戦後77年――今、私たちに問われること


古谷 章

二つの「77年」

今年は戦後77年になる。しかし、明治維新から「終戦」までも同じく77年だったということに思い当たった時、俄かには信じられず、大げさに言えば衝撃だった。というのも明治維新以来の日本は、言うまでもないことだが、富国強兵、殖産興業を旗印に「欧米に追い付け追い越せ」と急激な「近代化」を進めた。そして、日清・日露戦争から始まる対外膨張を図り、ついにはアジア太平洋戦争を引き起こして、最後は完膚なきまでの敗戦に至った。一世紀にも満たぬ間に、まさに劇的な歴史を刻んだわけだ。

一方、戦後の77年は私自身の人生よりも数年長いだけの期間であり、その間に起きたことは焦土からの奇跡的とさえ言われる復興をしたとはいえ、その前の77年と比べると「劇的な歴史」とは言い難い。まがりなりにも平和な世の中を過ごしてきた我が身を戦前に置き換えて想像してみると、同じ年数でありながらのこの両者の違いはまさに驚きというほかない。

 

「戦後」に得た共通認識

戦後の日本は、それまで天皇制国家として海外侵略を繰り返した歴史の反省の上に立って、新しい憲法に基づく平和と民主主義、そして基本的人権を尊重する国家を目指してきた。もちろん反流もあるが、基本的には憲法の謳う理想を多くの国民が共有してきたと考えてよいのではないだろうか。

中でも特徴づけられるのは、原爆投下だけでなく、日本の多くの都市を空襲し、非戦闘員である住民の多くを殺傷したアメリカを恨むことなく、戦争そのものを「悪」として捉えるまでに昇華して、あくまでも平和を希求する強い意識を広く国民が共有したことだ。もちろんそこには戦後占領期のアメリカの主導するGHQの巧みな世論誘導があったことは事実としても、特筆すべきことだ。

広島の原爆死没者慰霊碑

日本への空爆を指揮したアメリカ軍のカーチス・ルメイ将軍は「もし我々が戦争に負けたら私は戦犯として裁かれることになる」と言ったそうだが、それでもアメリカの戦争犯罪行為を批判するのではなく、あくまでも戦争そのものを否定する意識を持つことはある意味では誇れることだ。(しかし余談めくが、そのルメイに対し戦後、航空自衛隊の育成に貢献したことを理由に勲章を与えたことには違和感を持たざるを得ない。)

数年前にスペインを旅行した際、列車で向かい合わせに座ったスペイン人の老夫婦は英語を全く解さないのでまともな会話は成り立たなかったが、私たちが日本人と知ると「ヒロシマ・ナガサキ・アトミックボン・アメリカ・ノー」と言っていた。原爆投下はアメリカの蛮行という認識なのだろう。

しかし、広島の原爆死没者慰霊碑に記されている「過ちは繰返しませぬから」の文言の主語は人類全体が犯した戦争や核兵器の使用であるとすることが碑を建てた広島市の考えであり、それを理解し賛同していることこそが、戦後の77年の間に築き上げられた日本の国民の共通認識なのではなかろうか。

 

他国への視点の欠如

しかし、一方で残念なのは自らの労苦は思うものの、侵略をした国の人々に対する想像力が欠如し、日本の行った歴史の事実に思い至らないことを否定できないことだ。象徴的なのは例えば、東京・新宿にある平和祈念展示資料館や九段下の昭和館だ。ともに国の設置した施設だが、そこには「満洲から苦労して引き揚げてきました」「銃後の暮らしも大変でした」という視点からの展示はあるものの、「なぜ日本人が満洲にいたのか」「なぜ戦争をしたのか」という視点が全く見られない。近隣諸国に加害した過去を直視しようという姿勢を欠いているのだ。ときおり「保守系」の政治家から繰り返される戦争責任を否定するかのような妄言と通底するものだ。

もちろん、戦争に起因するさまざまな労苦を否定するものではないし、その記録、記憶を保存することは大いに価値のあることだ。しかし、同時に侵略を受けた側からの視点、あるいは植民地支配を受けた側からの視点を持たなければならない。これを欠くからこそ、いまだに周辺諸国からは警戒の念を抱かれている。

そして、日本と同様に周辺国を侵略したけれど、戦後はきちんとその負の歴史に向き合ってきたドイツの首相からも「日本は周辺に真の友好国はいない」と評されているのだ。

また最近は「歴史戦」と称し、自らに都合の良いように歴史を歪曲して描こうとする風潮があることも看過できない。特に政府の責任ある立場の政治家までが平然と唱えている。歴史とは事実を検証して積み上げていく、という当たり前のことが蔑ろにされようとしている。旧西ドイツの大統領、ワイツゼッカーの言葉を待つまでもなく「過去に目を閉ざしてはならない」のだ。

