わたしの信仰生活日記ー神の存在証明ー(10)セカイガウタウ(後半)


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

前半はこちらです。

 

1.終戦の日を迎えて。

8月15日は終戦の日でした。毎年、夏の終りにやってくるこの日。今年は例年に比べれば、かなり涼しい気温でした。そのような中で、改めて戦争と神学について考えました。神学には神義論という分野があります。そこでは、善である神がこの世界を統べおさめているのに、なぜこの世から悪や不条理が消え去らないのかという問題に向き合います。なぜこの世界は神の善や祝福、愛で満ちているはずなのに、そうではない現実があり続けることが許されるのか。「悪」は人間の心のなかにわき上がり、他者を傷つけます。この8月は原爆の投下や大量虐殺、世界大戦をはじめとする戦争や今も各地で続く紛争といった共同体的な悪、システム的悪と向き合い、思い起こす月でもあります。

争いの中にあっても、神を信じ、神と共に生きること。それは、聖書の中の数々の出来事から読み取ることができます。神の民として、この現代の世界を、誠実に生きていくこと。そのような生き方は、決していいことばかりではないと思いますし、どちらかと言えば、上手くいかないことの方が多いのかもしれません。時には神の名を理由にして、不当な戦争が起こされたことも事実です。この地球上から争いが全く無くなった期間は、有史以来存在しません。どの国も軍事費を手放せないということも、人間的な弱さなのかもしれません。それでも、非暴力を訴え、他者とこの世界を信じて生き続けることは、不確実なこの世界に希望を見出していくことにも繋がるのでしょう。

――この世界には様々な悪が存在しますが、それでもひとを信じたいという気持ちが、私にはあります。人間が本来的に持つ思いや願いを、純粋に信じたい。うたがひとの心に響くように、言葉が詩になって、感情を発露するように。優しさや愛があること。それはただの幻想でも、綺麗事でもありません。嘘や偽りを暴く、本当に人間同士をつなぐ絆が真実でありますようにという、祈り。それは物凄く曖昧な言葉や表現で、漠然とした妄想や空想に近いものかもしれません。けれども、誰もが願っている「想い」ではないのでしょうか。普遍的で恒久的な願い。とても原始的で、人間の心の底にある願望のように感じます。

 

2.死に触れる。

今年は、今まで以上に戦争に関する映像作品を観る機会があったのですが、そのとき「この現実を撮る」という作業に裏打ちされた深い念を感じました。それは、戦争を体験した当時の人々の「何がなんでもこの記録を遺したい」という執念としか言えないもので、映像世界の中に添付された情報のように染み込んでいました。当時の荒み痛みきった世界に生身で触れることはできなくても、感情や精神に訴える呻きが漏れ出したように感じ、心に響くものがあります。

もし、私があの死体や被爆した人々であったら。そうであったら、何を思いながら、死の恐怖や痛みに怯えるのか。私はそこで、何を願うのか。そこでは「私」という存在が何度も何度も切り取られて、貼付けされて、コピペされて、加工されて。永遠に映像や写真に遺ってしまうのか。そのとき実在したはずの「そのひと」はどう感じるのか。報われるのか。それが、その人にとってはこの世界で生きた証拠になるのか。無力にこの世界を去ることになってしまったとしても、「生まれてきた意味」となるのか――。悲惨で暴力的な力に屈服するしかない無力さに何かの意味付けをしないと、誰も報われないと感じてしまいます。

2021年という比較的に優しい世界で生きている私が「戦争」という過去に触れることは、未来のために生きる上で必要なことなのでしょう。そこから、内臓や精神にわきあがるような酸味感、錆、空気が焦げているようなにおいなど、現実には存在しないはずの嫌な感覚が訴えかけ、本能的に恐怖をわき起こします。それはギイギイと軋む古びた家屋の床の下にあるような、太古の記憶と値踏みされた過去の霊魂の残骸のようにも感じます。このような記録は、普段娯楽と安全性の中で生きている甘ったれた思考回路には、いい薬なのかもしれません。ただ見て楽しいと感じるものよりは、深みがあるように思えます。

中でも、私が最も恐怖を感じたことは「引くに引けない」という言葉に込められた最悪の展開でした。「これはおかしい」「もう勝ち目が全く無い」と誰もが薄々感じていたのに、誰も止めることができなかったこと。そこが、物凄く怖かった。その躊躇いのために引き際を見誤り、二度も原子爆弾が落とされてしまったこと。この体験は、ただ単に人を殺すということを越えた、もっと残忍で、人間の本能に鈍痛で訴えるような、独特の苦しみがあります。また、放射能がもたらす人体への重大な破損、この残酷な現実は、それこそ皮膚を裂き熱を生み血が沸くような感情を呼び起こすものです。

――誰も悪くないのに、誰のせいでもないのに、被爆した人々は、何を思い、恨み、亡くなったのか。人間は、自分の罪ではない罪科を負い、自分の報いではない報いを受けます。骨が溶ける痛み、脳髄が溶解していく音、指先から感覚が少しずつ無くなり、あったはずの四肢が無くなっているような、そういう、いたみ。そうやって亡くなった多くの魂は、ただただ死後安らかであってほしいと願います。この世界の何がほしいとか、世界中を服従させたいとか、誰よりも強く偉くなりたいとか。でも、しあわせはそういうものではありません。こんなに感情的にも精神的にもしんどいものを、これから先の時代も行う可能性があるのかと思うと、本当に悲しいという感情を超越した気持ちになってしまいます。

