ミサはなかなか面白い 79 「主の晩餐」と「パンを裂くこと」


「主の晩餐」と「パンを裂くこと」

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答五郎 さて、ミサの「交わりの儀」のところを考える段階になって、その歴史を見ていく話になっているが、ついて来られているかな。

 

 

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問次郎 もちろんですよ。聞いていて、直接の主の晩餐の制定のところだけでなく、イエスが行っていた食事の記憶がずっとミサの中に保たれている感じがしてきました。

 

 

女の子_うきわ

美沙 イエスの動作、食べ物を手に取って、賛美か感謝の祈りをささげ、それからパンなり、杯なりを弟子たちに与えていくのですね。

 

 

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答五郎 ともあれ、イエスの復活を経験して、使徒たちによる宣教が始まっていくわけだけれど、そうして生まれる信者たちの共同体は少なくとも日曜日に集まって「これ」を行っていた……。

 

 

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問次郎 暗号めいた話ですね。では、使徒たちの時代の「それ」はどんなものだったでしょうか。

 

 

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答五郎 なかなか「それ」そのものを示してくれる資料というのはないのだけれど、パウロの手紙や使徒言行録には、たぶん「それ」を指していると思われる表現が出てくるよ。たとえば、1コリント書の11章にそれがある。いろいろなことがあるのだけれど、11章17節からは、信者が集まって礼拝集会をしようとする際に仲間割れがあるということを聞いて、戒めている。その際、仲間争いがあっては「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならない」と諭すのだ。その根拠として、主の晩餐の制定の様子を告げるのだよ(11・23-27)。

 

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問次郎 ああ、そういうわけだったのですね。でも、初期の教会の話で、仲間争いの話を聞かされるなんて、意外ですね。最初が必ずしもすばらしかったわけではないのか。

 

 

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答五郎 そこが面白いか。たしかにパウロの手紙を見ると、芳しくない状況があって、そのことをきっかけに、ほんとうのことは何かを教えるという文脈が多い気がする。ここも、主の晩餐の制定を思い起こさせるように語ったあと、コリントの人々への戒めになる。ここを頼む。

 

女の子_うきわ

美沙 「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(11・27-28)。礼拝集会で仲間争いがあり、他の人のことを顧みないような態度もあったようですね。とてもリアルですね。

 

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答五郎 けっこう細かい話になっていてわかりにくいこともあるけれど、ともかくパウロが「主の晩餐」ということばで示していたのは、主のパン、主の杯を受けて食べ飲みすることだ。そして、その意味は、主の体、主の血を受けることなのだと力説されているね。食事型の行為をしながら、その意味が何なのかわからないという人が多かったということのようだ。

 

女の子_うきわ

美沙 少し前の章が目に入ったのですが、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」(1コリント10・16)とありますね。ここも同じ趣旨ですよね。

 

 

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答五郎 よく見つけたね。ところでね、ここで「あずかる」と訳されているところは、原文のギリシア語は「交わり(コイノーニア)」という語を使っている。ラテン語だとコムニオさ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 そうなのですか! ミサの「交わりの儀」の源はここにあるのですね。

 

 

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答五郎 ここの表現にも、賛美や感謝の祈りをして、パンや杯を渡して、それから受けて食べ飲みするという姿が浮かぶだろう。外見では食事、でも根本的にはキリストとの交わりというわけだ。

 

 

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問次郎 「主の晩餐」というのは、晩餐型でありつつ「主の」というところに宗教的な意味というか、より深い意味があるということになるのですね。

 

 

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答五郎 そのようなものを儀式とか儀礼とか祭儀とか言うだろう。なので、主の晩餐は「会食儀礼」と言ってもよいのだけれど、前回も言ったとおり、厳密には、その食事儀礼を司る使徒が、かつての家長のように、パンを取って賛美か感謝の祈りをして、それを裂いて集まっている信者たち、自分でまたは奉仕者を通して渡して、信者はそれを受けて食べるというものだったはずだ。

 

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問次郎 あっ、5000人の人を満腹にさせた出来事の光景と似ていますね。

 

 

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答五郎 そうなのだよ。このような形の食事はいわば「供食」だろう。食べ物を提供して、それを受けるという行為だからね。だから「供食儀礼」といったほうがよい。ということは、自分の手元にある食べ物や飲み物を好きなように食べる会食とは質が異なる。ただ初期の礼拝集会は、それらが一緒にというか、一つの流れの中で行われていたようで、そこから発生する問題が、1コリント書11章の教えの背景にはあったらしいのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 今まで、聞いていると「パンを裂く」ということが繰り返し出てきて意味深に思えました。

 

 

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答五郎 そう、「パンを食べる」よりも圧倒的に「パンを裂く」だろう。この表現がもっと印象深く出てくるところが使徒言行録にはある。読んで見てもらおうか。2章41~42節を。

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3000人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。3000人とはすごいですね。

 

 

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答五郎 強調があるかもしれないけれど、使徒たちの宣教の実りがすぐにあったという流れで、信者たちの礼拝集会の模様が四つの語句で表現されている箇所だ。その中で、「パンを裂くこと」がある特有の行為として言われている感じだろう。これは、パウロのいう「主の晩餐」と同じだろうと考えられているのだ。今のミサでいえば「感謝の典礼」の始まりだね。

 

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問次郎 今、ずっと考えていたのですが、なぜ「パンを裂く」という言葉でこのことが記憶されているのかというと、やはりイエスがやったことの記憶が生き生きとこれによって保たれているからではないのでしょうか。

 

 

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答五郎 おおっ。今、問次郎君に後光が射したような気がする。「主の晩餐」の「主の」ということと近い響きが「パンを裂く」にはあるのかもしれないね。いずれにしても、初期の信者たちの集まりでは、使徒の教えを聞き、祈りをし、「パンを裂くこと」、つまりキリストを記念する供食儀礼も行い、また実際に親睦の食事をしていたらしい。ここでの「相互の交わり」という表現は、信者たちの親睦の食事を指していただろうといわれている。

 

女の子_うきわ

美沙 今の教会で、日曜日のミサのあと、お昼までさまざまな行事があって、その中で振る舞われる食事を連想してしまいます。

 

 

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答五郎 それでいいよ。礼拝集会はいろいろなことが行われていて今に至る。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」という四つの語句の中に、現代の教会の姿だって十分に映り込むといってもよい。その意味では2000年という時間も飛んでしまうのだ。

 

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問次郎 つまり、教会は「キリストの時」に生きているということでしょうか?

 

 

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答五郎 ええっ、なに!  また後光が射したよ。次回は初期の教父たちのことばを見ていこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

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