂の象徴的意義に言及する。それは、位階的教会制度とその教会論を代表し、司教と信者にとって、いわばナチズムに対する信仰の砦としての象徴的役割を果たした。それが示すように、ナチズムの霧と暗黒に対して、教会は希望と光の源泉であった。1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラー(1889〜1945)を新しい首相に任命した。それまで任命された首相は、プロテスタント、カトリック双方の教会の立場を尊重しており、それらと何の衝突もなかった。しかし、国家社会主義ドイツ労働者党(いわゆるナチ)の指導者たちは、1920年の綱領とヒトラーの著書『我が闘争』を拠り所にして、キリスト教教会を非難し、新しい異教主義を広めようとしていた。

カトリック司教たちはカトリック信者がナチに入党することを禁じていた。したがってヒトラーの首相任命は司教たちに次の選択を迫るものとなった。これまでどおりヒトラーへの反対を続けるか、あるいはヒトラー政権との衝突を避ける道を探るかの選択である。彼らの選択は以後12年間、信者の死活を左右するものとなった。それまで大部分のカトリック信者はナチにではなく、カトリック中央党に投票していたが、1933年3月5日の選挙でナチは40%の得票率で勝利し、それはそれまでのどの党の単独得票率をもはるかに上回っていた。ドイツにおけるカトリック信者の富裕階層の一部は、カトリック教会とナチの関係を緊密にするよう働きかけ始めた。その背景にあったのは、政権側がカトリック中央党の解散を条件に、バチカンとベルリンの間での政教条約締結をちらつかせたことであった。同年3月22日、ヒトラーは国会でキリスト教教会、特にカトリック教会との友好的関係を求める演説を行った。だが、その直後、議会はワイマール憲法を廃止し、ヒトラーの独裁を認める法律を可決したのであった。

司教たちはこの事態に直面して、新政権に対する立場を明確にするように迫られ、ドイツ司教協議会がそれまで2年間、一貫して取ってきた信者のナチ入党禁止方針を撤回した。この間、バチカンとベルリンの間では政教条約締結交渉が進められ、5月30日、条約草案が司教協議会の会議で示された。ケルン大司教カール・ヨーゼフ・シュルテ(1871〜1941. 在職1920〜41)とアイヒシュテット司教コンラート・フォン・プライシング(1880〜1950. 同司教在職1932〜35, その後ベルリン司教在職1935〜50)は、教会の活動が大幅に制限され、新しい法律によって独裁制が公認された以上、ヒトラーが政教条約を守らないときでも法的対抗手段が取れないと主張して強く反対した。しかし、司教協議会は政教条約を支持し、国家が人権や教会の権利を侵害することへの警告を含む声明を発表するにとどまった。政教条約は7月20日に調印された。すると、すでに始まっていたヒトラーの教会に対する迫害が一段と強化された。

ミュンヘン大司教ミヒャエル・フォン・ファウルハーバー枢機卿(1869〜1952.大司教在職1917〜52)は、待降節の一連の説教で、キリスト教のユダヤ的起源とキリスト教にとっての旧約聖書の必要性について説教したが、これはプロテスタントにおけるナチに協力的なドイツ・キリスト者運動が教えた「アーリア民族的イエス」の考え方を間接的に非難したものであった。ともかく政教条約締結後、ヒトラーが教会迫害を強化すると、教皇ピウス11世(在位1922〜1939)のもと国務長官を務めていたパチェリ枢機卿(後の教皇ピウス12世. 在位1939〜1958)とドイツ司教協議会が意図したとおりには約束が履行されないことが明白となった。

当時、バチカンとドイツのカトリック司教たちがもっていた教会論は教皇至上主義であり、教会がそれ自体で「完結した社会」(ソチエタス・ペルフェクタ)であるというものであった。それは近代的政治理念を受け入れることなく、民主主義に対しても猜疑心をもつものであった。ファウルハーバー大司教はワイマール共和国を「欺瞞と裏切り」と断定してはばからなかった。彼は、政治的にはカトリック王制の支持者であった。ドイツの司教たちがヒトラーと政治的妥協の道を選択したのは、彼らが議会制民主主義のワイマール共和国に対して忠誠心を抱いていなかったからである。もちろん、カトリック信者の中には、第2次世界大戦後の宰相コンラート・アデナウアー(1876-1967.宰相在職1949〜63)のように議会制民主主義を支持する運動があったが、ナチ反対の急先鋒ミュンスター司教クレーメンス・アウグスト・フォン・ガレン(1878〜1946. 在職1933〜46)は、民主主義は教会と国家の分離を目指すものであるとしてこれを厳しく批判した。バチカンとドイツの司教たちがヒトラーとの妥協の道を選んだのは、彼らの第一の責任として、ヒトラーに対して教会を守らなければならないと考えたからである。教会は神の恵みを信者にもたらす完結社会であるから、教会の指導者は神の民の救いのための制度を守り続ける責任があると考えたのである。バチカンは、ナチと条約を結ぶか、ナチ・ドイツ領内のカトリック教会の実質的消滅のいずれを選ぶかという選択に直面したのであった。

