FATAがやってきた6


あき(カトリック横浜教区信徒)

 今日はリードについて書いてみたい。以前書いたようにトレーナーから「リードは、自由に延びるものではなく、飼い主と一定の距離間でつながるものが好ましい」と教えてもらった。最初その意味がよくわからなかった。「なぜそれが大事?」「犬からしたら、自由に歩くことのできる伸縮性のあるリードの方がいいのではないか」と思った。散歩しているとそういう伸縮性のあるリードにつながれている大型犬もいた。

でもFATAと散歩して3年。今はトレーナーの言われたことが正しいことがわかる。リードは単に犬を縛るものではなかったのだ。

FATAには悪い癖がある。

大きな犬であろうと小さな犬であろうと、すれ違う犬と「遊びたい!!」じゃれようとして近づいてきたら「遊ぼう!」と姿勢を低くしてロックオンする。

向こうからくる犬が、大きな犬や大人の犬だと無視されて終わるが、小さな犬は互いにけん制し、吠え声・唸り声が響き合う。

FATAを知る一部の愛犬家はFATAのこの仕草を見て、わたしたちから離れて通り過ぎるか、わたしとFATAが通り過ぎるのを待つようになった。

「だめじゃん。FATA!」この癖は最近少し減ったが、やんちゃな男勝りのFATAの悪い癖である。

ところがFATAをドッグランに連れて行き、リードを外して自由にさせるとどうだろう。

今度は他の犬に追いかけられて、逃げまわる。疲れると、とうとうわたしの膝の上に飛び乗って一安心。犬たちから避難する。

日頃の散歩のときとでは行動が全然違った。リードのある時とない時。

実はリードはFATAを縛るものではなく、わたしとの絆をつないでいるものだった。

リードがあるからこそ安心した行動に出ることができる。

だからこそ自由に延びるリードではなく、一定の距離感を保つリードが重要だった。

ここでいつもの、わたしの黙想が始まる。

「神さまとわたし。FATAのようなつなぐリードはないが、見えない絆の糸がある」とわたしは考える。この絆の糸に長さの制限はありません。わたしは自由に自分の意志に従った行動をとることができる。

では神さまはわたしを解き放っているのだろうか。

黙想は続く。

この糸は、神さまからは絶対に切らない。

わたしが神さまとの絆を求めていたら、糸を感じて居たら、この糸は切れることはないだろう。

「神さまは絶対!絶対!わたしを見捨てはしない!」

そんな見えないけど力強い糸がつながっている。だからこそ、FATAのように安心して個性全開で行動することができる。

わたしはそう考えた。

神さまは黙ってわたしを見守ってくださる。いつでも「大丈夫だよ!頑張ってね。」と背中を押してくださる。

神さまはイエスキリストを通して、人の世界を生きていく人間という生物に、その生き方を教え、諭し、応援してくださる。

本当の自由を与えてくださる。

私にとって、そんな大事な絆の糸を感じた。

FATAとわたしの関係をつなぐリード。

そのリードにつながるFATAを見ながら、「大丈夫。安心して生きていこう!」と感じているわたしがいた。

今日も素晴らしい散歩だった。

 


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