真理による自由――宗教改革501年に際して


佐藤真理子

やがて過ぎ去る目に見えるものを信じようとする人間に、目に見えないものこそ永遠の真理であることを示すために、神は聖書を人間に贈りました。約500年前、ルターの翻訳によって聖書があらゆる人の手に渡ったとき、瞬く間に多くの教派が生まれました。それはキリストを信じる人々に真理による自由が与えられた証でした。しかし、次第に聖書の真理を追究することが、対立や争いを生むようになりました。教会の分裂を危惧したエラスムスは、教理には本質的で不可欠なものと議論の余地のあるものの二種類があるとし、その本質的で不可欠なものを探ろうとしました。このことのうちにもまた、真理があったといえるでしょう。

 

カトリック学校で

私はプロテスタント教会に所属していますが、長らくカトリックの大学で勉強していました。そのときいつも悲しくなる時間がありました。カトリック教会の礼拝、ミサのなかの聖餐・すなわち聖体拝領の時間です。聖体拝領は教理の問題で原則カトリック教会の人間しか受けられません。ミサに出る機会は多くありましたが、カトリックの人が好きになっていくほどに、自分だけ取り残されるその時間が嫌いになりました。ある司祭の先生に私も聖体拝領が受けられないかきくと、先生は困りながら「教会で決まっていることだから、聖公会以外のプロテスタントの人はどうしても受けることができない」と答えました。しかし大学院を終えるときには私がプロテスタントの神学生となることを先生はとても喜んでくれました。それから何年かたって先日また、その先生の司式するミサに参加する機会がありました。するとなぜか、その先生は聖体と呼ばれるパンと杯を私にも渡しました。その瞬間、私ははじめてミサの中に自由を感じました。

 

プロテスタントの信徒として

私は大学院に進学し、聖書学で修論を書きましたが、そこでぶつかったもう一つの問題は、聖書観でした。私の指導教官の先生は自由主義的、つまり近代において聖書を教会から解放して解釈しようとする立場の方でした。聖書は誤りのない神の御言葉だと信じている私は混乱しました。次第に先生は聖書を信じていないのだと思い、私こそが正しいという思いに捕らわれるようになりました。その先生は私が大学院を出る前に亡くなりました。その告別式の弔辞で、私はその先生が死を目の前にして心から永遠のいのちに期待し、死んだあとも神様のうちに生きることができるよう祈り続けていたことを知りました。先生は私よりもずっと、聖書の示す永遠のいのちに期待していました。その先生は、リベラルな聖書学者である前に、一人の赦された罪人でした。そのことがわかったとき、私は自由を得ました。

 

真理の探究者として

神様がもたらす自由は、私を想像もしないほどの広い世界に連れ出しました。

しかし、神様の造った世界のうち、一粒の砂のような部分しか私が知らないこともまた、真理は教えてくれます。

巡礼旅行で訪れたアッシジ。カトリック大学時代の思い出。

キリスト者はだれしも聖書の真理を探究します。時にはそれが相反する二つの教理を生み出すことがあります。真理は律法ではないからです。また、これこそが真理だと思ってはじまったことのうちから、いつのまにか真理は消え、憎しみが生まれることがあります。人の罪は、真理を極めて危うくさせます。しかし、真理は複雑なものではありません。真理は単純です。真理は必ず愛のうちにあります。真理は神がもたらすものです。ヨハネは手紙の中で語っています。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」パウロは言います。「たとい山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」

 

私たちのこころをとらえるものは何か

真理は私たちに自由をもたらします。私たちの生きている場所に、現代の教会に、自由はあるでしょうか。もし何かに縛られているのなら、そこにあるのは真理ではなく、偽りです。自由が奪われた場所を支配するのは、聖書によれば、主イエス・キリストではなく、罪です。

教会の歴史において、人が真理のある側面を発見したとき、次第にその真理の一つの側面のみを礼拝するようになり、愛を忘れ、対立が起こることは繰り返し起こっています。悲しいことに、信仰覚醒運動が起こるとき、それを迫害するのはその前の信仰覚醒運動で教会を建てあげた人々でした。宗教改革者たち自身もカトリック教会に様々な迫害を受けましたが、ルターもまたアナバプテストを迫害しました。愛を忘れたときに人は真理から離れます。愛こそが人を真理へと導く力があります。これが愛こそが最高の戒めである所以(ゆえん)です。

また、この世のものは虚構にすぎなくとも、人の目には極めて魅力的に映ります。現実主義という名のもとに、この世の栄誉への欲によって、やがて崩れ去るものが人の目を覆い隠し、人から愛と真理を引き離します。真理こそが永遠で何よりも確かなものであるにもかかわらずです。教会、神学校、キリスト教世界においても、それはあらゆる場所で神様の介入を阻もうとします。ローマ書でパウロはこう語ります。「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対し、神の怒りは天から啓示されています。」神は全能の方であるので、支配できない場所などありません。イエス様は、ご自身が真理そのものであると言いました。

 

キリスト者にとって大切なこと

祈る時、聖書を読む時、礼拝する時、だれかに言葉をかける時、伝える時、考える時、どんなに小さい事でも何かを決定する時、組織を運営する時、研究する時、あらゆる場所で話し合うとき、どんなときでも、信仰の創始者であり、完成者である主イエス・キリストから目を離さないでいること。片時も、真理から目をそらさないでいること。あらゆる時代にキリスト者が求められるのは、キリスト御自身から離れずにいることではないでしょうか。キリスト教は人です。教派にかかわらず、真理も、道も、いのちも、すべてイエス・キリストの名のもとにあるとすること、これがキリスト教です。キリストこそが完ぺきな教理であり神学であるからです。そして教会はこの方の花嫁です。

イエスさまはご自身を信じた者に言われました。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうに私の弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネの福音書8章32節)

 

文・写真=佐藤真理子(さとう まりこ)
東洋福音教団信徒。鹿児島純心女子中学・高校を経て、上智大学神学部卒業。上智大学大学院神学研究科、東京基督教大学大学院修了。

 


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