教育新時代:これからの子どもたちはなにを学ぶか(9)


大阪の「ある女子高校」の挑戦(2)

やまじ もとひろ

ここまで中学校、高校が取り組んでいる新しい英語教育のうち、英語能力の獲得について特徴的なメソッドを採用している学校を取り上げてきました。前回からは「長期留学校」に焦点を絞ってお伝えしています。

長期留学校は高校生活の一定期間(約1年間)を、英語圏の海外の学校で過ごすシステムで生徒の「英語運用能力」を伸ばしています。

長期留学校の嚆矢となったのは、大阪・摂津市にある薫英高校という女子校でした。

当時の薫英高校は大学進学実績が振るわず、大阪でも「下から3番目」と言われていた学校です。近づく「生徒急減期」を前に、「この学校、もうダメかも」と先生たちは手をこまねくしかありませんでした。しかし、ある施策が薫英高校の反攻を支えることになります。

そしてそれは、ひょんなきっかけから始まることとなりました。

 

カナダとの交流始まる

1986年、就任間もない田中・新校長がプライベートで計画していた夫人との海外旅行に相乗りして、英語科の引率教員1人と生徒代表6人がカナダへの研修旅行を実現させたのです。

期間は2週間。カナダの高校との交流も含んだ学校主催の海外研修旅行は、それまで大阪でも他に例がないものでした。

そして研修旅行から帰国した一団が持ち帰った「おみやげ」は、教職員を驚かせるものでした。交流相手のカナダの高校から「来年はこっちから薫英高校を訪問したい」との要望、それが大きなおみやげだったのです。

「これは大変なことになった」というのが先生たちの本音でしたが、すでに走り出したものは止めようもなく、翌1987年の夏休み、カナダへは薫英高校から11人の研修生徒を送り出し、一方、逆にカナダからは6人の生徒を受け入れたのです。

薫英高校からカナダに旅立つのは限られた生徒でしたが、やってきたカナダの友人は生徒全員に影響を与えました。

交流3年目の1989年には、カナダからの3人の生徒がじつに7カ月間、ホームステイをしながら大阪薫英高校の生徒と寝食をともにする、というところにまで両校の交歓は発展します。

生徒たちはこの間の取り組みを通して、学校に誇りを持ち始めていました。異なる文化や異なる容姿の外国人と交歓することの大切さを身をもって感じ始めてもいました。

「大阪で下から3番目」と揶揄され劣等感をいつも背負っていた生徒の姿は、そこにはもうありませんでした。

1988年には、心配された「生徒急減期」が始まっていましたが、薫英高校の進む道には、すでに道しるべが見えていました。

 

そうだ、ひと味違う英語科でいこう!

このころ、高校に普通科以外に「英語科」を新設する学校が、公立・私立を問わず、全国的に増えていました。これも「特進クラス」をつくるのと同様、「生徒急減期」を乗り切る策の1つでした。

学校の国際化が進んでいた薫英高校にも、当然その波は押し寄せてきました。英語科は女子に人気の学科でもあったのです。しかし、すでに英語科を打ち出した学校は、薫英高校よりもレベルが上の学校ばかり。これから「二番煎じ」の策では、生徒は集まりません。

そんなとき、薫英高校に英会話の講師として勤めていた米国籍の女性教師が、ふと漏らしたひと言「外国語をモノにするには留学が一番」を聞き逃さなかった先生がいました。それが山本という教頭先生でした。

「そうだ、留学だ、留学でいこう」。すでにカナダとの交流経験もあり生徒の抵抗感は低いに違いない。治安もよくて日本に理解のある国を探すことができれば可能性はある。

現在(2018年)の大阪薫英女学院外観 (CC)File:Osaka Kun-ei Senior High School.JPG【https://ja.wikipedia.org/wiki/】

留学先の結論は、日本とは地球の正反対だが、気候や食事が似ていて親日家が多い国、ニュージーランドでした。山本教頭は自ら現地視察を行い、確信します。「1年間、まるごと1クラス留学するコースをつくろう」、それが薫英高校に残された道だ。

翌1990年4月、薫英高校の普通科のなかに「1年間全員が留学する国際コース」が誕生します。

集まった新入生は39人。

「生徒急減期」を前に風前の灯だった薫英高校が、それに立ち向かう術として打ち出した策は、この39人に託されました。

次回は、薫英高校の挑戦について、「39人の国際コース」の奮闘をお伝えします。

[つづく]

やまじ もとひろ
教育関連書籍、進学情報誌などを発刊する出版社代表。
中学受験、高校受験の情報にくわしい。

 


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