教会広報の今とこれから-コロナ禍を通じて見えたもの-


赤井 悠蔵(カトリック東京大司教区広報)

コロナ禍は私たちから多くのものを奪い、痛みをもたらしています。全世界で600万人以上、日本国内でも2万5000人以上の尊い命が失われました。職を奪われ、収入が断たれた人は数知れず、何よりも感染防止のために接触を控えなければならないという現実は、私たちの心を孤独で蝕み、分断へと駆り立てています。

カトリック教会の本質は、同じ場所に集い、出会い、食卓を囲むことの中にあります。感染症防止のためには、それら全てを控えなければならない。今、私たちが体験している痛みは、使徒たちの上に聖霊が下り、この地上に教会が誕生してから最も大きなものの一つなのかもしれません。

しかし、どんな暗闇の中にも光はあるものです。コロナ禍によってオンライン会議はこれまでにないほど身近なものとなり、動画配信やSNSによる情報発信も今まで以上に活発になりました。ミサの動画配信が当たり前になる世の中が来ると、コロナ禍以前に一体誰が想像できたでしょうか。ミサや説教に限らず、オンライン会議やSNSによる情報発信に取り組み始めた教会は決して少なくないでしょう。

もちろん、オンラインは万能ではありません。ZOOMでは得られない、実際に会わなければ感じられない間や空気、温もりは、人間にとって大切なものです。さらに、カトリック教会には秘跡や典礼の伝統があります。例えば、実際にミサに与ることとミサの映像配信を視聴することは同じではありませんし、秘跡はその場にいなければ授けることができません。教会の教えに即して、できることとできないことを区別し、必要に応じてそれを分かりやすく伝えることも、今、私たちに求められていると思います。

コロナ禍によって、私たちは誰もが自由に出かけることから遠ざけられてしまいました。しかし、そのような苦しみの中にある方々は以前から大勢いらっしゃったのです。高齢や病気、あるいは家の近くに教会がない等の事情でミサに与りたくても与れなかった方々にとって、毎週、ミサの動画配信を視聴できるようになったことはどれほどの喜びでしょう。インターネットの世界には国境も距離も関係ありません。外国に住んでいながら、母語でみことばや説教に接することも容易になりました。聴覚に不自由がある方にとっては、字幕や手話通訳が付いている動画配信は、「リアル」よりも分かりやすい面があるかもしれません。

同じ場所に集うという、当たり前だと思っていたことが、実は当たり前ではなかったことに、私たちは気づかされました。コロナ禍から解放される日が来ても、それはやはり当たり前ではないのです。ずっとずっと、当たり前ではなかったのですから。私たちは決してそれを忘れてはならないでしょう。特に、広報という奉仕を頂いている者であればなおのこと「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:5)というイエスのことばを常に心に留めておきたいものです。教会の敷地内だけが全世界ではないのですから。

 


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