当時ドイツの国立大学には7つのカトリック神学部と12の神学校があった。その教授たちの大部分は従来通りのスコラ神学を教え、教会がヒトラーとどう向かい合えばよいのかについて、公に発言することは全くなかった。そればかりでなく、これら合計19の神学部・神学校の教授会は、同僚のだれかがユダヤ系であるとかカトリック中央党寄りであるとして、ナチ政権によって追放されても抗議せずに沈黙を守った。他方、およそ200名の教授たちのうち約10名はナチ党員となっただけで、その他は、全体主義国家に対して沈黙の抵抗を戦争が終わるまで続けた。

しかし、すべての神学者が抵抗の沈黙をしていたわけではない。バチカンとヒトラー政権が政教条約締結の交渉をしていると司教協議会が発表したとき、ある者は、教会とナチ国家との協力を支持して発言したが、他のある者は、慎重な態度を教会に求めた。前者は仲介者と呼ばれ、カトリシズムと国家社会主義の間に接点を見いだそうとしていた。

その有名な例はカール・エシュヴァイラー(1886〜1936)、ヨーゼフ・ロルツ(1887〜1975)、カール・アダム(1876〜1966)であった。エシュヴァイラーは東プロシアのブラウンズベルク(現ポーランド、ブラニェヴォ)で基礎神学を教え、ロルツは教会史家で同じくブラウンズベルクで教え、カール・アダムはテュービンゲン大学の教義学教授であった。アダムはその著書『カトリシズムの本質』(1924)が英語をはじめとする多くの言語に翻訳されて、今日でも国際的に有名である。彼を戦後、教会史の大家として活躍したロルツとともにエキュメイズム運動(キリスト教一致推進運動)の発展に大きく貢献した。また『我々の信仰のキリスト』(1954)を書いてキリスト論の歴史をまとめ、ブルトマン(1884〜1976)の「非神話化」理論を強く批判した。他方、反ナチ姿勢によって教壇を追われた教授たちの中で、後にも活躍し、有名となる人物の一人にロマーノ・グアルディーニ(1885〜1968)がいる。彼は1923年からベルリン大学で宗教哲学とカトリック世界観を教えていたが、1939年追放された。またフライブルクの教義学者エンゲルバート・クレープス(1881〜1950)もいる。彼は1936年に教壇から追放された。

これら相反する2つのグループに共通なのは、彼らがプロイセン時代の文化闘争の時に育ち、青年時代である1920年代に聖書研究と典礼運動にかかわり、神学者として時代の問題に鋭い関心をもっていた比較的進歩的な神学者であったということであろうか。特にナチと友好関係を築こうとした神学者たちにしても、強調点は異なっていたが、ナチの第三帝国主義を全面的に肯定してナチ党員になったわけではなかった。ただもっともナチに近かったのはエシュヴァイラーで、自教区の司教が反ナチ姿勢をはっきりと打ち出しても、彼は教会とナチズムは共存しうると公言し続けていた。彼に代表される、スコラ主義から脱却して神学をしようとした神学者たちは、民主主義を含む近代を嫌悪したという点で反動的であった。彼らはオーストリアの詩人フーゴー・フォン・ホフマンスタール(1874〜1929)が「保守的革命」と呼んだものをヒトラーが実現しようとしていると考えたようである。

著者の解説を受けて筆者が考えるには、ナチに同調した神学者の思想背景にはゲルマン民族の意識の底にあるロマン主義的要素がある。それはドイツ語圏に根強い理想的な第三の時代、「第三帝国」への憧憬と中世の神聖ローマ帝国の理想化につながる。ヨーロッパは一つの文化という彼らの汎ヨーロッパ主義がロマン主義的感情に促されて統一国家の夢を抱かせたのであろう。しかしナチのイデオロギーが、キリスト教に敵対する、純アーリア人中心の近代異教主義国家を目指すものであることに気づかなかったのは不思議である。それほどドイツ精神の基層においてロマン主義は根強かったのであろう。