戦争のドキュメンタリー番組には、ほかのテレビ番組にはない重みがあります。それはたぶん、造る側の熱意もあるのでしょう。「伝えたい」という執念のようなものも感じます。それこそが、本来のジャーナリズムなのではないでしょうか。さまざまなドキュメンタリー番組を通して、「平和って、何なのだろう」そう改めて感じさせられました。風化させてはいけない、忘れてはいけない記憶というものがある。それは自分の人生の時間とは直接繋がっていなくても、共同体的な記憶としてとどめておく必要があるのです。そして、それと同時並行に行われる「和解」の先には、何があるのでしょうか。忘却は和解ではなく、過去を完全に抹消することでもありません。生きた意味、生きる意味、将来への警告、くり返してはいけないという教訓を刷り込み、忘れないこと。それは、今まであった罪に対する赦しでもあり、世界に対する和解の在り方なのだと思います。

――私にとってこの世界の意味とは、神と愛するひとと暮らすということ。ただそれだけで、十分な幸福ではあります。だから、戦争はしたくない。戦うことは、すり減らすことだから。私は意味のないことにエネルギーを燃やさないという信念を持って、主を求め、主に願いながら、生きるしかないのです。ずっと教会とともに生きること、教会がこの世界から絶えないことが私の人生の願いであり、使命なのだから。

 

3.平和を実現する者は幸いである。

このような夏を過ごしながら、2017年10月にあった浦上天主堂での宗教改革500周年の合同記念の前にも、こういった記録を観ておけばよかったと思いました。悲惨な過去があったあの地で、この世界の中の小さな平和が願われて、記念されたこと。教会同士の垣根を、少し超えたこと。日本という小さな国の中で、この世界に対する小さな和解が宣言されたこと。それはまだ見ぬ誰かに対する祈りであり、未来に対する願いでもあるのでしょう。誰も何もせずに死ぬために生まれたわけではありません。

8月15日という終戦の日。その後も終わらない後遺症。薬も治療法もない苦しみや高熱で死に向かうひとに対して、助からない命と知りながらも、医療行為をやめることなく続けた人々がいた。目には見えない精神的な後遺症を抱え続ける人たちもいた。もしそれが自分の身にふりかかったら、あまりにも耐え難い惨事だと思います。それでも、長崎でキリスト者たちは、この世界に対して、全ての人類に対して、毎日祈ったのです。そのような尊い願いや祈り、希望が今も流れているのだと考えると、教会がこの世界に存在する意味の深みが増していくように感じます。

前半では、映画『竜とそばかすの姫』に登場する<U>という仮想世界について触れました。そこでは世界中の人々が「As」というアバターを使って交流し、人によってはつらい現実から逃げ出すための居場所となっていました。私にとって「戦争の時代に生きる」ということは、巻き込まれたら絶対に直視することができない現実です。お金や人脈など、何をもってしても逃げ出すことができない状況に巻き込まれたら、一体どうなってしまうのか想像もつきません。私にとっては「戦争」こそがやり直せない現実の象徴的存在であり、来世の新しい人生に期待したくなるほど、絶対的に君臨する絶望そのものでしかありません。

目の前にあるものは、変えようのないただの地獄だから。誰かを殺して死ぬか、誰かを殺さずに死ぬか、その程度しか手札というものがない世界。たぶん、生き残ることはできない。諦めたらきっと、本当に死を覚悟するしかない。

そういう時に、うたはいいと思う。
悲しい時は、うたえばいいのだと思う。

窮鼠猫を噛むように、うたうしかない。私はうたう、何かを、適当に。
ひとはいつか、絶対に死にます。その運命は決して変わることはありません。人類の致死率は100%であり、永遠に生きることはできないのです。だからこそ、自分が生きた証拠を遺したいという願いは、人類の中にある根源的な欲求として存在するのだと感じます。
そういう時に、うたはいい。
残るけれども、完全にはのこらない。それが、いい。
意味がないからいい。
意味がないから、他者を癒やす。それが、いい。

うたは呼吸なんだよ。会話よりも自然な、この世界との対話なんだよ。
メロディとか歌詞ではない。「ごめんね」と「ありがとう」なんだよ。
何もできなくてごめんね。でも、ありがとう。

私は、自分のうたを残したくない。録音したいとも思わないし、聞き直したいとも思いません。

でも、絶望したり、諦めたりしたら駄目。人間関係や周りの環境を全て捨ててリセットする人もいますが、それは限りある時間の中に存在する意味や価値を値切っていることになるのではないでしょうか。それは、物凄く勿体ない。人生や現実は、やり直せないからいいのです。責任をもって生きること。何のために息を吸って吐いているのかわからないぐらいに生きる、というのもいいと思います。

もし<U>の世界みたいに、地球上の全ての人間が一つのうたに共感し、涙を流し、同じ愛に震えるプラットフォームが今後できるとしたら、それは戦争のない世界を造り上げるような貢献が出来ないと存在価値がないように感じます。私たちは同じ人同士がコミュニケーションをとることができる人間であり、人種によって生きる価値に上下のある存在ではないのですから。個人の人格と尊厳と連帯によって生み出される新しい世界規模のコミュニティーは、「自称正義」といった個人的な主観を押し付けるものであってはいけないし、ただ漫然と暇つぶしのように日々を食いつぶすものであってもいけないと感じます。今まで、この地球上で一度も起こらなかったことが、実現されることがあるとすれば。それこそ、この世界が知るべき知の共有であり、救済への道なのかもしれません。

 


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