あき(カトリック横浜教区信徒)
寄稿を思いついて考えてみたら、受洗してから早や27年になります。 わたしの受洗のきっかけは仕事の先輩からの理不尽な扱いでした。気に食わないと叱られ、会社で靴を投げつけられたりしました。先輩を恨み、彼が建てた新居の塀に「落書きをしてやろう」と考えていたころ、たまたまとある教会に立ち寄った時、御聖堂のある二階にあがる階段のところで、にこやかに男性が「いらっしゃい。どうぞ。」と声をかけてくれたのです。
私にとってその声は神さまが呼んでくれたもののように感じました。
実はわたしは子供のころから理不尽なことが大嫌い。それが誰から受けたことであろうと仕打ちに対して徹底的に戦う嫌な性格でした。腕力では勝てませんから理屈で攻め立て徹底的に叩き潰しました。そんな性格を後で自分でもつらくなり「鬼がでてきた」と諫めていたのですが、いつしか神父さまたちの穏やかな顔を見るにつけ、わたしは「優しい人になりたい。」と思うようになりました。
「やさしさって何だろう」単に相手の言うことに従うのがやさしさではありません。単に自分が良いと思うことを相手に押し付けるのがやさしさではありません。自分がやさしく話をしているつもりでも相手の心に届かなければ、それは本当のやさしさではありません。「やさしさって何だろう」気づいたことは、やさしさは自分一人では生まれないということ。相手のことを考え、相手の立場・性格・環境を理解しないと本当のやさしさは生まれません。時には相手と距離を置くことがやさしいことにつながることもあります。相手のことを考えていればこその距離です。時には「違う」と思っていても相手の主張をよく聞くこともやさしさの現れ。
そんなことを考えながら生活していくうちに少しづつ鬼は去っていきました。
しかし鬼もさるものひっかくもの。自分が正しいと無意識に慢心になっているとき。自分の心が弱っていて、余裕がなくなってきたとき。心の隙を狙って攻めてきます。そんな時に思い出すのは神父さまたちの笑顔。先日来日されたフランシスコ教皇の笑顔です。いつでも「大丈夫。大丈夫」と言っているようです。
「やさしさって何だろう」
それは人の絆から生まれるもの。
相手を考える力。
こだわらず、卑屈にならず、相手と気軽に接するからこそ、相手の心に届くやさしさが生まれる。そんな人間になりたい。
私にとって一生をかけての命題。
「優しさって何だろう」
鬼を諫めて優しい人間になりたいものです。わたしは普通の信徒で特に神父さまのように神さまからの召命をいただいたわけではありませんが、階段で神さまからの声で歩んだこの道。
私にとっての召命は「やさしさって何だろう」と一生をかけて考えること。