反ナチの姿勢に立ったグアルディーニとクレープスは、近代との対話を目指し、その世俗主義には超越的根底に対する意識が欠けていることを指摘しようとした。特にグアルディーニは、近代をヨーロッパの堕落の時代としてだけ見るのではなく、それがすべての人を人格として尊重するものであることを評価した。彼にとって、それはとりもなおさずキリスト教伝統に根ざすものであった。しかし、多元的近代社会には道徳的価値の合意がなく、権力が乱用される危険がおおいにあるというのがグアルディーニの結論である。クレープスは、ヒトラーの反ユダヤ主義に公然と反対したばかりでなく、聖金曜日の典礼にある盛式共同祈願の中の「邪悪なユダヤ人のための祈り」に代表された教会の反ユダヤ人主義にも反対した。彼の対ナチ抵抗姿勢を可能にしたのはフライブルクの大司教コンラート・グレーバー枢機卿(1872〜1948. 大司教在職1932〜48)の支持であった。グレーバーは、当初はナチとの共存を目論でおり、配下の教区司祭にも国家社会主義に融和的姿勢を取るように指示していたが、その立場を後に変更した。フライブルク神学部の教授たちのうちナチ党員となった者は一人もいなかった。

1930年代後半から40年代にかけて、ドイツの司教たちはナチ政権のやり方を非難するようになったが、その急先鋒はミュンスター司教ガレンとベルリン司教プライシングであった。彼らはユダヤ人の国外追放を含む人権侵害を非難した司教団としての文書を司教たちに求めたが、支持を得ることができなかった。しかしケルン大司教ヨーゼフ・フリングス(1887〜1978. 大司教在職1942〜78)の助けを得て、司教たちはついにナチの無差別殺戮を非難する決議を可決した。

著者はこの時期有力であったカトリック神学における「教会=キリストの体」とする教会論の曖昧性を指摘する。すなわちこの教会論は、教会が有機的共同体であるという側面を強調しつつ、一方ではナチに同調的な神学者たちを生み、他方ではそれが特定の民族のものであることを拒絶し、自由と人権に関して近代との対話を目指す進歩的神学者も生みだしたからである。しかし、上記の5人の神学者たちは、いわばフランス革命後に復興した教会の時代が終わろうとする時代に現れ、その啓蒙主義と啓蒙主義後の動向による脅威を乗り越えた、新しい知的地平におけるカトリシズムへの道筋をつけたのである。

(高柳俊一/英文学者)


アリスター・マクグラス著『自然の再魅力化』

環境問題に対するキリスト教の責任を問うような論調に触れたこともあるだろう。環境問題やエコロジーとキリスト教との関係を考察する書物に引き続き注目したい:

アリスター・マクグラス著『自然の再魅力化』
Alister McGrath, The Reenchantment of Nature : The Denial of Religion and the Ecological Crisis  (New York:Doubleday, 2002),  xviii+204 pages

環境問題(危機)は、自然科学が巨大化し、大量生産によって人類に幸福をもたらすと考えて自然を搾取してきたつけがついにまわってきて世界中が直面している大問題である。このような人為的災害の根源にキリスト教の考え方を見る識者もいる。環境危機をキリスト教の責任にする米国の識者は、東洋宗教やネイティヴ・アメリカンの考え方にその精神的解決を見いだそうとしている。さらに自然が神聖なものであるとして自然を女性神としてあがめようとする「環境フェミニズム」がある。それに対し、ここに紹介する本書の著者アリスター・マクグラスは、英国教会(聖公会)の聖職者であるとともに自然科学者として、キリスト教と自然科学が相対立する分野でなく、洞察を交換しながら人類のために奉仕できるという確信を伝えようとしている。

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著者は、近代において人間が自然科学のせいで自然の魅力を感じることを忘れてしまったとし、その感覚を再び取り戻すべきだと訴えている。そしてそれが究極的にこのような環境問題の危機の克服の第一歩だと述べている。

