「忘れ得ぬ人たち」~ヒバクシャとの出会いと「語り」から~


石井三智子

今年の夏、広島市内で毎年行われている「8.6 原爆被害者証言のつどい」は、オンラインでの開催となった。被爆2世の私は、2014年から縁あって現地参加をするようになっていた。

 

ある語り部の人生

今夏、初めて聞いた語り部は、Hさん(76歳)。被爆者の年齢としては最も若い。なぜなら彼女は、当時生後3ヶ月、母親の背中におんぶされた状態で、母親がトイレに入った時に自宅でともに被爆、家は壊滅状態になりながらも母子ともに奇跡的にいのちは助かったという。15歳まで父親の実家のある県北部で、原爆の経験の認識もないままに育つ。中卒後の就職先での病気、嫁ぎ先やその地域での被爆経験があることへの偏見、差別、特に妊娠、出産にまつわる地元の人たちの冷ややかな視線を何度も経験している。離婚、再婚、働き詰めの日々を過ごし3人の子どもを育て上げた。菊の栽培、事務職、瀬戸内海に面した島で牡蠣打ちの仕事を33年、67歳まで働いている。この間、甲状腺機能低下症、髄膜炎などいくつかの病気に見舞われている。自らが被爆経験の認識を持たない方の証言、人生史を伺ったのは初めてであった。放射能の内部被ばくの深刻さ、出産にまつわる差別の根深さを実感した。一方、「胎内被爆者」といわれる方々も、75歳、76歳である。母親の胎内で被爆し、“生まれながらの被爆者”ともいわれる。その中には、妊娠早期に放射能を浴びた影響で、頭が小さく、脳や身体に複合的な障害も持っている原爆小頭症の方々もいる。

 

母の被爆体験

私の母親の名前は、平和公園にある原爆慰霊碑に納められた死没者名簿に刻まれている。帰天は、5年余り前である。87歳まで“病気の問屋”のような人生であったが、生き残りとして強く生きたものだと驚嘆する。女学校1年(16歳)、暑い夏の朝、勤労奉仕に向かう市電の中で被爆(爆心地から約1.5キロ)。電車ごと爆風で吹き飛ばされ、粉々に割れた電車窓から這い出たという。窓際にいた人たちは、ガラス片を浴びて血まみれになっていたが、満員の車両の中ほどにいた、小柄な彼女は、大きなけがはなかった。もくもくと煙が立ち込める中、線路沿いに広島駅まで歩き、その後も線路を頼りに家にたどり着いた。一週間位経て、歯ぐきから出血、髪の毛がずるずる抜けたとの本人話を聞いた記憶がある。「電車内被爆者」という用語があり、車内にいた位置が生死を分けたともいう。戦後は、銀行員であった父と結婚、二人の子どもを授かった。40歳代前半で被爆者健康手帳(原爆手帳)を申請、取得している。私が高校生のころから病気がちとなり、伏せることが多くなった。

 

浦上出身の方との出会い

被爆2世である私は、今年前期高齢者65歳となった。この自分の属性を余り公言していないが、それは職業(Beruf)選択に大きな影響を与えてきた。大卒後、故郷広島に戻り、中学・高校の社会科(日本史)の教員として社会生活をスタートさせた。広島という環境が否応なく被爆2世であることを意識させ、近現代史や東アジア史(日朝・日韓史)を学びつつ、教壇に立ったが、そこから「平和教育」と称して語ることの欺瞞性、うさん臭さを自分の中に感じていた。市内にある日赤原爆病院で始めたボランティアも、担当した方の死亡で長く続かず、ある会議で紹介された老婦人との出会いがその後の人生航路の転機となった。

長崎浦上の出身で、Tさんといった。当時、70歳前半ぐらいだっただろうか。建物疎開の勤労奉仕中に、空を見上げ、汗を拭った際に線光(ピカ)を強く右目に浴びたことから原爆白内障となり、視力を失いつつある女性であった。一人娘を嫁がせ、様々な病気で働けなくなり、生活保護受給、「原爆孤老」といわれる人であった。骨太で大柄、白杖を左右になぞりながら歩いていた。分厚いメガネ、白髪、大きな声で「今度、ジュネーブ・ニューヨークの軍縮会議に被爆者の一人として行くの」「何でこんなに痛めつけられるの」「政府は被爆者援護に真剣に取り組んでいない」など、歯にものきせぬ発言の人であった。市営アパートを何度か訪問して、私は家事の手伝いをしていた。「これから続く若い人たちに自分のような思い、人生を二度と送らせたくない。だから、自分は平和の礎となるよう発言する」という彼女のことばは、天職を模索していた、まだ若かった私の心に突き刺さった。若気の至りか一つの決断をして、原爆医療の現場で働く医療ソーシャルワーカー(相談職)になろうと東京での学びを決意していた。1981年の早春(2月25日)、ヨハネ・パウロ2世が日本を訪問、平和公園でのメッセージを聞いた25歳の時だった。あれから約40年、事情で故郷に戻れなかったものの医療現場で医療ソーシャルワーカーとして働き、その後、大学等の教育現場で若い学生の指導、現任者のサポートに力を注いできた。いや私が彼らに育てられてきた。

 

交流と伝承を続けていくこと

広島平和記念公園(写真提供:筆者。2020年2月16日撮影)

もう一人忘れ得ない人がいる。7年前に広島の証言の会で出会い、現在も交流を続けているKさん(94歳)である。彼は、国鉄職員(現JR)として18歳で被爆、広範なケロイド症状という外部被爆をし、救護所に運ばれる途中で「黒い雨」(内部被ばく)を大量に浴びている。生死をさまよい、「死の告知」を医師からされながらも奇跡的に生き延びた方である。籍を入れずに長く連れ添った女性を失い、飲食業を廃業、一人となった。この方の転換点は80歳を過ぎてからの手術の成功(ケロイドによる後遺障害)と集団訴訟による原爆症認定申請が認められたことにあった。それぞれ、手術まで60年、裁判での闘いは、30年という長い時間を要している。戦争・原爆と長年苦しめられた病気と障害との因果関係が認められたこと、社会的承認は彼の人生に大きな意味を与えた。「証言のつどい」での語り部の活動も80歳を過ぎて始めた。冒頭で彼は、自らの身体の瘢痕、手術跡を参加者にさらしてから、不条理な人生を語り始める。「自分は、原爆の人体実験、試験台になったと思っている。福島やチェルノブイリなどにおける原発の問題をみても原発もいらないし、原爆、核兵器もいらない。戦争に傾斜していくような今の時代にあって、争いがないような国をつくってほしい。一人ひとりが平和を築いていってほしい」と。被爆者たちの平均年齢が84歳に届かんとする今、当事者たちの声を聴く機会はどんどん少なくなっている。

私の母親をはじめとするサバイバーたちの顔や声が走馬灯のように去来する。核兵器禁止条約は発効されたが、世界の平和の構築は行きつ戻りつしながらなかなか進まない。環境破壊は進む。それでもこうして困難を生き抜き、証し人たらんとする人たちがおり、いたのである。当事者の語りを次世代が受け継ぐ事業が数年前から始まっている。「広島被爆者伝承者養成事業」という。長崎でも然りである。これを最後の社会的活動の一つにしたいと願う、私がここにいる。

 


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