日本の殉教者の血は実を結ばなかったのか――明治150年のカトリック教会の宣教政策を考える


土屋至(聖パウロ学園高校「宗教」担当講師)

最初に日本に来て横浜で宣教をはじめたジラール神父

10年ほど前プノンペンで行われたSIGNISアジア会議で、188人の殉教者が列福されたことや日本には3万人以上の殉教者がいるということを誇らしく報告したときに、フィリピンの神言会の神父さんからこんな質問を受けた。「日本にはそんなに殉教者がいたのにどうして今の日本の教会はそんなに小さいのか。殉教者の血は実らなかったのか。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結んだのではなかったのか?」と。

この質問に私たちは「それほどまでにキリスト教は江戸時代の迫害で根絶やしされたとしかいいようがない」と答えた気がするのだが、この質問は私たちにショックを与えた。考えてみれば確かにそうなのだ。明治期以降のカトリック教会の日本宣教政策がどこか間違っていたのではないかという深刻な反省が必要なのではないか。それもなく次から次へと列福・列聖の申請をしてくる日本のカトリック司教団にバチカンの高官はきっと不信感をもっているにちがいない。

信徒再発見の立役者プチジャン司教

つい5、6年前に日本再宣教150年の記念集会が横浜で開かれた。そしてその翌年だったか、イエズス会再宣教100周年記念集会が上智大学で行われたという。むむ! なんだ、この50年間の遅れは? そもそも大浦で信徒が再発見したときに、いち早く駆けつけるべきはイエズス会ではなかったのか。

聞くところによると、イエズス会は教皇から破門されていた期間が長く、それが解除になってから間もなかったので、日本に宣教師を送る余力はなく、またそれを希望してもバチカンからは認められなかったということだ。バチカンはキリシタン時代のイエズス会とフランシスコ会、ドミニコ会のみにくい足の引っ張り合いを知っていたのだろう。

出津で町おこしをしたド・ロ神父

結局、日本の再宣教はパリミッション(パリ外国宣教会)にゆだねられた。パリミッションは最初に横浜で宣教をはじめたジラール神父、信徒再発見の立役者プチジャン司教や出津で町おこしを行ったド・ロ神父、神山復生病院を創始したテストヴィド神父などのすぐれた宣教師を次々と送り込み、ローカルチャーチレベルではとても貢献したと思うのだが、日本の再宣教には少々荷が重く、バチカンの期待には十分に応えられなかったといえよう。

特に遅れたのは高等教育の分野であろう。プロテスタントは教派ごとにあちこちに大学をもうけ、宣教にこころがけた結果、当時の文学者、教育者、思想家、政治運動家の中に多くのクリスチャンを輩出したが、カトリックの場合、すぐれた外国人宣教師の名前はあげられても、日本人の知識人はまったくといっていいほどに見あたらない。こんなところにも明治期以降のカトリック教会の宣教政策の結果が現れていると思う。

神山復生病院をはじめたテストヴィド神父

お隣の韓国のカトリック教会にコンプレックスを持ってしまうのもムリはないとおもうのだが、どうだろうか?

 

参考:「横浜天主堂と日本再宣教」(日本再宣教150周年記念集会の時の中島昭子氏の講演)カトリック横浜司教区公式サイトより

http://www.yokohama.catholic.jp/rekishi_top/yb_rekishi_work.html

 

日本の殉教者の血は実を結ばなかったのか――明治150年のカトリック教会の宣教政策を考える” への1件のフィードバック

  1. 殉教された人たちが多いのに
    なぜ日本にカトリックは広がらないのか。
    ほんとうに。
    わたしはサレジオの日本に来られた神父さま方にいろいろ教えていただきました。
    宣教も大事なこと。当然否定できません。
    でもむしろ日常の中にある人の生き方に
    軸足を置く。
    それぞれが生き生きとした自分の生き方を
    見せる。
    それぞれが輝いていたら皆さん興味を持ちます。
    日本人の神父さまが信徒が。
    自分の生き方に輝きを持っていること。
    実直に素直に謙虚に。
    最後は神さまに委ねる生き方。
    時間はかかりますが
    皆が輝いて生きることが
    何よりも必要なのではないかと思うのです。

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