かけがえのないあなたの価値 イザヤ54章10節


佐藤真理子

そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。――あなたをあわれむ方、主は言われる。

(イザヤ書54章10節)

キリストは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という言葉を語りました。神を愛し、人を愛することが最も重要なのだと伝えたのです。私たちが従うべき唯一の基準は、愛です。

神様の愛は「無条件の愛」だと語られることはよくあります。この「無条件」というのは本当に重要なことです。神様の愛が無条件だと頭でわかっていても、自分自身を条件付きでしか「良し」とできないことが人にはあるからです。

人は時に自分の付加価値で自分の価値が決まると思い込んでしまいます。ある人には経歴だったり、ある人には仕事だったり、ある人には見た目であったり、ある人には役割であったり、ある人には必要とされることであったり、ある人には他の人に認められることであったり、存在そのものではなく、何か別のことでしか自分の価値を認めることができないことがあるのです。

付加価値で自分の価値を決めていると、自分の存在はとても危ういものとなります。その付加価値が通用しないとき、あるいは自分自身に問題があると感じると、自分の存在意義まで疑ってしまうのです。自分が思い描く完全な自分以外は受け入れられないのです。

神様は、私たちを条件付きという付加価値で愛しているのではありません。存在そのものに価値を認めています。

自分の存在に価値を認められない、自分を愛せないと、立ち止まるのを恐れ、ワーカホリックに陥ることがあります。この現象は教会で働く人にもよく見られます。本当の愛は、奪うことではなく与えることです。

付加価値でしか自分を認められないと、人の評価を気にして決まったレールから外れることを恐れたり、他人を愛する対象ではなく、自分と比べる対象として見てしまうことがあります。心から人の存在を喜ぶことが難しくなります。虚しさを抱え、心から安心したり、喜びを感じることも難しくなります。

ジレンマのようですが、このようなことは、時折牧師家庭で育った人、あるいは教派問わず、とても敬虔なキリスト教徒の家庭で育った人にも見られます。それは一部の例であって、もちろんそうでない方も多々いらっしゃいますが、私はそのような環境で育った方が過度にキリスト教を嫌悪したり、隠れたところで他人に対して攻撃的になってしまったり、あるいは自分に対して攻撃的になって病んでしまったり、あるいは人からの見られ方を過度に気にして「このように生きなければ」という自分の決めたレールから外れるのを恐れ、また立ち止まるのを恐れ、生き急いでしまっているのを何度か目にしてきました。

なぜそのようなことが起こるのかと不思議に思っていましたが、あるとき奉仕していた教会で、礼拝後たった一人で五歳くらいの牧師のお子さんが広い礼拝堂で取り残されているのを目にして、その理由を見たように思いました。次の礼拝で大きなイベントを控えていたため、その子の父親である牧師先生はもちろん、先生の奥様も女性会での出し物のために忙しくその場を離れてしまっていました。広い礼拝堂でその子は一人で泣いていました。その子はその御家庭の末っ子で、親と一緒にいる時にはとても可愛がられていましたが、日曜日よく放っておかれているのを目にしました。私が見つけたとき、その子はいつ誘拐されてしまってもおかしくない状況でした。

このように、一歩外に出れば「ネグレクト」という立派な虐待となることが、キリスト教コミュニティでは「奉仕」「神のため」という言葉で正当化されてしまい、親も子供も長年その状態に気づかないまま問題が放置されていることがあります。

時に敬虔な人ほど、教会での礼拝、企画、奉仕が偶像化してしまうことがあります。しかし、それでは本当に大事なものを見失ってしまっているのです。親が教会という枠組みを偶像化すると、親は子供が教会に来ないことを恥じたり、たとえ子供が苦しんだ末選択したことであっても離婚など教会で良しとされないことを受け入れなかったりします。子供は親に愛されている確信が得られず、傷つきます。宗教的な価値観を押し付けられてキリスト教を嫌悪することもあります。あるいは時にそのような家庭の子供たちは親に認められるため、周りの期待に応えるために洗礼を受けたり、教会で働くために献身したり聖職に就くことがあります。それは大きな間違いです。誰にも気づかれないまま彼ら自身が神様と実際に出会う機会が奪われてしまうのです。彼らは周りの評価に苦しんで大人になっても神様や人に不信感を抱いたまま「良い子」を演じ続けようとし、その結果様々な歪が生じてしまいます。すると、後々大きな問題が起こることがあります。

大切なことだと感じたのでこのようなことに言及しましたが、皆がそうだということではなく、もちろん先ほど述べたように牧師家庭や敬虔なキリスト教徒のご家庭で育った方で、このような問題を持っていない方も多くいらっしゃると思います。

神様は愛です。たとえ神様のための働きとされていることであっても、それが神様より優先されると、間違いが起こります。神様が唯一人に与えている戒めは「愛しなさい」ということです。神様は教会の奉仕に尽くすよりも、今礼拝堂で泣いているその子供のもとへその親が駆け寄ることを望んでいたと思います。大切にされなければ、自分はもちろん、人を大切にすることはとても難しいのです。愛されているという確信がなければ、心からの安心や幸せを得ることがとても難しいのです。

自分を愛せるかどうかは、自分が愛されていることを理解することにかかっています。それは、親に愛されているという確信に深く関係しています。

神様は、ご自身が私たちの父親であると聖書で語っています。父である神様がどんなに私たちを愛しているか理解することが、生きる上での鍵なのです。

神様の愛は計り知れず、この世の基準とは全く異なる次元にあります。

親は子供を条件付きでは愛しません。何かができるからとかできないからとか、何をしたからとかしなかったからとか、そのような付加価値では愛しません。子供はただその子であるというだけで代わりの利かないかけがえのない存在なのです。神は父親として私たちをそのように見ています。神にとって私たちは、代わりが絶対にきかない、かけがえのない唯一の存在なのです。

ただ、私たちの存在が愛おしいのです。神はどんなときも絶対に私たちを裏切らず、私たちの味方で居続けます。神は世界の基の据えられる前から、想像もつかないほどの昔から私たちの存在を計画し、愛する者として選び、この世に送り出しました。神にとって、私たちのうちたった一人が欠けても世界は成り立ちません。私たちにはそれほどの価値があるのです。あなたは無限の愛によって愛されるのに値する者です。

神は私たちにこう伝えています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

(イザヤ43章4節)

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

seventeen + 14 =