ルターと聖母マリア


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

1.そもそも、聖人崇敬?

私はプロテスタントの信徒なので、そもそも、マリア崇敬や聖人崇敬とは少し離れた領域で生きていました。ルーテル学院大学を卒業して、その後上智大学の神学部で学びましたが、私の在籍した学部時代には、聖人崇敬の話もマリア崇敬の話も、ほとんど出てきませんでした。そのために、カトリック教会の語る「聖人」や「聖母」とはかなり違う見解になるかもしれませんが、どうかそこはご容赦ください。

私の所属する日本福音ルーテル教会の「ルーテル」とは、マルチン・ルターのことです。ルターは聖人ではなく、むしろ破門された異端者であります。ですが、ルターが500年前に語った事は、現在の宗教改革500年以後に、カトリック教会でもかなり再評価・再検討されているように感じます。ルター自身は元々、修道者であり司祭でありました。そして、完全にカトリック教会の世界の中で育った人物です。ルターですら、修道者であった時は、聖人崇敬も聖遺骨や聖遺品への礼拝、聖地巡礼など、この時代の敬虔な生活にも浸透していたと言います。

ただ、当時も今も、聖人と呼ばれる一人ひとりに、病気の治癒や困難の克服、現世利益のような様々な能力が付与された一方で、イエス・キリストの絶対性がどんどん見失われていった事は確かです。神の代わりに働く、聖人たち。ルターは「聖書に記されてはいない」という根拠から指摘し、そのために、「聖書のみ」を強調しました。天上の聖人たちの功徳に与るのではなく、神との直接的な関係性を指摘した点において、ルターは大きな転換点を提言していました。つまり、私たちはただイエス・キリストおひとりによってのみ、救われると語っています。その点は、ルターの弁明として最初に書いておきます。

 

2. 聖性とは。

ルターは、マリア自身の聖なる現状や性質ではなく「神の顧み」に対する「彼女の応答」に意味があると語っています。マリアの讃歌も本来は、自分のような低みにいる人間に、神が心を留めてくださった事への溢れるほどの喜びと情熱からの言葉です。そして、「私の魂は主である神をあがめ」と語るように、それは、マリア自身の何かではなく、ただ神から受けた恩寵を賛美するものでした。

澤田昭夫『ルターはマリアを崇敬していたか?』(教文館 2001年)

ある意味、私は、ルターの語る罪の性質と、自分は罪人である事実を、否定する事はできません。たとえ、自分の中に善きものが少しでもあっても、私たちの中にある神の前で悪とされる、様々な要素を拭い去る事はできません。

自分は、聖なる者になる事は、できない。
でも、私たちは、誰でも、神によって、聖化される。

それは、神がただ一方的に与える純粋な賜物なのでしょう。時にそれを得るために、独身生活や、修道生活や、様々な慣習や制度などが在ったとしても。その「出来るだけ罪を回避する」ための何かは、時に神が与える恩恵を見えなくする可能性もあるかもしれない。

確かに、私たちは神の同労者かもしれない。ある意味、この世で信仰者として生きるのであれば、キリストのように生きるのであれば、私たちは誰もが殉教者であり、聖人であるのかもしれない。だけど、後世に「聖人」と呼ばれる以上に意味がある事は、全ての恩寵の源泉がただ神のみである事を日々地上での生活の中で感じる事ではないでしょうか。こんな罪人の私でも神は顧みてくれる。それが、聖化でもあり、救済の一つの側面だと感じます。

 

3.ルターとマリア。

ルターは、決して聖母マリアを軽んじたわけでも、完全に否定したわけでもありません。むしろ、ルターは最後まで聖母マリアを信じて愛していたと思われます。ただ、当時のマリア崇敬が行き過ぎだった可能性の方が高いのです。聖母マリアが全ての人間を堕罪から救済したら、イエス・キリストの役割が見えなくなってしまうのではないでしょうか。それでは、イエス・キリストの救済の絶対性が見えなくなります。そこが、ルターの言いたかった本当の部分だったと感じます。確かに、マリア論を神学的(?)に言えば、「受胎の瞬間の清め」とか、「生命付与の瞬間からの清め」とか、肉体が腐敗しないとか、被昇天とか、永遠の処女性とか、懐胎についての問答とか、様々な神学と伝承が存在しているのは事実でしょう。しかし、それ以上に、次の大きな問題が大部分の理由でした。

民衆の信心から生まれた、ルターの語る「悪弊」が幾つも当時は存在しました。マリアを聖三位一体の創造者として示すような像を作ったり、マリア像の前に跪く方がミサに与るよりも効果があると考えた人々がいました。マリア崇敬のための多くの聖堂や祭壇が建てられ、絵画が大量に作られました。また、聖人の遺物や聖像が売買されれるとともに、マリアの母乳と言われるものが保存され、尊ばれました。さらに、当時の典礼暦や司教の警告も無視して、聖母のミサのみをささげる者もあったという、当時の時代性を無視する事は、できなかったのでしょう。何よりも、そのように商人たちに利用され、聖母マリアの、本当に大事な部分が見えなくなっていったのです。それらへの批判が、一般的に言われる「ルターは聖母を否定した」の誤解の部分であるでしょう。むしろ、ルターは本当に聖母マリアを愛していたからこそ、このように指摘したようにも考えられます。

