ミサ曲 2 「あわれみの賛歌 Kyrie」Ⅰ


齋藤克弘

 前回は「ミサ曲」全体の基本的なことについて書いてみました。今回からは「ミサ曲」それぞれの由来などについて書き進めていきたいと思います。

「ミサ曲」の中で最初に歌われるのが「あわれみの賛歌 Kyrie」です。前回も書いたように「あわれみの賛歌」の歌詞 Kyrie eleison Christe eleison はギリシャ語がそのまま歌詞として残りました。ということは「あわれみの賛歌」はどうやらギリシャ語を話す地域の教会が起源ではないかということが容易に推測できますね。事実その通りです。ローマを中心とするローマカトリック教会のことばは昔からラテン語だったと思われているかたがおられるかもしれませんが、実は、ローマに教会ができた頃は、ローマの教会の典礼や聖書の朗読のことばはギリシャ語でした。ちなみに使徒パウロがローマの教会への手紙を書いたのが紀元58年頃と言われていますので、ローマにはかなり早くから教会共同体ができていたようです。以後、しばらくの間ローマの教会はギリシャ語を用いていましたが、3世紀に入るとギリシャ語を理解できない人たちも多く教会共同体の中に加わったことも一因にあるからでしょうか、ローマの教会では典礼や聖書の朗読のことばをギリシャ語のまま残すのか、ラテン語に変えるかで大きな議論があったようです。最終的にはローマの教会はラテン語を使うことになりましたが、それまでもギリシャ語など地中海地方の教会でも残されていた「アーメン」「アレルヤ(ハレルヤ)」「ホザンナ」というヘブライ語の短い言葉はそのままヘブライ語で残されました。

さて、本題に戻りましょう。3世紀には式文もラテン語になったローマの教会ですが、簡単なしかし重要なヘブライ語の単語が残ったのと同様に、ギリシャ語の祈りのことばも残ることになります。5世紀の終わり(492年から496年)にローマ司教(教皇)としてゲラジウス1世が在位していた時に、東方、おそらくギリシャ教会からミサの冒頭に嘆願の祈りが導入されます。最初の嘆願の祈りは助祭(東方教会では輔祭)が唱え、会衆は最後に Kyrie eleison と応唱していたようです。ローマの教会では同じ嘆願の祈りである「信徒の祈り」(現代の共同祈願)が後の部分(説教の後)にあったことから、嘆願の祈りが重複しないように、この嘆願の祈りが省略されて、Kyrie eleison と Christe ekeison の祈りだけが唱えられるようになりました。この祈りは主キリストにあわれみを乞う祈りとして司式する司教が合図をするまで何回も繰り返されていましたが、8世紀の頃には 最初のちKyrie eleison 次のChriste ekeison 最後のKyrie eleison をそれぞれ3回繰り返して終わるようになります。
9世紀になるとこの3回ずつの唱え方を最初のKyrie は父である神への祈り、次は文字通りキリスト(子)への祈り、最後のKyrie は聖霊への祈りというように、三位一体の神への祈りと解釈されるようになり、それが信心書で広まっていきました。しかし、元来、初代教会からKyrie とはナザレのイエスに対して特にパウロが好んで用いた尊称でした。実はこのKyrie という尊称はローマ皇帝にだけ用いることが許されたもので、それをナザレのイエスに対する呼び方としたことは、ローマ皇帝に対する反逆とみなされ、初代教会時代の迫害の原因の一つとなったものだったのです。

さて、同じことばの繰り返しだけの「あわれみの賛歌」でしたが、グレゴリオ聖歌の時にもお話した「トロープス」という様式で作られるようになります。これもグレゴリオ聖歌のところでもお話ししたかもしれませんが、もともと「ミサ曲」は会衆の歌として歌われていましたが、北から南へと移動してきた人々が教会共同体へ加わり、あるいはキリスト教自体がアルプスよりも北へと広まっていくと、まったく異なったことばを話す人々にはラテン語を理解することはできず、「ミサ曲」は次第にラテン語を学ぶことができた修道者や教役者(聖職者)が歌うものとなっていきました。音楽的にも訓練を受けたこれらの人々にとって、同じことばの繰り返しでは満足できなかったことが「トロープス」を生み出す要因の一つになったのでしょう。詩を作ることにも曲を作ることにもつながった「トロープス」によって歌い方はどんどん複雑になっていきました。この頃になると聖歌は皆がこころを一つにして一緒に祈るものではなく、一部のエリートが神様だけに聞かせる歌になってしまったのです。今のわたしたちの常識から考えれば残念なことですが。

(典礼音楽研究家)

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