ユーラシア大陸 ロマン派の旅


鈴木安夫

あれから半世紀が経った。50年といえども、過ぎてしまえば一瞬である。私の旅は、その一瞬の中のまた一瞬だったが、その中にはたくさんの思い出が凝縮されて詰まっている。

勤めていた会社を辞め、大学の夜間部を中退して、1970年の9月に横浜を発った。香港、シンガポール経由で南インドのマドラス(現 チェンナイ)に着き、そこから自転車の旅が始まった。17000キロの行程のうち、途中何回かバスに乗ったので、実際に自転車で走ったのは14000キロぐらいである。インドを縦断してパキスタン、アフガニスタン、そしてイラン、イラク、シリア、レバノン、トルコと西アジア諸国を旅し、ギリシア、ユーゴスラビア、オーストリア、ドイツ、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスと進み、イギリスのロンドンが最終目的地だった。自転車はロンドンに置いて、帰りは再びスウェーデンに渡り、フィンランドからソ連をシベリア鉄道で通ってナホトカから横浜に帰ってきた。1972年2月だった。

南インドの路上にて。モンスーンが終わった後だったが、時々すごい雨に降られた

インドでの思い出は山のようにあるが、その中の一つ、私がもっとも幸せだった夢のような日のことを記したい。インド北部アグラでこれからタージ・マハルを訪ねようとする朝のことである。宿泊したレストハウスで知り合った若いインド紳士に旅の話をした。彼は、私の妻にも会ってくれと言った。新婚旅行で来ているという彼の部屋を訪ねると、奥さんはまだベッドの中にいた。目の覚めるような美しい人で、彼女は私に手を差し伸べて握手をしてくれた。インドで女性に触れたのはこのときが最初で最後である。私はこの日、この世界でもっとも美しいものに二つも触れることを許されたのである。この人とタージ・マハルと。

シャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズ・マハルに捧げたタージ・マハル。今思い返しても夢のような一日だった

パキスタンの街道沿い、ペシャワールの手前にアトックという小さな町がある。町の本体は丘の上だが、街道沿いには小さなチャイハナという茶店が並んでいる。すぐ裏手の崖を降りるとインダス川が流れている。茶店の一軒に宿をとり、すぐ崖を降りてインダス川のほとりに立った。はるかに続く白い砂利の河原の間を川筋が幾本も流れ、対岸は遠くて見えない。流れに手を突っ込むとヒマラヤを源流とする川の水は氷のように冷たかった。ラマダーン(断食月)期間中だったので夕食は日が沈んでから。店の前に並べたテーブルで、氷点下に凍てつく星空の下、街道を行くトラックの運転手と向かい合って食事をした。

パキスタンのペシャワールからアフガニスタンのジャラーラーバードまでカイバル峠を越えて自転車で130キロを一日で走り、夕刻に到着した。子どもに案内してもらった食堂の二階テラス席では皆が日没を告げるアザーン(モスクのミナレットから流れる、皆に祈りを誘う声)を待ち焦がれていた。下を見ると、通りは雑踏で賑わっている。トラックがビッビーと警笛を鳴らしながら雑踏に割り込んでくる。バスが到着すると降りた人たちが大声で呼びかい、物売りの声も重なって、通りはもう騒音のるつぼである。そこへ、今日一日の放牧を終えた羊の大群がきて道路を占拠する。ベエー、ベエーと騒音に拍車をかけ、羊の臭いがテラス席まで充満する。やがて、フッとすべての物音が消え、あたりを静寂が支配すると、遠くからアザーンの歌声がゆるく早く波のように響いてくる。これらすべてが渾然一体となり、今「交響詩アフガニスタンの旅」第一楽章が始まったのだと思った。

カイバル峠を走る蒸気自動車。イギリスから来たらしい

アフガニスタンでは2300年前にアレクサンダー大王が通った道を逆にたどり、イランに入った。イランでは巡礼の聖地マシュハドで古のバザールとイマーム・レザー廟を訪ねてから、北の道をとった。イラン北部で雪に足止めされた私は、やむなくバスに乗った。自転車はバスの屋根に載せた。乗客の中にチャドルという黒い服をまとった女性が4人いて、その女性たちがきつい目で私を睨むのである。怖かったがすでにバス代は払ってしまった後だ。沿石もガードレールもない、深い崖道をスリップしながら走るバスの中で、この旅で初めて死ぬかもしれないという恐怖を味わった。バスが崖に向かってツーっと滑っていくと乗客の悲鳴が上がり、それがすぐ「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」というお祈りの大合唱に変わるのだ。

氷点下10度以下という寒さの中、バスで一泊した翌朝、女性の一人が連れていた赤ん坊が激しく泣いている。お腹を空かしているのかと思ってコッヘルでコンデンスミルクを沸かしてカップに入れ、赤ん坊のところに持っていった。このことは忘れていたが、その翌日、私がバスを降りたとき、4人の女性が私をぐるりと取り囲んだのである。私はすくみ上がったが、彼女たちはそんな私に向かって話しかけてきたのである。前々日にあれほど険しかった目は、今はまるで母親のような優しい慈愛の眼に変わっていた。そして、私には彼女たちが、ペルシア語だったが、何を話したのか手に取るようにわかったのである。言葉は通じなくても、心と心が通じた瞬間だった。あれから50年経つが、今でもあの慈愛の眼が目に浮かぶ。私は、あの目に出会うためにこの旅をしたのだと、今思っている。しかし、あの優しい目が、今に至る私の苦しみの始まりであったとは。

