《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 24:はじめに「呼びかけ」があった


はじめに「呼びかけ」があった

 

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答五郎 ……このシリーズ、20回目まではミサの式の第1部「開祭」のことを考えた。そして、21回目からはミサの式の中の「ことばの典礼」について始めている。今回はその4回目。聖書を朗読する意味をここのところ、考え続けているよね。このテーマはなかなか尽きないんだよ。聖書に対しては教会の典礼の中で朗読することがむしろ、聖書に本来ふさわしいことで、当たり前のことではないかとまで前回は考えたね。

 

瑠太郎……はい、聖書という書物が置かれていた時代状況の変化など、いろいろ話が広がりました。

 

 

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答五郎……今回は、「朗読」するということのもっと根っこにあることを考えたいんだ。

 

 

 

聖子……根っこってどういうこと?

 

 

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答五郎……それはね、聖書に保たれていることばは、もともと人に向かっての呼びかけのことばだから、それは、読む、というか、声で発されるべきものだろうということなんだ。

 

 

聖子……答五郎さん、具体的にお願いします!

 

 

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答五郎……たとえば、ここに2017年7月9日にあたる年間第14主日(A年)の『聖書と典礼』がある。第1朗読(ゼカリヤ9・9-10)には、直接、神のことばという部分があるだろう。

 

 

瑠太郎……「〔主は言われる〕『娘シオンよ、大いに躍れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る』」(ゼカリヤ9・9)とありますね。

 

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答五郎……ここは、預言者ゼカリヤが得た託宣で、神のことばが彼をとおして、直接、民に向かって告げられるという文脈だ。「娘シオンよ」は「娘エルサレムよ」と同じ意味で、町に向かって告げているようなかたちで、ユダヤの民に向かって言われていることばになる。

 

瑠太郎……たしかに、預言者をとおして神のことばが民に告げられるところだと、教会で典礼の中で朗読して読まれるのはふさわしいと思います。神のことばの力強さが伝わってきます。

 

 

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答五郎……福音朗読(マタイ11・25-30)はどうだろう。今度は聖子さんに朗読してもらおうか。

 

 

 

聖子……ええっ、はい。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした……』」(マタイ11・25-26 )。

 

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答五郎……はい、ありがとう。そこまででいいだろう。

 

 

 

瑠太郎……ここは、イエスが父に祈っていることで、はっきり声を出して祈っているようなのですね。

 

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答五郎……それは、朗読してみると、ほんとうに今ここにイエスがいて父に向かって祈りのことばを発しているように聞こえるだろう。

 

瑠太郎……そして、その気持ちも伝わってきます。このような箇所だと、教会の典礼の中で聖書が朗読されるとき、キリストがいるということもわかりやすいですね。

 

 

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答五郎……そうだろう。たまたま、この日の聖書朗読は神が語る、キリストが語るということが、わかりやすいよね。ここでは、「娘シオンよ」とか「天地の主である父よ」というふうに、相手の名を呼ぶことばがあるから、「呼びかけ」であることがはっきりしているよね。

 

 

聖子……ミサの中で唱えられる「主の祈り」? あれも、「天におられるわたしたちの父よ」と始まるわね。ほかにも「いつくしみ深い神よ」とか「全能永遠の神よ」とか……祈りって、神に呼びかけることばなのね。

 

 

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答五郎……まず、それは基本だ。でも、そこにはもう一つ、前提があるのではないかと思う。第1朗読で読まれたように、神が、人に対して、民に対して、呼びかけて、何かを命じるということがある。いわばそれが聖書の「骨」ともいえるようなものなのだ。

 

 

聖子……たとえば、具体的にいうと。

 

 

 

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答五郎……そう来ると思った。旧約時代の指導者でモーセという人のことは知っているだろう。彼の召命の場面は、こんなふうに物語られているよ。出エジプト3章4節から。

 

瑠太郎……はい。「主は、モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼が、『はい』と答えると、神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。」(出エジプト3・4-6)

 

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答五郎……いろいろと気になるところがあるかもしれないが、ここはまさしく日本語でいう「召命」、つまりある使命のためにモーセに呼びかけるところ、いわば呼び出すところだ。旧約聖書はこんなふうにある人、ある民(イスラエルの民)を一つの使命に呼び出すという出来事が骨にあると思うのだ。聖書の神は人を呼び出す神だろう。ヨハネ福音書の最初に「はじめに言があった」とあるのだけれど、「はじめに『呼びかけ』があった」のではないかと思うほどだよ。

 

瑠太郎……それが、聖書朗読の根っこをなすとおっしゃるのですね。面白い観点かもしれません。聖書のことばのいろいろな姿のもとにそれがあるというのは。聖書通読に今、挑戦しているので、一つの観点として気にしてみることにします。

 

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答五郎  ぜひ、そうしてほしいな。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

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