Happy Birthday, Jesus! ~我が家で祝うクリスマス in 2020~


Maria. M. A

11月、ヒンズー教の光のお祭りと呼ばれるDeepavali(ディーパバリ)が終わると、街は一気にクリスマス仕様へと様変わりする。シンガポール一番の繁華街であるオーチャードストリートでは、3キロに渡って、毎年テーマを変えてイルミネーションが設置される。ストリートに並ぶショッピングモールは、それぞれの建物の前で趣向を凝らし、競うように派手な飾り付けを行う。この時期、ストリートを歩いてはそれぞれのスポットでポーズをとり、写真を写す人たちの姿を多く見かける。

娘の通う幼稚園では、11月末に学年末を迎え、今は長い冬休みを過ごしている。例年、最終日は、園全体でクリスマスパーティが行われ、保護者のお父さんがサンタクロースに扮して小さなプレゼントを配っていた。今年はコロナの影響で、クラス毎にお祝いしたらしい。もちろんサンタクロースは来なかった。

幼稚園では、週に一度シスターが来て、Bible Storyという時間が設けられている。
娘はこのシスターが大好きで、時々、思い出したようにシスターの話を私に教えてくれる。
最後のクラスで、
“What do you do for Christmas?”(クリスマスのためにすることは何ですか?)
というシスターの問いに、
娘は“Wait”(待つこと) と答えた。
娘の言葉に、シスターは嬉しそうに“Yes, you’re right.”と言うと、ホワイトボードに“Wait”と書いた。
シスターの反応から、自分の答えが正しかったことを理解した娘は、何とも言えない誇らしい気持ちになったのだろう。だからこそ私に、その時のことを話してくれたのではないかと、娘の嬉しそうに話す姿を見て思った。サンタクロース、プレゼント、教会、ミサ、特別な食事、ケーキ……、クリスマスを通して彼女の体験したことが、いくつもある中で、『待つ』という言葉を選んだことに驚いたと同時に、待降節の意味を彼女なりに理解していることを感じた。

カレンダーが12月に変わる数日前、娘が突然『もうすぐ、12の月だから、クリスマスのカレンダーの用意をしないと!!』と、私を急かすように言った。クリスマスのカレンダーとはアドベントカレンダーのことで、日にちの感覚も曖昧な上に、長い冬休みを過ごす娘のために、クリスマスまで「待つ」という体験をして欲しいと思い、昨年私が用意したもののことだった。

アドベントカレンダーを準備した私に向かって、次に『キャンドルがいるの。4つ。ピンクが1つ、紫が3つでクリスマスまでに順番に火を点けるんだよ。』と言った。(ははーん、アドベントキャンドルのことだな)と思いつつ、どうやって用意しようかと悩んだ。どこで手に入るのか見当もつかず、ネットで探すとそれらしいものが見つかるが、何分、海外なので、写真通りのものが手に入るとは限らない。とりあえず、キャンドルだけでも手に入らないかと思ってIKEAに行ってみるが、思うようなものが無く、キャンドルとは別にリース部分の材料を探しに、市場の花屋に行ってみることにした。

花屋でリースを手に入れ、飾り用に赤い実のついた花と松ぼっくりを調達した。リースは生木で、鼻を近づけると木の良い香りがした。家に帰ると、早速娘と一緒にリースの上に買ってきた松ぼっくりと赤い実を並べた。リースはドアにかけるように底が平らになっていて、高さもあり、その上にキャンドルを置くのは不安定で難しく、家にあった大きめのキャンドルを1つリースの中心に置いた。リースを購入した段階で、キャンドル4本置くのは難しいのではないかと考えていた私は、娘に、ろうそくは大きいの1つでも良いかな?ときいていたが、娘はずっと『でも4本がいいの。4本じゃないとだめなの。』と繰り返していた。

テーブルの上に出来上がったものを置き、キャンドルに火を点けた。娘は『わぁー』と、思わず声を出し、キャンドルの炎を見つめたていたかと思うと、小さな声で“Let’s pray!”(お祈りしよう)と言った。娘と私は、テーブルに座り、一緒に主の祈りを唱えた。
その日以来、寝る前のお祈りの時間に、キャンドルに火を灯してお祈りを唱えている。娘は毎回、お祈りの後にろうそくの灯を吹き消すのを楽しみにしている。

娘は3歳からカトリックの幼稚園に通い始め、同じ頃から教会にも通い始めた。それ以降、自然と、神さまの話をするようになった。娘にも身近な言葉を選び、分かるようなシンプルな表現で神さまのメッセージを伝えることは、私にとっても神学で学んできたことに触れる良い機会となっていた。シスターとのやり取りで出てきた“Wait”という言葉。アドヴェントキャンドルを前に自然と出てきた“Let’s Pray”という言葉を聞いた時、娘の中に確かに存在する、神さまに対する、目には見えない、何かとても神聖なものに触れたような気がした。

シンガポールでは、コロナも落ち着き、11月頭から市中感染者数は一桁をキープしている。感染者が数人出ることがあっても、それは海外からの渡航者で、2週間の隔離期間中の人であることがほとんどである。外出時のマスク、追跡アプリの登録、建物やお店に入る毎のチェックイン、検温、人数制限など厳しいルールはあるものの、感染や医療崩壊の心配は無く過ごしている。

教会ではミサが再開されたが、1回のミサの収容人数を100人に限定し、自分の教会を一カ所選んでプロフィールを登録した上で、事前に予約しなければならない。週に一度きりと回数も制限されている。私と娘も登録はしたものの、週末の日中の時間となると、だいぶ前から予約しなければならず、まるで少ない椅子を取り合う椅子取りゲームのようなシステムに気が引けて、未だに教会に足を運べずにいる。

コロナウイルスの名前を聞くようになってから、今まで当たり前だったことが、いくつも出来なくなった。今年のクリスマスは、いつものように教会には行けないかも知れない。じゃあその代わりに、今の私たちに何が出来るだろうか?
娘の答えはいつも実にシンプルだ。

「おうちでJesusのBirthday Partyをしたら良いじゃない?」

そうだ。家族の誕生日をお祝いする時と同じように、お花とケーキとごちそうを用意しよう。きっと娘はイエスの為に椅子を用意し、バースデーソングを歌い、代わりにろうそくを吹き消すだろう。ろうそくを何本用意してと頼まれるのか気になるところではあるが、娘が主催する、我が家の“JesusのBirthday Party”が一体どんな風になるのか、今から楽しみにしている。

(カトリック信徒、日本出身、シンガポール在住)

 


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