小島さやか(上智大学神学研究科神学専攻)
教皇フランシスコを一目見て感じたのは、「なつかしい」という感覚だった。久しく会っていなかった家族と再会して、嬉しい気持ちと懐かしい気持ちが沸き起こる感覚だ。「この人のために祈らなきゃ」、教皇フランシスコを目の前にして、そのような思いが自然と沸き起こった。教皇は舞台袖の入口からゆっくりと入場し、会場をぐるりと見渡した後、前方に座っている学生たちに目を留めた。教皇の視界の先には、いつも若者と子どもたちがいる。
「貧しい人々、弱い人々と共に歩む」というメッセージは、今回の上智大学講演会でも力強く語られた。講演会中、時おり原稿から目を離し、教皇は私たち若者を見つめた。そのまなざしは、慈しみと力強さに溢れていた。どれだけの人と出会い、どれだけの人の喜びや悲しみを目にしてきたのだろうか。現代社会から追いやられてしまった貧しい人々や弱い人々、その人たちのために、教皇フランシスコは教皇となられたのだと、実際に会って確信する。
私は今、上智大学神学研究科で神学を学んでいる。学部も上智大学神学部を卒業し、卒業後はカトリック学校で数年勤めていた。しかし、もう一度神学を学び直したいという思いで、大学院への入学を決めて現在に至る。教皇フランシスコと出会った今なら、私の行っている学びは、自分自身のためではなく、「誰かのため」であるのだと気づかされる。さらに具体的に言えば、「現代世界において貧しくされた人や隅に追いやられた人」のためである。神さまが一人ひとりの人間に与えてくれたタレントというプレゼントは、他者のために使ってこそ輝くのだと思う。
教皇の見つめる先には、いつも「誰か」がいる。それは大多数の「だれか」ではなく、名前を持った、この世に一人しかいない「誰か」だ。その教皇のまなざしは、私たち一人ひとりに向けられている。教皇の言葉で、いつまでも胸に響いて忘れられない言葉がある。それは、「何のために生きているのかではなく、誰のために生きているのか」という問いだ。この教皇からの問いに、私は人生を通して答えていきたい。