信仰によって歩む ヘブル人への手紙11章1節


佐藤真理子

信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

(ヘブル人への手紙11章1節)

キリストを信じる目的は、教会に毎週欠かさず通う人になることではなく、キリストに似た人となることです。

信仰は外面的な要因で測れるものではなく、心の中を問うものです。神様が見ていることは至ってシンプルです。神様は私たちに対し、私たちが神様に信頼しているのかいないのか、そこを問うのです。

私はこれまで、様々な教派の方々や聖書観を持った方々と関わってきました。そのような経験を通して、次第に何かのカテゴリーによって相手を理解しようとすると、本質を見失うことがあるのに気づきました。カトリックの中にプロテスタント的な人もいればその逆もあり、メインラインの教会に福音派的なものを持った人もいればその逆もあり、ということが度々あったのです。そして、大切なことはカテゴリーによって見えるのではないのだと気づきました。そのようにして、キリストとの歩みにおいて重要なのは、一人一人が「神様を信頼しているか」本当にそこに尽きるのだと思うようになりました。

信仰とは神様に信頼することです。洗礼を受けて年数がたつと、そのたった一つの大切なことから気持ちが離れてしまうことがあります。私自身神学を何年も学んだり教会で仕えたりしているうちに、神様自身のことよりも、神様について人間が書いたものに対し熱心になっていた時期があります。勿論そういったものも助けになりますが、信仰においては、いま生きている神様ご自身が、何よりも求めるべきものなのです。信仰は金が精練されるように鍛錬されていくものです。しかし、たとえ何年キリストを信じていようとも、どのような人にとっても本来キリストと歩むことに必要なことは同じなのではないかと思います。大切なことは、ただ主を信頼し主と共に歩むこと、それに尽きるのです。

信仰は、どんな時も「この先良いことが起こる」と確信して歩むことです。神は良い方だからです。どのような人も何かに信頼する心を持っています。時刻表を信頼して電車に乗り、相手を信頼して約束をし、口にするものを安全であると信頼して食します。このような信頼を神様に置くことが信仰です。そして、神様以上に確実なものは無いと理解することも信仰です。例えば、お金ほど確実なものは無いと思う人もいるかもしれません。しかし、世界恐慌が起こった際、お金の価値は一夜にして一変しました。人は自力で安定を求めようとしますが、本来神様以外に安定は無いのです。神様はこの世界を造った方ですから、全てを動かして私たちを養うことができます。

私自身、神学校へ行く前、献身後の経済的なことを不安に思うこともありました。しかし、お世話になっていた牧師に「お金は天から降ってきますよ。」と励まされ、さらに当時住んでいたキリスト教の寮の寮母さんから「神様の働きをする人が飢え死にすることはない。」と確信を持って言われたことで、揺れていた気持ちが定まった思い出があります。実際、神様は天からパンを降らせイスラエルの民を養いました。また、イエス様は税金のためのお金を弟子の釣った魚の口から備えてくれました。

神様は必要なものを、最善の時に、最適な量だけ与えます。

出エジプトの際、神様はイスラエルの民に食物としてマナを与えました。その味は「蜜を入れた薄焼きパン」のようだったとあります。神様は蜜のように美味な「最善なもの」を子供である私たちに備えるのです。マナのエピソードは、神様を信頼して歩むことの大切さを示しています。出エジプト記16章18節に「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。」とあります。人がマナを多くとって翌日までとっておこうとすると、虫が湧き腐ってしまいました。その時その時に必要なものが必ず備えられることを、神様は人に教えようとしました。

神様の与えてくださるものは、遅すぎず、早すぎないベストなタイミングで与えられます。私たちにとって最善のものは、既に予約がとられているのです。その時が来れば神様によって確実に受け取ることができます。だから、焦らず、安心して喜んで神様と共に歩むことが、私たちのできる最善のことなのです。日本の文化では「自力で頑張ること」「滅私奉公」といったことが重要視されることがあります。しかし、神様に願えば、自分を壊さないような、寧ろ喜んで元気になっていくような方法で、目標に邁進する力が与えられることがあります。神学校時代、何度も説教を批評しあう授業を重ねるうちに、私は良い説教とは自分の努力によって為されるものであるかのように感じるようになりました。しかし、神学校を出てから、知識からひねり出した言葉ではなく、神様の与えてくださった体験や聖書の言葉によって心から語る真実が、聞く人の心を動かすのだと気づかされました。そのとき、肩の荷が降り軽くなるような思いをしました。神様の与えるものは重荷になりません。必ず平安が伴うのです。

時には全く道が見えそうにないこともあるかもしれません。サタンはそんな時、神様への信頼を揺るがすような不安を私たちに与えようとします。しかし、それは真実ではなく偽りです。神様の働きは人の予想を遥かに超えるので、驚くような道が開かれるからこそ、目の前が見えないこともあるのです。私たちに見えないものが神様には見えています。

困難や苦しみに何度もぶつかることで、神様への信頼を失いそうになることもあるかもしれません。しかし、大変な人生が悪い人生ではないのです。反対に、苦しみのない人生が良い人生というわけでもありません。聖書に登場する人物の人生を見ても分かるように、波乱万丈だからこそ、はっきりと神様の恵みを見ることができることがあります。そして彼らのストーリーを読む私たちも励まされるのです。大変なことがあったとしても、それすらも益として神様は「良い人生」を歩ませてくださいます。私たちの歩みを目にする周りの人にも力を与えられるような、輝くものを私たちの道に与えてくださいます。

本当の幸せとはキリストのようにあたたかな心を持つことです。多くのものを持っていても周りの人を傷つけて生きるより、何も持っていなくても人に喜びを与えて生きる方が、ずっと幸せではないでしょうか。その方が、人生の終わりに、一点の悔いもなく「良い人生だった」と言えるのではないでしょうか。すべての人が隣にいる人に喜びを与えられれば、世界中が天国になります。

信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。この一年も、神様への信頼、そのたった一つを携えて、神様の与えてくださった希望に満ちた道のりを、期待に胸を膨らませて、歩んでいきましょう。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

fifteen − seven =