このために彼は、キリスト教伝統における自然観を掘り起こし、現在の環境危機にとってキリスト教がその問題の一部であるとする主張が偏見と無知によるものであることを示すばかりでなく、将来の自然に対する態度を本来の姿に戻そうとする。根本的問題は人間の自律性を主張した近代の出現とともに、自然は人間に従属する組織体とみなされるようになり、キリスト教がこの世界観の出現に責任を負わされたことにある。その結果、自然利用に際しての人間の責任感の喪失が生じ、自然が特別なものであるというどの考え方も時代遅れとして斥けられた。自然はかつて特別な魅力をもつものとして扱われていたが、近代においてその特権を剥奪され、非神聖化された。だから、現代の環境危機を乗り越えるために自然を再魅力化するとしたら、キリスト教伝統に戻らなくてはならないと言うのである。

著者はまず、キリスト教の創造に関する考え方によって人間、自然、神の関係を説明し、そこから環境問題についての示唆を得ようとする。アウグスティヌス(354~430)、ボナヴェントゥラ(1217~1274)、フランスのルネサンス期の哲学者ジャン・ボダン(1530~1596)やアメリカ植民時代の神学者ジョナサン・エドワーズ(1703~1758)の考え方を使って、創造された世界に神の美しさの反映を見る伝統がキリスト教にあったことを指摘する。マクグラスの創造論では、人間を神の似姿、神のかたどりと見る人間観が核になっている。神の似姿である人間は神の美を反映する自然を尊重し、世話をする使命を与えられている。この認識がキリスト教の環境論的意識のもとである。

著者は、1961年のニューデリー世界教会協議会大会でのジョーゼフ・シットラー(Joseph Sittler, 1904~1987. シカゴ・ルーテル神学校教授)の演説がその意識の最初の現れであったとしている。また、彼は、最近のものとして一九九一年に米国カトリック司教団が発表した文書『地を新しくする』や、ユルゲン・モルトマン(1926~)の『創造における神』の三位一体論的環境論に触れながら、カトリック神学、エヴァンジェリカル神学、そしてプロセス神学におけるプロテスタント自由主義神学などが人間を自然の管理人であると考え、エデンの楽園の回復という終末論的希望のもとで自然と向かい合うというキリスト教的自然観を有していると考えている。そして自ら提案するのは、キリスト教の豊かな伝統から学ぶことである。

この観点から著者は、近代啓蒙思想期とは人類が自然を収奪し、支配者的種として世界を改造し、神を抹殺しようとした時代であり、そこには自然科学と無神論との間における一時的同盟関係が存在したとし、これを「ファウスト的契約」と呼ぶ。そして、これは近代技術の意識を無限に生み出すが、そこから生じる弊害を考えない、パンドラの箱なしのプロメテオスだとし、この意識をもつ近代人の自然への働きかけが「スターリン主義的環境論」であったと非難する。著者はこのように、自然支配の思想の背後に啓蒙主義の自然観である機械論的宇宙観、法則で動く時計仕掛けの自然という思想があったと考え、それに対して、マルティン・ブーバー(1878~1965)のいう「我と汝」の関係を人間と自然の間の関係に応用することを提案する。この人格的な関係は究極的には神と人間の関係である。ここで著者は、機械論的宇宙観の反論として起こったロマン主義の自然観に注目するのである。

機械論的宇宙観は楽観主義的のように表面的に見えても、その根底において「自然に肯定的である」のではなく、「自然に対して猜疑的」である。著者は、ホッブス(1588~1679)の考えを例にあげなから、啓蒙主義の自然観が「権力獲得のための闘争と生存」という観点から生まれたものであり、技術はここから生じたとする。啓蒙主義は自然の粗野さを文明化するという称賛すべき目的をもっていたが、結果的に自然破壊と貧困をもたらした。その典型的症例が産業革命で、それがもたらした「アーバニゼイション」(都会的にすること)という語は人間を社会的に洗練されたものにするという元来の意味から農村地帯を都市化するという意味に変わっていった。

これに対して、ロマン主義は人間と自然が調和して存在しうると主張する啓蒙主義への反論である。著者は、特に詩人ジョン・キーツ(1795~1821)の「自然は超越的存在を垣間見せる」という考え方に注目し、それを証聖者マクシモス(580頃~662)に代表されるギリシア正教の自然観「宇宙は神の典礼である」に結びつけている。自然はこのように見られたとき、その意義が変化する。この自然観は、もはや人間が孤独な存在でなく、精神的空虚の中に生きているのではないことを教えるのである。著者は、マッハ(1838~1916) やドーキンズ(1941~)らが唱えるような科学的自然主義に対して、近代の終わりの時代にあたって自然に再び魅力を取り戻させることを提案する。そのためにキリスト教は豊かな思想的資源をもっていると本書を通じて主張し続けるのである。

