父とともに最後にいった長崎の思い出


中村恵里香(ライター)

私の旅好きは父が作ってくれたものなのかもしれません。子どもの頃身体が弱く、しょっちゅう熱を出す私を、長期の休みになると、広島の両親の実家に預けるために寝台列車に乗って連れて行ってくれました。帰りももちろん父のお迎えがありました。そんな父との旅の思い出はたくさんありますが、もっとも印象が強いのが、脳梗塞に倒れ、左半身麻痺の父を車いすに乗せ、元気な母といった遠藤周作記念館のオープニングです。

2000年3月頃だったと思うのですが、入院中の父のところへ出向き、「遠藤さんの文学館ができるそうで、そのオープニングに行く?」と聞いたところ、二つ返事で「行く」と力強い言葉がありました。車いすの父を連れての旅行は不安です。母と私だけではとても無理なので、私の連れ合いと校正者のKさんと、運転手をかってでてくれたデザイナーのHさんの総勢6人での旅となりました。

この旅は出だしから波瀾万丈です。飛行機に車いすで乗るのは初めての経験でした。本来予約していた席ではなく、一番前に座らされ、付添は一人だけに限定され、母が付き添ったのですが、なんとも心細げな父の様子が気になりました。案の定、母の話によると、離陸を始めると、「危ない、落ちる」と騒いだようです。

開館記念式典の様子(写真提供:筆者。以下同)

長崎空港に着いてからも一騒動ありました。レンタカーを借りるところまでタクシーで行かなければならないので、私たちは早くタクシーに乗りたいのですが、父は長崎に着いたとたん、足を踏ん張り、車いすを動かそうとしても動かさせてくれません。どうしたことかよくよく話を聞いてみると、神に祈りを捧げなくてはならないというのです。空港の真ん中でそんなことはできないと説得し、空港の隅で祈るという父を一人にしてあげました。

そんな状況ですからとにかく何をするにも一騒動です。1泊目は民宿に泊まったのですが、段差だらけの民宿で、父を運ぶのが大変でした。でも、民宿の料理は大満足で、ほんのちょっとお酒を飲んで、大満足そうにしている父の笑顔が忘れられません。

5月12日は、西海橋近くの貸別荘に泊まる予定でしたので、途中、今でいう道の駅のようなところでたくさんの魚や長崎のおいしそうな焼酎も買って、貸別荘で楽しい夜を過ごしました。

3日目、5月13日は、いよいよ遠藤周作文学館の開館記念イベントです。車で駐車場まで行くと、車はいっぱいで、会場受付もすごい人でした。なんとか受付にたどり着いた時はスコールのような雨で、受付を済ませると、会場案内の人が父と母を前に連れて行ってくれました。式典が始まると一転晴天となり、満員の会場を遠目に見ながら挨拶の声も聞こえず、なんとも残念でなりませんでした。

無事式典も終わり、その日は車で長崎市内泊でした。父もご機嫌で、なんとしても食べさせたかった長崎卓袱料理を堪能しました。

開館記念式典の様子

翌日は浦上天主堂で追悼ミサです。車いすの父は一番前で、一人にしておくのは心配なので、私が横に並びました。キリスト教芸術センターの皆さんが久しぶりに会う父を歓迎してくださいました。ミサは無事終わり、次は瀬戸内寂聴さんの講演なので、もう出ようというと、まだ遠藤さんと話をしているからだめだといいます。でも、瀬戸内さんの話が始まるよ。聞くというと、出るといいます。この旅ではいつもこんな調子で進んでいくので、さすがに5日目になるとなれたものです。

その後、長崎ちゃんぽんを堪能し、大浦天主堂、26聖人記念碑などを見学し、一路東京へ向かうわけですが、帰りの飛行機でも一騒動です。帰りは私の連れ合いが隣に座り、その後ろに私という形で座ったのですが、疲れて寝てくれればいいものをやけに元気な父は行きと同じように騒ぎました。母であればポカリとできたのですが、そうはいきません。でもさすがに騒ぎすぎてどうにもならない状態で我慢の限界を超えてしまったので、父を怒鳴りつけてしまいました。それが今でも連れ合いの心の傷になっているようなのですが、その後見舞いにいった私にいつも「彼はどうした」「いつ来る」といっていたので、逆に父にはいい思い出だったのかもしれません。

元気な時の父は祈る姿を見せたことがありませんでしたが、この旅行中の父は常に祈りたがっていました。なぜ祈りたいのかよくわかりませんが、父にとって長崎は祈りの地だったのかもしれません。

 


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