伊藤淳(東京教区司祭)
2019年11月25日午後2時40分、東京ドームのバックスクリーン近くに設えられた祭壇前の司祭団席に陣取り、これから5時間近くトイレに行けない現実にひたすら狼狽えているうちに、突然背後から黄色い歓声が沸き上がった。フランシスコ教皇の登場である。他の司祭たちと一緒に立ち上がり爪先立って見晴るかしてみるものの、アリーナ席を埋め尽くす人の頭ばかりで何も見通せない。ただ、スタンド席にいる人々の持つ旗が殊更に激しく振られ、それがウェーブの如く移動していくことで、教皇を乗せた車の在り処がようやく知れるのみであった。
致し方なく正面を向くと、巨大スクリーンにはフランシスコ教皇の姿が大写しにされていた。オープンカーに笑顔で立ち乗りし、片手で手摺に摑まり、もう片方の手を左右に向かって満遍なく振り、時々停車しては子供にキスをする。「これってパレードのミッキーマウスと同じじゃん」と、ディズニーファンクラブ会員の友人が譬えたのも宜なる哉であった。
教皇が子供を抱き上げる様子がスクリーンに映し出されるとホームチームに送るような温かい歓声が増し、普通の大人が教皇と長く話し込んでいたりするとアウェー感たっぷりの静けさが漂うのを面白がって見ているうちに、ようやくパレードは終了。「さぁいよいよミサだ」と気持ちを切り替えるべく居住まいを正してみたりしたものの、会場の興奮が冷めやらぬままなこともあって、気も漫ろな開祭となった。
スクリーンに映し出された教皇の白い祭服に重なる白い字幕が読みにくかったり、会衆席にカメラが向けられ自分の姿が映っていることに気づいた人が手を振ったりVサインを出したりするのに見入ってしまったり、目の前に並んだホスチアの聖変化が心配になったり、東京ドーム出口の回転ドアの外に何十人という司祭が並んでお土産を渡すようにご聖体を授ける様子を訝しんだり、私個人としてはなんとも落ち着かないままに終わってしまった教皇ミサではあった。
ただ、そんな中、フランシスコ教皇の凄味を何度か目の当たりにする瞬間があった。
神の愛を確信させる温かい笑顔や、高齢ゆえに弱々しくも慈愛に満ちた声や、鋭く核心を突いた力強い説教の内容や、痛々しく足を引き摺りながらも歩みを止めない堅固な意志が、私の心のうちに感動や喜びや勇気を湧き上がらせてくれたのは事実である。しかし、そうした感情とはまったく別次元の、凄味としか言いようのないものを感じて思わず鳥肌が立ってしまったのは、フランシスコ教皇の沈黙の祈りの姿にである。
招きの言葉から回心の祈りや公式祈願に移るまでのあいだ、香炉を三回に分けて振るその合い間、奉納の供え物を受け取ったあと、会衆が聖体拝領しているあいだ、フランシスコ教皇は充分に、充分過ぎるほどに時間を取って、ひとりその場に佇み、目を伏せ、時に天を仰ぎ、黙って祈り続けていた。それは祭儀の円滑な流れを止めてしまっているようにさえ、私には思われた。東京ドーム全体に充満している歓喜や興奮とは明らかに異なる静謐がそこに、そこだけに存在していた。教皇の周りだけ、空気が、温度が、密度が、次元が、違っていた。教皇の周りだけ、何か目に見えない繭のようなものに包まれている感じがした。東京ドームで行われたミサの雰囲気を、フランシスコ教皇がどのように感じていたのかは分からない。ただ、いずれにせよ、教皇が5万人の会衆の中で、本当に、本気で、心の底から、ひとり祈っていたことだけは間違いないだろう。
「ミサなんだから祈るのは当たり前だ」と言われるかもしれない。しかし、心から祈るということは、それほど容易いことではないと私は思っている。祈りとは「神との対話」と定義できるが、あの熱気の中、悪く言えば落ち着かない中、形式的にではなく、言葉だけでもなく、心から本当に神と対話することは、それほど簡単ではないはずだ。
フランシスコ教皇は現実に即した単純明快な言動が注目され評価されているが、彼の言動が素晴らしいのは、祈っているから、つまり神と十分に打ち合わせをしているからに違いない。だから、揺らぎなく発言し、実行することができるのだ。
私ごときが言うと炎上必至だが、フランシスコ教皇は本物だと思う。本物とは、つまり、天の父の御旨を常に問うて祈り、天の父との交わりのうちにその御旨を実践し続けたイエスの生き方を、アシジの聖フランシスコ同様、フランシスコ教皇もまた完全に自分のものにしたいと心の底から願い、祈っているということである。
フランシスコ教皇の本物の祈りが醸し出す凄味に思わずたじろいでしまったものの、でも、なんだかちょっぴり嬉しくなっちゃっている自分が、確かにあの日、東京ドームにいた。