死者は死者であって死者ならず


あき(カトリック横浜教区信徒)

わたしが産声をあげたのは昭和31年。
今年で66才になってしまいました。

わたしの父は昭和26年から始まった集団就職列車に乗って宮城の片田舎から上野につきました。
集団就職列車という言葉は今の人には耳になじみがないかもしれません。
当時、多くの若者たちが金の卵として地方から都市部にこの列車に乗って沢山集まりました。日本の高度成長時代を支えた集団就職者の一人が、わたしの父でした。

そして昭和28年。横浜の鶴見に運よく純和風の自宅を構えることができました。
父の時代は「男は外で働き、女は家を守る」が当たり前の時代です。
当時父は、週休2日はありませんでしたので土曜日まで働き、日曜日は(休みたかったのでしょうけど)子どもたちを遊びに外に連れて行ってくれました。
鶴見という町は「ちむどんどん」(NHK)でも紹介されましたが労働者の町です。
高架を走る線路の下には、立ち飲みの酒屋があり、どこかに遊びに行くときも、父は必ずそこに寄って、一杯お酒を飲んでから出発します。
わたしも、大きなガラス瓶からイカ刺しを取って一緒に食べました。
そんな昭和の時代を父は生き抜き、平成3年。
クリスマスイブの晩、昭和天皇の後を追うように天に旅立ちました。

わたしには、父が建ててくれた家が残りました。
当時わたしは35才。
すでに結婚しており二人の子どもがまだ小学校の頃でした。
仏壇の上に父のしかめっ面の写真が飾られ、玄関の表札が父の名前から、わたしの名前に代わりました。
それから時は過ぎ、子どもたちもそれぞれ伴侶を迎えました。
父の死後、同居していた母も平成30年イースターの日に父の元に旅立ちました。
子どもたちも、その後、それぞれの場所に居を構えました。

昭和の時代から、わたしたち家族を守ってくれた父の家も古くなりました。
何度か改修を繰り返したのですが、なぜか建て直すつもりはありませんでした。
改修費用を考えれば家一軒建つほどですが、
父が建ててくれた家を壊す気持ちになりませんでした。
今ではわたしたち夫婦の元に一匹の犬が同居するようになりました。
この古い家に、子どもが孫を連れて遊びに来るようになりました。
この家もそろそろ築70年を迎えるようになってしまいました。

そして今年。
この家の最後の大改築をすることにしました。
わたしと妻が老後を住むための家。
仏壇も改築のためにちょっとの間引っ越しです。父と母の写真がじっとわたしを見つめています。
わたしは、今この年になって思うのです。子どもの頃、厳しかった父親。
ご飯を残すと怒られ、泥だらけになって帰ると怒られ、酔っぱらって話しかける父親。
そしてどちらかというとその陰にいた母親。
そんな二人の面影が、そして笑顔が頭をよぎります。

死者は死者であって死者ではない。
この家に象徴されるように、わたしは守られて生きてきました。
そして死者はわたしの中で生きていきます。
わたしの子どもたち、孫たちが生きていく過程で、きっとわたしも生きていくことでしょう。
そう思います。
死者の月にあたり、遠く天に上った父母の姿を回想しました。

 


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