鵜飼清(評論家)
戦後77年目の2022年の夏は、猛暑が続くやけに暑い夏だった。コロナにロシアのウクライナ侵攻と、世の中はいやなことが続いている。安倍元総理の暗殺は、日本の戦後史を顧みなければならない課題をも残した形になった。特にロシアによるウクライナ侵略戦争は、「戦争」というものを改めて意識させるものになっている。
ぼくは戦後生まれだから、戦争を直接は知らない。だけれども、ぼくを「戦争」に近づけるきっかけがあった。
ぼくが中学生の頃、有楽町にあった朝日新聞社の前を通ったとき、それは夜だったから部屋の窓から明かりが見えていた。「ああきっと全国からいろんなニュースが入ってきているんだろうな」と思うと、朝日新聞社のビルディングがそっくりニュースの玉手箱のような気がしてきた。どこどこの村の山本さんでは、子牛が生まれました。新しい町が誕生しました。巨人軍の王選手がホームランを打ちました。そんなこんなが頭の中をよぎっていったのだった。
小学生の卒業文集に、将来なりたい職業としてぼくは新聞記者と書いていた。父親に連れられてビアホールに行ったとき、夏の暑さが続いていて、やはりまだ将来の夢は夢としてそのときには、なまなましく少年の気持ちをつつみこんでいたのだろう。
夏の暑さは、さまざまな記憶をよみもどすのにはうってつけなのだ。8月15日という日が特別な日であることを、ぼくは現実としては知らない。しかしぼくが少しずつ成長するにつれ、その日がなんであるのかを避けていけないようになっていった。
東京都立秋川(全寮制)高等学校がぼくの母校で、新設校だったからぼくらが第三期生として入学した。1学年ずつ3つの寮棟があり、玉成寮と名付けられていた。1部屋が8人で、それぞれに机とベッドが与えられた。僕はすぐにホームシックにかかった。朝から晩までの共同生活は、完全にぼくを弱気にさせていた。そんなときに手にした本が『きけ わだつみのこえ』であり、特に『一兵卒の銃殺』(田山花袋)は、まるで自分が主人公になったようにして読み終えた。
軍隊の規律から逃れようと脱走していく心情に、わが身を投影したのである。これが決定的だった。
それ以来ぼくの8月15日がはじまった。いま手にしている1冊の本、『神風特別攻撃隊の記録』(猪口力平・中島正)は、毎年4月から敗戦の日までの間に必ず開く頁がある。「第7部 関係資料編――Ⅱ神風特別攻撃隊戦没者名簿――連合艦隊告示 布告 第108号 昭和20年4月29日 第6神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊 721空(第721海軍航空隊付)1飛曹(1等飛行兵曹)山際直彦」。4月からとはぼくの誕生日が4月だからにすぎないが、同じ月に飛び立って行った若者に想いを馳せるのである。
何を胸に抱きながら操縦桿を握っていたのだろうか。あれもこれもやりたかったにちがいない輝かしい青春の真っただ中にあって、いまはただ死ぬために飛んで行くのだ。
戦後、海軍の特攻基地だった鹿児島県鹿屋で4月に、知覧では5月に慰霊祭が行われている。しかし、現在となっては、参列者の遺族のなかで親御さんたちは他界されているにちがいない。しかし、戦後の歳月を置いて、再びめぐり合っているであろう、あの最愛の息子たちと。
「契りし友と咲かす花 嵐狂へど散り舞へど 深き心のあればこそ 永遠に残れり秋川に」……在校生に送られて高校を卒業した。大学を出て小さな出版社を渡り歩き、新聞記者にはなれなかったけれども、一応曲がりなりにもジャーナルな世界で生きてきた。
あの日寮室のベッドで布団にもぐり込みながら、懐中電灯で読んだ1冊1冊の本を心の糧にしている。世の中がおかしいのではなく、時代はいつでも危機である。人間を見る視点を見誤らなければ、人はみな寂しく孤独である。大事なのは「生きている」という姿が、希望を与えているということだ。
ささやかな、ひっそりとしたたたずまいに目を見やれば、一人ひとりの人生が脈々としている。大それたことではなく、偉く立派なことでもなく、ただ淡々とひとつの使命を全うしていく姿にこそぼくは感銘する。それは、戦争で亡くしたわが子を思いながら、戦後を生きた、母親の背中に見え隠れしていたはずである。
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