『「神はそれが極めて良かったと見られた」:カトリック神学と環境問題』


教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ:ともに暮らす家を大切に』(2015年、邦訳2016年)によって、環境問題に関するキリスト教の考え方や取り組み方があらためて注目されている。カトリック神学の世界でこのテーマへの関心が盛り上がってきた約20年前の提言の書をこの機会に紹介しよう:

ドリュー・クリスチャンセン、ウォルター・グレイザー編
『「神はそれが極めて良かったと見られた」:カトリック神学と環境問題』'AND GOD SAW THAT IT WAS GOOD
Drew Christiansen,Walter Grazer,eds,“And God Saw That It Was Good”:Catholic Theology and Environment(Washington D.C.:United States Catholic Conference,1996,vii+354pp.)

本書は、21世紀には人間と自然界の環境的健康が大きな関心事となるという予想をもって、1991年、米国の司教団が発表した司牧教書『地を新たにする』がきっかけになっている。同教書は、神学者たちに、カトリックの伝統と環境の関係についての洞察を求め、それを深め、推進するよう呼びかけた。その要請にこたえてオレゴン州ポートランドにあるベネディクト会のマウント・エンジェル(Mount Angel)大修道院に集まった神学者たちの論文を集めたのが本書である(執筆者8名、うち男性5名、女性3名)。序論は冒頭に、1990年1月1日の「世界平和の日」に教皇ヨハネ・パウロ2世が寄せたメッセージ「環境の危機:共通の責任」の言葉を掲げている。「キリスト者は特に、創造された世界に対する責任、および自然界と創造主に対する義務がその信仰の本質的部分を占めていることを悟っている」。

環境問題に対してカトリック教会の関心が示されるようになったのは、この教皇メッセージからさらに10年前へとさかのぼる。この関心にとって根拠となるのが、第2ヴァティカン公会議の『現代世界憲章』(4)の「教会は、つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている」という言葉である。それでも、環境問題への実際的な取り組みには神学的基礎付けがなくてはならない。本書はその必要性を満たそうとするものである。「カトリック信者が信仰生活と環境への配慮を結びつけるのを助ける試みにおいて究極的に重要なのは、そこの神学的基礎を与えることである」と語られるとおりである。

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序論は、教皇の言葉に続いて、簡潔に、ヴァティカンの公式文書と米国司教団の文書における環境問題の取り上げ方を跡付け、そして米国司教団の環境計画の大要を説明する。「神が創造された世界への配慮は本質的に宗教の問題である。神は我々の宇宙の創造主である」――米国司教団の環境計画はこの確信を基礎としていることが言及される。

本論は、事実上、二つの部分に分かれている。第1部でポートランドの会合で発表された八つの論文が収録され、その付録として上述の教皇メッセージがある。第2部で、米国司教団の司牧教書。さらにオーストラリア司教団、ドミニカ共和国司教団、グアテマラ司教団、北イタリア司教団、フィリピン司教団の環境問題に関する文書、米国の司教区新聞の論説が収録されている。

第1部の八つの論文では、創造論、終末論、秘跡論、ベネディクト修道院の霊性伝統における自然に対する責任意識、カトリック社会教説の伝統を環境倫理へ発展させる可能性、共通善の概念と環境に対する責任、最後に個人の徳と環境への責任の問題が取り上げられている。つまり、前半は神学的テーマ、後半は倫理のテーマを扱っている。執筆者たちがカトリックの伝統を意識し、そこからインスピレーションを得ていることが一見して印象づけられる。特に倫理についての論文は、伝統的倫理原則や概念を、新しく現れてきた問題に対応するために広げようとしている様子が見受けられる。

カトリックの神学伝統には、自然に対する秘跡論的展望が生きており、それを環境問題にただちに適用させていくことができる。本書の編者たちは、このカトリック的環境神学を展開するにあたって教皇のメッセージとともに、次の三点が出発点になったと述べている。第一は、創造における神の計画であり、それによって、人間の違反にもかかわらずキリストの死と復活によって被造界の秩序が回復されたことである。第二は、被造界の秩序の保全に関する考え方であり、自然科学と技術の無差別な応用や自然資源の配慮を欠いた乱用、動植物の破壊や遺伝子操作を避けるという倫理的義務を課すことである。第三は、被造界の美的価値への配慮である。この側面は人間性を回復させる役割をもつからである。「神の前に住むことによって、我々人間は自分たちが創造された世界の一員であり、それから離れることなく、被造界の中にあってその管理者であることを体験し始めるのである。」

本書の最初の論文はクリフォード(Anne M. Clifford. 聖ヨゼフ修道女会)が書いた「神についての環境論的カトリック神学のための基礎」というものである。創世記の初めにある創造物語が人間の活動による環境破壊を増進させたとする批判に答えて、それが環境に対する責任ある態度を促進することを示し、創造論と贖罪論の間の隔絶は、イエスをそれらの間の中心に置くことによって解決できるとしている。第二の論文「環境論と終末論」においてホート(John F. Haught) は、終末論の中の、約束と未来に達成される事柄に対する希望の要素を取り上げている。宇宙を神の再生の約束の達成の場と捉え、それを人間の体験の中に取り入れて体の復活に結びつけ、終わりの日における宇宙の変貌との関係で環境問題に取り組むことを提案するものである。

次に「嵐の声:宇宙論とカトリック自然神学」という文学的な題のもとでトゥーラン(David Toolan. イエズス会)は、環境問題との関連でカトリック神学が近年の物理学的宇宙論との関係を取り戻すことを目指している。近年の非ニュートン的物理学とカトリック神学の秘跡的なものの見方には接点があると彼は考えている。続くアーヴィン(Kevin W. Irwin. ニューヨーク大司教区司祭で、典礼学・秘跡神学の専門家)は「被造界の秘跡性および典礼と秘跡における創造の役割」と、フェイス(Hugh Feiss. ベネディクト会司祭)のこれまた文学的表現の「からすを見守れ:環境への責任とベネディクト修道院の伝統」は、それぞれ環境の意識を培うために典礼と霊性が大きな役割を果たすことができると示唆する。

ヨハネ・パウロ2世は、社会回勅の一つの中で「人間的エコロジー」という表現を使って人々の貧困と劣悪な居住状況が彼らの人間としての尊厳を破壊するばかりでなく、同時に自然環境にも壊滅的打撃を与えることを指摘した。これをもとにヒンツェ(Christine Firer Hinze)は、「カトリック社会教説と環境倫理」で、社会教説の伝統と環境問題を結びつけ、社会正義と経済的正義の概念の拡張を試みている。編者の一人クリスチャンセン(Drew Christiansen. イエズス会司祭)は、「エコロジーと共通善:カトリック社会教説と環境的責任」において、伝統的な共通善の概念を消費財の使用の抑制による環境破壊と南北問題の解決のために適用し、さらに空気、水、大地のような共通の資源を他の生き物との共通の善として考える方向に広げることを提唱している。最後の論者ブレイク(Deborah D. Blake) は、「持続可能性の倫理に向けて:徳と環境」において、トマス・アクイナスの徳目論に寛容、愛、慈悲、謙遜、かかわりと責任を加えて、これらが実践される共同体は自己のためばかりでなく環境に対しても正義を実現できると説いている。

編者が認めているように、本書はカトリック思想が本格的に環境問題に取り組むための第一歩である。最後に米国司教団の司牧教書の一つの言葉を引用しよう。「現代の環境危機は回心への特別な呼びかけである。個人、団体、国民として、我々はこの地球を、子どもたち、そしてまだ生まれていない世代のために、救うべく回心を必要としているのである。」
(高柳俊一/英文学者)

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