《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 23:だれが語り、だれのために語るのか?


だれが語り、だれのために語るのか?

 

瑠太郎……典礼の聖書朗読をとおして神が語る、キリスト自身が語る、ということなのですが、だいぶ飛躍がある言い方なのではないでしょうか。

 

 

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答五郎……ほう……。うーん、飛躍か。もちろん、聖書全体のこと、それが典礼の中でキリスト教信者のために朗読されることの本質を総合的に言っている言葉だから、飛躍というか、少し高い次元、あるいは深い次元からの言い方だということはいえるかもしれない。

 

 

聖子……ちょっと、話が抽象的だわ。もっと具体的にならないかしら!

 

 

 

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答五郎……そうだね。そう思っていて、具体的に考える資料として、2017年7月の主日ミサで使う『聖書と典礼』をもってきたよ。たとえば、7月2日(年間第13主日A年)は、第1朗読が列王記上4章8-11、14-16a節。「ある日、エリシャはシュネムに行った」と始まるところだが。

 

 

瑠太郎……列王記は、旧約聖書の中でも歴史書という種類の書で、基本的には語り手が歴史を物語るかたちになっています。その中で直接神のことばが示されることもありますが、基本は歴史の叙述です。朗読されても、実際には、列王記の著者が語っていることを聴くということになりますが。

 

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答五郎……ほう……。たしかに歴史を語る書物というのは、旧約聖書でも大きな部分を占めているよね。でも、今、瑠太郎君が、思わず言ったように、そこにあるのは歴史を語る「語り」だ。その「語り」はだれのためなのだろう?

 

瑠太郎……旧約聖書は古代イスラエルの民というか、神との契約を受けた民、神の民のためのものです。歴史書は、神を信じることを歴史の出来事や人物の命運をとおして教えているといわれます。

 

 

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答五郎……ほう……。そこにいるのは、まず神の民、その中にいる語り手が民に向かって語っているという関係がそこには成立して、書物の根幹にあるのだね。

 

 

 

聖子……ある民族の、ある言語で書かれた物語や歴史というのは、どれもそうでしょ!

 

 

 

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答五郎……では、文字で書き残されるということの意味は?

 

 

 

聖子……その場限りの話に終わらず、たくさんの人に、また次の世代の子たちにも聞かせるためにとっておくということでしょう。それは聖書に限られることではないわ。

 

 

 

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答五郎……そうだね。文字で書き残されるということは、それだけ、その民にとっての価値が認められているということだね。文字で書いたとしても、それが焼かれたり、なくなったりすることもあるわけだから、大切に残すという努力もずいぶんあったことだろうね。

 

 

瑠太郎……そもそも、昔は、読み書きができるというのも限られた人々にしかできなかったということですから、その能力のある人たちは、ある民族の存亡にもかかわる重要な人たちだったはずです。

 

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答五郎……今、いみじくもいわれたように、読み書きができる人が少なかったのが、昔のというかつい近代までの普通の状態だったよね。そこにも、聖書の朗読のもつ意味のヒントがある。読み書きのできる人が限られていた社会やその民に向かっては、大切に書き残されてきた重要な教えも、いつも朗読して語って聞かせることが不可欠だったのだろう。

 

瑠太郎……たしかに、読み書き教育が浸透して、書物も安価に手に入り、一人ひとりが書物を手にして読むということは、近代、現代になってのことですね。印刷物、書物文化の時代というか。

 

 

 

聖子……最近は、パソコンやスマホやタブレットで読む人も多いけれど、その延長なのかしら。

 

 

 

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答五郎……ともかく、聖書は書とはいっても、実際には、読まれ、読み聞かせられ、生きた声で語られるというのが、民の生活の場での一般的な聖書の姿だったのではないかな。

 

 

 

聖子……そうすると、聖書朗読の意味を探るというのは、本末転倒だわね。

 

 

 

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答五郎……ははぁ、そうなんだよ。むしろ、聖書を独り文字で読むことのほうがかえって歴史的には新しいことだからね。聖書を独り文字で黙読する意味のほうを考えるべきだとも思うよ。

 

 

 

聖子……そうか。聖書は文字で読むことが当たり前と思っているから、ミサでも、みんな、朗読のときに『聖書と典礼』をばさばさと見ているのですね。

 

 

 

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答五郎……そうかもしれないね。実際に翻訳で難しいというところもあるとは思うけど。ただ全般的には、現代人の習性というべきなのかね。

 

瑠太郎……話を前に戻しますが、答五郎さんのお話の中で、聖書は民に向けての書、そのためにより普遍的なのは語りかけることだということでした。重要な内容なので文字として保たれているとしてもそれは、そのつど生きたことばで読み聞かせられ、告げられるべきものであるということは、ポイントになるかなと思いました。あまり意識したことがありませんでした。

 

 

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答五郎……そう、聖書を考えるときは「民」ということが大事なんだね。かえって、独り文字で黙読することの意味を、問わなくてはならないというのは、独り個人として、というところと、民・神の民というところをどう考えるかという問題でもある。少なくとも、ミサは、信者たちが集まっていて、まさしく「民」が現れているわけだから、聖書を朗読するのはむしろ当たり前なのだよ。

 

 

聖子……長く話してきて、結局、答えは「当たり前」なのね?!

 

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

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