いのちのパン ヨハネの福音書6章51節


佐藤真理子

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

(ヨハネの福音書6章51節)

今日、皆さんはどのように聖餐、聖体拝領に関わっているでしょうか。長い間、聖餐・聖体拝領にあずかれていないという方もいらっしゃるかもしれません。思うように礼拝に集えない今この時は、不自由なようでいて、実は教会内で行われてきた礼典について改めて考える素晴らしいチャンスではないかと思います。ここに語ることが何か参考になれば嬉しいです。

私はこれまでいろいろな教派の教会に関わってきました。聖餐ほど教派で様々な規定があるものは無いのではないかと思います。宗教改革期様々な意見が飛び交ったテーマの一つが、主の晩餐についてでした。

聖餐、聖体拝領は教派の理解によって、他教派が参加できないこともあれば、洗礼を受けていればどの教派でも参加可能であったり、あるいは洗礼を問わずに信じていれば参加できたりします。また毎週日曜日に行う教会、月一回行う教会、曜日は関係なくミサでは必ず聖体拝領が行われる教会、平日の祈祷会で行う教会と、頻度もやり方も様々です。また、牧師が行う教会もあればそうでない教会もあります。教会によっては罪を犯した際停止になってしまうところもあります。

教派を問わず教会の中の規定は公式な形であれ非公式であれ多く存在しますが、聖餐の仕方一つとってもここまでいろいろな形態のあることから分かるのは、この世に100パーセント正しいやり方など存在しないということです。だからこそ、思うように教会に集えない今日、一つのやり方に固執する必要性も無いのではないかと思います。少なくとも礼典の意味の理解において、私たちは以前より自由になっても良いのではないかと感じます。

聖書が訴えているのは、愛に反すること、また真の欲求でなく必要だと感じられたり、こうしなければ危険だというような動機から行われるようなことは、主は喜ばれないということです。

「礼典」として伝統の中で儀式的な形で残った事柄は、元来の形である聖書にはとても自由な形のものとして残っています。聖書の中では洗礼は主を信じたその時にすぐに行われるものであり、主の弟子となった者であれば皆が、新たに信じる者に授けることのできるものとして描かれています。また今日の聖餐や聖体拝領の原型となった聖書箇所は、教会の礼拝での儀式的なものではなく、キリストが弟子たちと共にとっていた過ぎ越しの食事の際の出来事です。

ウィリアム・バークレーは、ヨハネの福音書6章において五つのパンと二匹の魚によって五千人の腹を満たしたことを次のように語っています。

「これは、実際には聖礼典的食事であったと考えられる。この章の後半にあるイエスの言葉は、まさに最後の晩餐の言葉であり、イエスは自分の肉を食べ血を飲むことについて語っている。エル・バティヤでのこの食事においても、人々がめいめい受け取ったのは、聖餐の場合と同様に、ほんの一口分にすぎなかったが、イエスの臨在の感動と、驚きと、また神が近くにおられるというその聖礼典のパンの一片を、人々の心と魂を豊かに培う何かに変えたということはありうる。それは今日にいたるまで、すべての晩餐卓において起こっている事である。」

(W・バークレー『ヨハネ福音書(上)』岸田望訳、ヨルダン社、1968年、277頁)

ヨハネの福音書6章では、イエス様が「わたしはいのちのパンである」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っている」と語ります。キリストがまことの食べ物であり、私たちの中で生きておられること、また十字架上で流されたキリストの血、私たちの罪のために犠牲となったキリストの体によって、私たちに永遠のいのちが与えられたことがこれらの言葉に示されており、それを思い起こすのが聖餐・聖体拝領です。イエス様ご自身が「わたしを覚えて行いなさい」と仰ったことから始まったものなのです。

バークレーが語るように、それはすべての晩餐卓、つまり私たちのとるどの食事においても、今日儀式的に行われている主の晩餐と本来は同様の意味があるのではないかと思います。そして、聖書を読むほどに、儀式的な行いの際にのみイエス様のいのちを思い起こすのではなく、生活の中であらゆる食事の際にそのことを喜び感謝することを、主は喜ばれるのではないかと私は思います。

現在、オンラインでの礼拝に伴い、主の晩餐の在り方も変化しています。私は今この時主は「私たち一人一人が真の教会である」「私たちが日々主と共に生きることが真の礼拝である」「私たち一人一人が真の宣教師である」と切に伝えようとしているのだと思います。

私たちにとってたった一つの大切なことは、愛である生けるキリストと共に生きること、ただそれだけなのです。それは、それさえあれば他に何もいらないくらい大切なことであり、信じる者にとっては、それが全てなのです。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


いのちのパン ヨハネの福音書6章51節” への3件のフィードバック

  1. Faithさん、こんにちわ。
    ツイッターいつも見させていただいております。
    今、私は2年ほど前からリアルの教会には行っていません。
    最初に洗礼を受けた教会と二つ目の教会も牧師が途中からカルト化し、逃げるように教会を出ました。
    今は、籍だけ、県外の別の教会に置かせていただいております。
    オンライン礼拝もやっていませんが、以前より、日常的に神様のことを考えているような気がします。聖書は読みたくなった時に読んでいます。
    私は、18年前に教会にも行ってなく、聖書も読んだことがなかったのに突然、神様を信じるようになり、すぐにもよりの教会で洗礼を受けさせて欲しいとお願いしました。罪の悔い改めのことは全く知りませんでしたので、ただイエス様に救われたという確信だけで受洗しました。罪の悔い改めをしたのはだいぶ後のことです。
    形式にとらわれず礼拝や聖礼典は自由であるべきとのこと、本当に共感します。
    ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

    • いつもありがとうございます。大変な思いをなさったと思いますが、神様の導きがあったのですね。私もオンラインでの礼拝よりも、日々の神様の関わりを大切にしています。そちらが本当の礼拝だと思っています。惰性やノルマではなく、心からの願いで神様と主体的に関わることが聖書の伝える神様との関わりだと思うので、今のnobuchanさんの神様との関わり方は神様の一番喜ばれる生き方なのではと思います。感謝しつつ

      • 返信ありがとう ございます。
        ここに返信されているのに気付きませんでした。すみません。
        これからも投稿を楽しみにしています。
        励まされます。

        イエス・キリストと共に。

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