自然科学の攻勢と宇宙の法則と精神の倫理的要請を峻別したカント(1724~1804)の影響を受けてドイツ・プロテスタント神学者たちが長い間、歴史の意義に集中し、自然界の問題を取り上げなかったのに対して、英国教会の神学者たちは宇宙論を視野に入れていた。本書からもそのことがうなずけるが、それは彼らの中に護教学が残っていたことを暗示する。マクグラスも20世紀を終えた時代における自然科学の雰囲気を前提にしているが、それは自然科学が自然科学者の手の終えないところまで進歩し、彼自身では解決できない多くの問題が集約される環境問題に直面したところでの、キリスト教神学者による自然観の提案である。それゆえに信仰の弁明である護教学が内包されているのである。

(高柳俊一/英文学者)


『「神はそれが極めて良かったと見られた」:カトリック神学と環境問題』

教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ:ともに暮らす家を大切に』(2015年、邦訳2016年)によって、環境問題に関するキリスト教の考え方や取り組み方があらためて注目されている。カトリック神学の世界でこのテーマへの関心が盛り上がってきた約20年前の提言の書をこの機会に紹介しよう:

ドリュー・クリスチャンセン、ウォルター・グレイザー編
『「神はそれが極めて良かったと見られた」:カトリック神学と環境問題』'AND GOD SAW THAT IT WAS GOOD
Drew Christiansen,Walter Grazer,eds,“And God Saw That It Was Good”:Catholic Theology and Environment(Washington D.C.:United States Catholic Conference,1996,vii+354pp.)

本書は、21世紀には人間と自然界の環境的健康が大きな関心事となるという予想をもって、1991年、米国の司教団が発表した司牧教書『地を新たにする』がきっかけになっている。同教書は、神学者たちに、カトリックの伝統と環境の関係についての洞察を求め、それを深め、推進するよう呼びかけた。その要請にこたえてオレゴン州ポートランドにあるベネディクト会のマウント・エンジェル(Mount Angel)大修道院に集まった神学者たちの論文を集めたのが本書である(執筆者8名、うち男性5名、女性3名)。序論は冒頭に、1990年1月1日の「世界平和の日」に教皇ヨハネ・パウロ2世が寄せたメッセージ「環境の危機:共通の責任」の言葉を掲げている。「キリスト者は特に、創造された世界に対する責任、および自然界と創造主に対する義務がその信仰の本質的部分を占めていることを悟っている」。

環境問題に対してカトリック教会の関心が示されるようになったのは、この教皇メッセージからさらに10年前へとさかのぼる。この関心にとって根拠となるのが、第2ヴァティカン公会議の『現代世界憲章』(4)の「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている」という言葉である。それでも、環境問題への実際的な取り組みには神学的基礎付けがなくてはならない。本書はその必要性を満たそうとするものである。「カトリック信者が信仰生活と環境への配慮を結びつけるのを助ける試みにおいて究極的に重要なのは、そこの神学的基礎を与えることである」と語られるとおりである。

【さらに読む】
序論は、教皇の言葉に続いて、簡潔に、ヴァティカンの公式文書と米国司教団の文書における環境問題の取り上げ方を跡付け、そして米国司教団の環境計画の大要を説明する。「神が創造された世界への配慮は本質的に宗教の問題である。神は我々の宇宙の創造主である」――米国司教団の環境計画はこの確信を基礎としていることが言及される。

本論は、事実上、二つの部分に分かれている。第1部でポートランドの会合で発表された八つの論文が収録され、その付録として上述の教皇メッセージがある。第2部で、米国司教団の司牧教書。さらにオーストラリア司教団、ドミニカ共和国司教団、グアテマラ司教団、北イタリア司教団、フィリピン司教団の環境問題に関する文書、米国の司教区新聞の論説が収録されている。

第1部の八つの論文では、創造論、終末論、秘跡論、ベネディクト修道院の霊性伝統における自然に対する責任意識、カトリック社会教説の伝統を環境倫理へ発展させる可能性、共通善の概念と環境に対する責任、最後に個人の徳と環境への責任の問題が取り上げられている。つまり、前半は神学的テーマ、後半は倫理のテーマを扱っている。執筆者たちがカトリックの伝統を意識し、そこからインスピレーションを得ていることが一見して印象づけられる。特に倫理についての論文は、伝統的倫理原則や概念を、新しく現れてきた問題に対応するために広げようとしている様子が見受けられる。