また「明治の日本」は一生懸命に近代化を進めて立派な国だったのに、昭和に入ってから軍部に引きずられて戦争をしてしまった、という議論がある。これは日本の戦争責任を認識している人からも聞かれることだ。しかし、「明治の日本」こそが近代化の名のもとに海外侵略を始めたのであり、その延長線上に朝鮮併合をはじめ傀儡国家「満洲国」の設立、日中戦争、太平洋戦争へと突き進んだのである。昭和に入ってから初めて軍国主義国家になったわけではない。積み重ねられる歴史の一連の流れを理解しなくてはならないのだ。

 

今こそ問われる私たちの姿勢

戦後の77年間、日本の軍隊が他国で人を殺めたり傷つけたりしたことはなかったし、逆に日本の兵隊が海外で殺傷されることもなかった。このことは世界の「主要国」の中でも実に稀有なことであり、大いに誇れることだ。

ところが、ここ数年の間に安保法制や共謀罪が成立し、さらにはアメリカには「台湾有事」の際の自衛隊の加担まで約束させられた。そしてそこへもって来てロシアのウクライナ侵攻である。これを奇貨として防衛力増強、敵基地攻撃能力、さらには武器輸出などと声高に叫ばれ始めた。武力を持てば平和を保てるかのような論調である。

戦争はあくまでも外交努力で食い止めるべきものであり、武力で解決すべきことではないはずだ。これを「お花畑」と揶揄する者もいるが、戦争の放棄はひとり日本国憲法に書かれているだけではない。第一次世界大戦後のパリ不戦条約に始まり、国連憲章にも明記されていることである。数多の戦禍を繰り返してきたことを教訓として、現代の国際社会が勝ち得た一つの到達点なのだ。

歴史的経緯から周辺諸国に警戒されているという一面はあるが、日本は憲法で戦争の放棄を謳い、さらに絶対的に戦争を忌避しようとする国民意識があるからこそ海外から評価を得ている。自衛隊を「平和維持活動」と称して海外の紛争中の国に派遣することが今や常態化してきている。しかし、アフガニスタンで命を落とした中村哲氏が国会の場でも喝破したように「自衛隊の海外派遣は百害あって一利なし」なのである。

マレーシア国立博物館の外壁

中国・北京近郊の盧溝橋にある抗日戦争記念館には日中戦争時の日本軍の残虐行為がこれでもか、というくらいに展示されているが、最後の展示コーナーには日本の憲法第9条が大きく掲げられている。また、マレーシア・クアラルンプールにある国立博物館の外壁に描かれている国の歴史絵巻には、数字1941(年)の下に進軍する日本兵とそれに平伏するマレーシア人の姿が描かれている。その絵が描かれた時の経緯はともかく、現在のマレーシア政府の公式見解では、その絵はあくまでも戦争一般を示すもので、日本の侵略を意味するものではないとされている。

このようにかつて日本の侵略を受けた国でさえ、過去の日本と現在の日本とを切り分けて理解しようとしているのだ。これらの国々との真の友好関係を築くためには、絶対的に戦争を行わないという姿勢を維持するとともに、過去をきちんと直視して応えなくてはならない。その上でこそ周囲から真に尊敬される「平和国家」として世界への貢献を図ることができるに違いない。戦後77年の今こそ、私たち一人一人が考えなくてはならない問題だ。

 


戦後77年――今、私たちに問われること” への1件のフィードバック

  1. キリスト教徒です。拙い私見を述べます。

    ウイグル人への虐殺、強制労働、洗脳、また臓器摘出や不妊手術をおこなっている中国共産党は、
    台湾や尖閣、沖縄を狙っています。

    日本の憲法9条は、そんな彼らをこそ利するものであり、彼らにとってこそ9条は素晴らしいのです。

    また、北朝鮮による拉致被害者が救出できないのは、9条が邪魔をしているからです。

    この世においては、抑止力としての軍事力は必要不可欠であり、ロシア、中国、北朝鮮といった独裁国家に接している日本の安全と平和が現在保たれているのは、アメリカがいるからです。

    沖縄から基地が無くなれば、喜ぶのは独裁者です。

    戦争はあくまでも外交努力で食い止めるべきものでありますが、話の通じない相手もいるのが現実です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

20 − twelve =