それは、マリアに対する神学的無知と誤解を克服するためのものであった。

確かに語調は強いですが、聖母マリアは独立した恩寵の源泉ではありません。「マリアはわれわれを罪と死から助け出す事はできない」と言う言葉と、その理由の「確かにマリアはこの御子を生んだが、彼女自信は御子でも救い主でもない」という指摘は、確かに正しいのでしょう。そして、500年前のルターが渇望した「純粋な福音」というものを、当時の人々ですら評価したという事実があります。それに、私もマリア崇敬も知識もの足りない、カトリックの「外の」人間だからこそ、このように強く言ってしまうのですが、だからこそ、私自身ももっと聖母マリアについて知りたい気持ちもあります。

 

4.信仰、謙遜、慎み。

では、ルターの考える聖母マリアとは、一体どんな存在だったのでしょうか。ルターはマリアをキリスト教的生活の模範としては崇敬しました。

ルターは1526年の説教で、次のように語っています。「彼女は、他の女たちがするように軽薄さや遊び半分から出かけるのではない。他の女たちが、まるで自分たちを売り物にしているかのようにあちこち走り回って頭や目をくるくるまわしたりはしない。」

また、1529年の説教では「彼女は貧しい女の形で……道草くわずに歩いてゆく。彼女は、女性の本性がそうつくったようなお喋り屋ではなく、自分の使命に全く自らを委ね、さわぎ屋や広告の旗のようにではなく、慎み深く道を急いだ」。

そして、1532年の説教の中では「彼女は、他の女たちがするように、お喋りをしながら街頭に立ち止まり外で二時間も立ち止まってあちらを見たり、こちらを見たりしない。……彼女は急いで、すなわち慎ましやかに山を越えたし、たいていの女たちがするようにきょろきょろしたり、行くかどかどで立ち止まりもしなかった」。

彼女は、ナザレにいた時は「ひとりの貧しい若い女であり、……何の注目も受けず、町でもっとも取るに足らぬ市民のひとりにされていたし、彼女が保っている大きな奇跡を、誰も感知しない。彼女はまたそれについて沈黙しており、……自らも町中で最も取るに足らないものと考えている。……彼女がいかに途中の宿屋で軽蔑されたか……よく考えてみよ。……この神の母は、冬のさ中に徒歩で、身重の体で、野を越えて旅をする。この時代に少しでも身分の高いという人の妻や娘たちは派手な身なりをするのが常であったのに」と、語っています。

私はこの、ルターが語るマリア論が、本当に好きです。それに、私自身このように生きる事ができたらいいと切に願います。それに、謙遜でありながら、後の世の世界の人々のために、赤子のイエスに奉仕しました。そして、その後も、取るに足らない小さな仕事もないがしろにしませんでした。そして、何よりの大きな奇跡は、彼女が大天使ガブリエルの言葉を「信じた」という事実です。

「その言葉は、人知では理解不能であった。だが、彼女は理性で吟味しなかった。その瞬間に聖霊が彼女を母とした」

聖母マリアの出現や、様々な伝承が世界中に残っているのも確かでしょう。それでも私は、ルターの語るマリアの霊性の中にこそ、強い何かを感じます。それは、彼女の強すぎる程の信仰です。ただ母性や優しさだけではなく、私は、彼女の持つ、人知を超えた、神への湧き上がるような情熱の中にこそ、本当に「私たちが知るべきこと」があるように感じます。

彼女は決して、神以上の恩寵の源泉になる事も、神以上の代替物になるつもりもないでしょうし、何よりも、謙遜で小さな身分だからこそ、きらびやかで天の女王のような立場には就きたくないと願っているようにも感じます。だけど、それが本当に、彼女らしさなのではないかと、私には感じられます。

私は決して、聖母マリアへの祈りも崇敬も、全く否定するわけではありません。実際に、彼女は、今でも私たち地上の民をまるで自分の子供であるかのように常に愛し、見守っていると思います。だけど、それ以上に、私たちが「神そのもの」を信じる事を切望しているように感じます。それは、彼女自身が、一生を過ごす中でそうであったように。

あなたはいずれ、その身において、神の奇跡を体験する。

私たちの人生は、一度きりで、せいぜい100年程度です。でも、その中でどれだけ神を信じる事ができるのでしょうか。私には、直接神の声が聞こえるわけでもないですし、見えるわけでもないです。だけど、信じたい。他者との交わりの中においても、時には困難の中においても。

しあわせなひと、神の恵みを受け、その喜びに、生きるひと。

 

【参考文献】
澤田昭夫『ルターはマリアを崇敬していたか?』(教文館 2001年)
金子晴勇『ルターの霊性思想』(教文館 2009年)

 

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