カトリックの神学伝統には、自然に対する秘跡論的展望が生きており、それを環境問題にただちに適用させていくことができる。本書の編者たちは、このカトリック的環境神学を展開するにあたって教皇のメッセージとともに、次の三点が出発点になったと述べている。第一は、創造における神の計画であり、それによって、人間の違反にもかかわらずキリストの死と復活によって被造界の秩序が回復されたことである。第二は、被造界の秩序の保全に関する考え方であり、自然科学と技術の無差別な応用や自然資源の配慮を欠いた乱用、動植物の破壊や遺伝子操作を避けるという倫理的義務を課すことである。第三は、被造界の美的価値への配慮である。この側面は人間性を回復させる役割をもつからである。「神の前に住むことによって、我々人間は自分たちが創造された世界の一員であり、それから離れることなく、被造界の中にあってその管理者であることを体験し始めるのである。」

本書の最初の論文はクリフォード(Anne M. Clifford. 聖ヨゼフ修道女会)が書いた「神についての環境論的カトリック神学のための基礎」というものである。創世記の初めにある創造物語が人間の活動による環境破壊を増進させたとする批判に答えて、それが環境に対する責任ある態度を促進することを示し、創造論と贖罪論の間の隔絶は、イエスをそれらの間の中心に置くことによって解決できるとしている。第二の論文「環境論と終末論」においてホート(John F. Haught) は、終末論の中の、約束と未来に達成される事柄に対する希望の要素を取り上げている。宇宙を神の再生の約束の達成の場と捉え、それを人間の体験の中に取り入れて体の復活に結びつけ、終わりの日における宇宙の変貌との関係で環境問題に取り組むことを提案するものである。

次に「嵐の声:宇宙論とカトリック自然神学」という文学的な題のもとでトゥーラン(David Toolan. イエズス会)は、環境問題との関連でカトリック神学が近年の物理学的宇宙論との関係を取り戻すことを目指している。近年の非ニュートン的物理学とカトリック神学の秘跡的なものの見方には接点があると彼は考えている。続くアーヴィン(Kevin W. Irwin. ニューヨーク大司教区司祭で、典礼学・秘跡神学の専門家)は「被造界の秘跡性および典礼と秘跡における創造の役割」と、フェイス(Hugh Feiss. ベネディクト会司祭)のこれまた文学的表現の「からすを見守れ:環境への責任とベネディクト修道院の伝統」は、それぞれ環境の意識を培うために典礼と霊性が大きな役割を果たすことができると示唆する。

ヨハネ・パウロ2世は、社会回勅の一つの中で「人間的エコロジー」という表現を使って人々の貧困と劣悪な居住状況が彼らの人間としての尊厳を破壊するばかりでなく、同時に自然環境にも壊滅的打撃を与えることを指摘した。これをもとにヒンツェ(Christine Firer Hinze)は、「カトリック社会教説と環境倫理」で、社会教説の伝統と環境問題を結びつけ、社会正義と経済的正義の概念の拡張を試みている。編者の一人クリスチャンセン(Drew Christiansen. イエズス会司祭)は、「エコロジーと共通善:カトリック社会教説と環境的責任」において、伝統的な共通善の概念を消費財の使用の抑制による環境破壊と南北問題の解決のために適用し、さらに空気、水、大地のような共通の資源を他の生き物との共通の善として考える方向に広げることを提唱している。最後の論者ブレイク(Deborah D. Blake) は、「持続可能性の倫理に向けて:徳と環境」において、トマス・アクイナスの徳目論に寛容、愛、慈悲、謙遜、かかわりと責任を加えて、これらが実践される共同体は自己のためばかりでなく環境に対しても正義を実現できると説いている。

編者が認めているように、本書はカトリック思想が本格的に環境問題に取り組むための第一歩である。最後に米国司教団の司牧教書の一つの言葉を引用しよう。「現代の環境危機は回心への特別な呼びかけである。個人、団体、国民として、我々はこの地球を、子どもたち、そしてまだ生まれていない世代のために、救うべく回心を必要としているのである。」
(高柳俊一/英文学者)