ザグロス山中。標高2320m、ハマダーンまで110kmと道標にある。シャーベット状の雪で、自転車はなかなか先に進まなかった。二日後にハマダーン着

イランの西部、ザグロス山脈の中に紀元前8世紀から続くハマダーンという古都がある。ここでは数人の若者と知り合いになり、一緒に公衆浴場に行った。タダでいいと言うのでアカ擦りをしてもらったが、スパゲッティよりは太く、うどんよりはやや細いくらいのアカが全身から出て、衆人環視の中、とても恥ずかしい思いをした。浴場を出るとき、皆私に笑顔で小さく手を振って出ていく。アカのおかげですっかり親近感を持たれたのだ。

ちょうどクリスマス前夜だったのでミサに与るため、夜も更けていたがカトリック教会を探した。氷点下の気温の中、やみくもに教会を探していた私に付き添い、一緒に探してくれたイスラム教徒の青年がいた。私より薄着の青年は震えながら1時間以上も探してくれたのである。結局、彼の提案でタクシーを拾った。すると、あっという間にカトリック教会に着いてしまった。彼は帰りのタクシー代しか受け取らなかった。

凍え切っていた私をフィリップ・イサクという老齢の神父が迎えてくれ、暖かい部屋に案内してくださった。熱い紅茶を飲みながらいろいろなことを話した。ミサは翌朝とのことだった。イサク神父の温かいまなざしとあの青年が忘れられない。

イラン、ハマダーンのカトリック教会。1970年12月25日、クリスマスのミサが終わって、信者のみなさんが庭で歓談している

イラクに入って、首都バグダッドでは清瀬教会の沢田和夫神父に紹介されたローマ、ウルバノ大学の同級生3人のうちの一人、デリ大司教にお会いできた。私が旅のことや日本の教会のこと、沢田神父のことなどを話すと大司教はこうおっしゃった。「沢田神父はいつ司教になるのですか?」。これには困って返事に詰まった。私ごときがそのようなことに答えられるわけがない。沢田神父がトップクラスのトマス・アクィナス学者であり、何人かの神父たちの心の支えになっていることは、そばにいてよくわかっていた。しかし、清瀬教会の田舎司祭(失礼!しかし沢田神父は自ら田舎司祭であることを望んでいるように私には思えたのである)が果たして司教になれるものだろうか。私が困惑していると、大司教もすぐ理解して、そのあとは私を大司教館まで案内してくれたフランスの外交官との話になり、私との話はそこで終わりとなった。

バグダッドからダマスカスまでバスでシリア砂漠を横断し、レバノンのバールベックという観光名所で現地の観光ガイドに1ヶ月間日本語を教えたあと、シリアを経由してトルコに入国した。その翌日のことである。もうすぐアンタキヤ(アンティオキア)に着くという時に、私の自転車とすれ違った自動車がUターンして引き返してきた。降りてきた男性はものも言わずに自転車をトランクに入れ私を助手席に押し込むと走り出した。有無を言わせない、その強引さの理由はすぐ明らかになった。走っているこの自動車に向かって飛びかかってきた大きな犬がいたのである。よだれを垂らして、サイドミラーに嚙みついたまま離れない。その犬の目は狂気の目である。犬はしばらく車に引きずられてから離れていったが、もし私が単身自転車に乗っていて襲われたら防ぎようがない。私を安全なところで降ろした男性は何も言わずに手を振って走り去った。よほど急いでいたのだろう。もし、あの男性が事前に私の危険を察知しながら、忙しいからとそのまま通り過ぎていれば、私の人生は24歳で終わりだった。その後の50年は彼からの贈り物と言って過言ではない。名前もわからないこの男性には、今でも深く感謝している。

トルコ・アナトリア高原の路上にて。アナトリア高原は連日氷点下10度以下に冷え込み、水筒の水が凍りついて、喉が渇いているのに水が飲めなかった

アンタキヤの北部の都市アダナを出て雲の流れが早い空の下を走っていると、突然すぐ近くで蒸気機関車の警笛が響いた。すぐ線路を探して待っていると、イスタンブール行きの急行列車が来た。巨大な蒸気機関車に引かれて轟音とともに走りすぎて行った。私は子どもの頃からの鉄道ファンである。「うわあ、オリエント急行じゃないか」と思って矢も盾もたまらず近くに駅を探した。トルコ語でイェニジェ(Yenice)という名の駅があった。30分後に近くの駅まで行く列車が来るというので、切符を買って待っていると、大きな蒸気機関車に引かれた列車が来た。前二両が客車、その後ろに貨車がたくさん繋がれている。夜空に赤い火の粉を飛ばす蒸気機関車に引かれて、終着駅に着いたときは夜8時を過ぎていた。ウルクシュラの駅前は雪に埋もれ、真っ暗な商店街には誰ひとり歩いていない。宿の場所を聞こうと自転車を押しながらまた駅に取って返したが、駅にはすでに駅員の姿も客の姿もなかった。

