まことの宣教 ヨハネの福音書13章34〜35節


佐藤真理子

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

(ヨハネの福音書13章34〜35節)

 今回も前回に引き続き宣教がテーマです。前回の内容は信じる者は誰しもが主の御前に平等に宣教者であるということでした。今回は、本当の宣教とは一体どんなものだろうか、ということを書きたいと思います。このことにおいて重要なのは、宣教の動機がどこにあるのかということです。結論から書けば、宣教の動機は純粋に相手への愛であるべきです。それは神の家族としての愛です。愛のある家族はどんな状況でもどんなに遠くにいても相手を思いやりますが、束縛もしません。相手を不必要に不完全や不幸であると思い込むこともなく、その人の自由を認め、その人そのものが価値のある尊い存在であると認め敬愛することができます。それと同様の形で相手を思いやることが、キリスト者の生き方です。

 宣教の動機が組織への忠誠心や、自分が何か正しいことをしているという充足感などにあれば、それは必ず相手に伝わってしまいます。すると相手に「自分は何かに利用されている」という感覚を与え、つらい思いをさせてしまいます。人との関わりにおいて、その人への愛以外のプラスアルファがあっては、相手は悲しい気持ちになってしまいます。

 宣教する人の目に映るのは他でもない相手自身でなくてはなりません。

「宣教している自分は良いキリスト者、あるいは良い働き人だ」「この教会やこの集まりに人を誘うことによって、良き奉仕者となりたい」「この人の教会へ行かないという選択は間違っている」「可哀想なこの人を助ける充足感が得たい」「この奉仕をこの人にやってほしい」「家族が教会に来ないと後ろめたい」「この人が受洗すれば一安心だ」多くの場合このような思いは無意識に抱かれていますが、そのような気持ちが先行して人と関わると、それは必ず相手に伝わり失望感を与えます。
他でもない私自身が、焦りや自己満足から大切な人に対してそのような関わりをしてしまったことがあります。私自身が何度か上記のような関わりをされ、それによって傷つくことを知り、心の底から「一人一人が真の教会であり、キリストにあって生きることが真の礼拝だ」と気づくまで、他者を傷つけている自分自身の姿に気づきませんでした。

宣教=教会やキリスト教グループに誘うことではありません。もちろんそれが助けになることもありますが、誰かがそこのメンバーになることやその集まりを充実させることが宣教の目的ではありません。声をかけてきた人が、それが目的で自分に近づいて来たのだと知ったら、純粋にその人と友達になりたかった人は空しくなると思います。人との関わりの中で「箱」が先行すると、そのつながりは肝心な「人」より箱の優先順位が高いものとなり「ここに来るなら友達だけど、来ないならさようなら」「箱に合う人は欲しいけれど箱に合わないならあなたはいらない」という人を傷つけるものになります。

宣教の目的は他でもなく「神の御子キリストが私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかるほどに、深く深く神様に愛されていること」を人が知ることの一点です。そして、一番はっきりと相手にキリストの愛が伝わるのは、私たちが相手を愛することです。

キリストはいつも話している相手そのもの、その人そのものを見つめている方だったことが、聖書から分かります。イエス様は、誰とかかわるときも、その人を生まれる前から待ち望んでいた神の愛の視点で関わっています。キリストが宣教するとき、つまり誰かをご自分のもとに呼ぶときは、何の利害関係もなく、ただ愛によって行っているのです。キリストにとって私たち一人一人は神の家族です。家族なので、その関係性の背景にあるのはただ「愛」です。またその関係性は永遠に続くものです。

人と人との関係には、何の利害関係もあるべきではありません。関係性を築くには、ただ相手が大切だという思いだけが必要なのです。神が私たちを愛していなかったら、信じることができたでしょうか。愛することは最大の宣教なのです。それが無い宣教はあり得ません。純粋に相手を尊いと思い大切に接すること、それが聖書の示す人間の生き方です。
誰一人として同じ人間はいません。人にはそれぞれその人にしかない特別なものがあります。それを見つめ、それを尊ぶことは、人との関係性においてとても大切なことです。そして一人一人が持つ唯一無二の個性である賜物は他人が利用するためにあるのでなく、その人が輝くためにあるものです。

キリストと私たちを結ぶ糸は「愛」だけです。人と人を結ぶ糸は「愛」だけです。だから、私たちの大切な人とキリストを結びつける糸も「愛」だけなのです。ただ「愛」によって相手を大切にすること、それが、神が人に示した最も大切なことです。愛による関係が築かれているとき、それによって人は、私たちのことを「キリストの弟子」であると、またキリストとは愛の人なのだと知るのです。はじめに書いたみことばを最後にもう一度示したいと思います。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

(ヨハネの福音書13章34〜35節)

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

1 × 3 =