古びたいえ


あき(カトリック横浜教区信徒)

わたしの住んでいるところは京浜工業地帯を支える工場の人たちが多く住んでいる地域です。こどもの頃、皆、朝早く家を出て働きに行きます。当時は土曜日も普通に仕事。父は帰って晩酌をするのが唯一の楽しみでした。近所付き合いも深く、醤油がなくなると借りにいったり、わたしがいたずらしていると、近所のおばさんに大声で怒られたりしていました。

そんな土地柄でしたが時代は変わり、皆、年をとって世代が変わってくると、古い家を壊して更地にして駐車場にしたり、既に別のところに家を構えているこどもたちは親の世代が他界すると、土地を売却したりして、見知らぬ人が新しい家を建てて住まわれるようになりました。全くの様変わり。

近所付き合いも薄くなりました。
互いに融通し合い、生きてきた文化も全くなくなりました。

わたしの父は宮城の出身です。皆さんも同じような光景をテレビで見たことがあったかもしれませんが、遠く田舎の山の麓の村から集団就職列車に乗って、はるばると、ある工場に就職しました。
大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦火の中を工場で働き終戦を迎えました。結婚し高度成長期に入ったころ、父は努力の末やっと家を持つことができました。
わたしが生まれる数年前のことです。
わたしは、この家で育ちました。

その後わたしも結婚し、こどもたちが生まれました。一時期、この家を離れて近所に住まいましたが、父の他界とともに家にもどり、妻はこの家で母の面倒を見ました。その間こどもたちは、この家で育ち大きくなっていきました。
こどもたちが独り立ちして、この家を離れると、この古びた家には妻と私だけが残りました。
その後、母の他界に代わるようにして一匹の犬が一緒に住むようになりました。

孫が生まれました。
長女は一時家に戻り、妻は孫の世話をするようになりました。家の中は走り回る孫の足音と笑い声が溢れました。

父は71歳で他界しましたが、一生懸命働いて家を建てました。考えてみれば、その家で4世代が生活し、笑顔の交換をしてきました。
家は本当に古くなりました。床もきしむ箇所が出てきました。家は築65年をゆうに超えています。
わたしも年を取りました。

最近思うんです。父は先に他界しましたが、その愛はこの古びた家に示されています。わたしのこどもの世代になって、この家がどうなるかはわたしにはわかりません。でもその愛は十分に体現できました。時代は変わり世代も変わります。生きていく環境もきっと変わっていくでしょう。しかし、「いえ」という場所は形が変わっても残っていくものと思います。

生前、厳格で厳しかった仏壇の上の父の遺影は笑うことはありません。
そんな父の愛に感謝したいと思います。

 


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