トルコで乗った列車、山間部の駅で給水中。村の子どもたちが、機関車から出る石炭ガラ(まだ赤い火が残っている)を取りに集まっている

ギリシアではソクラテスの面影を偲びにアテネへ向かった。テッサロニキを過ぎて南へ向かい数日後に小さなリゾート地にさしかかった。リゾートホテルが立ち並ぶ町はシーズンオフで観光客は誰もいない。小さなホテルに投宿した翌朝、部屋のテラスに出て出発前の時間をくつろいでいた。すると、前夜ギリシア語と英語の通訳をしてくれた隣のホテルの女主人がテラス沿いにやってきてコーヒーとオレンジピールのお菓子を差し入れてくれた。しばらく話して彼女は去ったが、思いがけない好意に私の心はハートマークになってしまった。すると景色までロマンチックに見えるのである。テラスの前に広がる平原はオリーブの林と糸杉の数本が朝の光を斜めに浴び、そのあいだを肩に棒を担いだ農夫が歩いてゆく。それを見ていると、これは二千数百年間変わらぬ光景ではないかと思えてくるのだ。

余談になるが、このときの私は本気だった。アテネからの帰り道、またこの町(ギリシア語は正確に読めないが、たしかカメア・ヴルラ)に寄って、今度はこのホテルではなく隣のホテルに宿泊しようと決めた。もし、彼女が独り身だったら、求婚しようと考えたのだ。しかし、帰り道に思わぬ邪魔が入って、私はギリシア人になり損ねたのである。

ユーゴスラビアでは、娯楽のない人びとが夜、街の中をペアになってぐるぐる回るネックレス散歩に一人で加わった。オーストリアではウィーンにベートーヴェンの家を訪ね、ザルツブルクではアフガニスタンで友人になったヘルマンの家を訪ねた。西ドイツではロマンティック街道のローテンブルクでグリム童話の世界に浸り、リューベックではトーマス・マンの少年時代を偲んだ。ストックホルムでアルバイトをして帰りの旅費を稼ぎ、やっとの思いでロンドンに到着した。

1971年11月ロンドン、背景はビッグベン、相棒の自転車と

旅の最終コースはシベリア鉄道だった。その最初の夜に食堂車でウラルのおばさんと知り合い、彼女のコンパートメントで歌合戦をやった。私とおばさんとで交互に日本とロシアの歌を歌うのだ。歌うタネが尽きたら負け、私はあらゆる歌を思い出して歌った。8時頃に始まり、夜中の12時になっても決着がつかない。結局、私が、もう寝るからと言って部屋を出た時もロシア側の歌は続いていた。驚いたことにその車両の通路にはロシア人がぎっしりと詰めかけて一緒に歌っていたのだ。こんなことってあるのかと私は全身に感動の鳥肌が立ったのである。ここにはゴーゴリやドストエフスキーの小説に出てくるロシア人がまだ生きていると思った。

このような旅を続けて一年半、私はなんとか無事に帰ってこられた。こんな夢想家でも旅を続けることができたのは、ひとえに世界が平和だったおかげである。翻って考えると、半世紀後の今日こんな旅ができるだろうか。

アフガニスタンのトイレは砂漠である。モカルという村のチャイハナで亭主にトイレの場所を聞くと、彼は茶店の裏側に広がる砂漠を指さした。遠くの方で一人の男が砂漠の中にしゃがみこんでいるのが見えた。なるほどと思い、私も砂漠の中へ200メートルほど駆け出していって用をたしたのである。現在のアフガニスタンでこんなことをしたら即地雷の餌食になる。トイレに行くたびに命を失う。こんな馬鹿げた世の中に、どうしてなってしまったのだろう。何かが間違っているとしか思えないのだが。

最後に、この長い話に付き合って下さった皆様にある人の言葉を紹介したい。ザルツブルク郊外のアンテリンクという村で、ハンス・レントケという世界旅行の達人とお会いした時、「レントケさんにとって旅とは何だったのですか?」と聞いたのである。彼はTo see the world, to see many people, to see myself と答えてくれた。私はそれを「世界を自分の目で見て理解すること、多くの人に会うこと、自分自身と出会うこと」と解釈して、50年経った今でも自分が旅の途中にあると思い、この言葉を噛みしめている。

 

鈴木安夫
石巻市復興を考える市民の会 副代表、NPO法人シンプルライフ普及センター 理事、カトリック東京教区信徒。

 


ユーラシア大陸 ロマン派の旅” への1件のフィードバック

  1. この時期に、このような旅程、
    こんな旅をした日本人がいたことに、
    驚いています。
    今だと絶対できない旅ですね。
    イラン、ハマダーンのクリスマスミサ、
    大変素晴らしいと思いました!

    貴重な発信、ありがとうございました。

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