「谷川列車」の思い出


古谷 章

半世紀以上にわたって山登りを趣味として続けてきたが、家から山に行くまでのアプローチの問題について思い出してみたい。

今は山に行くのは車で行くことがほとんどだが、1970年代から80年代初めころまでは「山登りに行く」ということは「前夜発の夜行列車に乗って行く」ことだった。当時の新幹線は東海道線だけで、日本アルプスをはじめ東北や上信越方面の山に登るためには多くの夜行列車が走っていた。また今のような高速道路網が整備されていなかったし、そもそも車を持っていることが稀有なことであり、私自身も車を持っていなかったので、出かけるには鉄道に頼るしかなかったのだ。

したがって夜行列車は登山者で混みあった。中でも壮絶と言えるのが年末年始やゴールデンウイーク、それにお盆休みの時の中央線の夜行急行「アルプス号」だ。北アルプスを目指す登山者が集中し、23時前後の発車だが夕方には長蛇の列になった。並んだ順に駅員からワッペンが配られたので「ワッペン列車」と呼ばれた。

「アルプス号」だけでなく東北を目指す夜行急行などにもずいぶんと乗ったが、最も多く乗ったのが近くて手ごろな谷川岳に行くときの上越線の通称「谷川列車」だ。「谷川列車」とは22時13分(のちに11分)に上野駅を出て登山口となる土合駅に明け方の3時ころに到着する長岡行きの鈍行電車のことだ。岩登りをするために時には毎週のように乗って谷川岳を目指した。当時は週休二日制ではなかったので土曜日の夜になると熊谷あたりまで帰る通勤客だけでなく多くの登山者で車内はあふれかえった。

お互いに声を掛け合うことはないが「先週も見かけたなぁ」と思う者も少なくなかった。また上野駅を発車間際まで、混雑をかき分けながら段ボール箱に入れたアイスクリームを売り歩く「闇営業」のオジサンもいるなどちょっとした祝祭気分でもあった。

この列車は高崎で1時間近く停車したので、上野を22時55分に出る高崎止まりの列車に乗れば高崎で追いつくことができた。しかし高崎で乗り込んでも車内の床には新聞紙を敷くなどした先客がところ狭しと寝込んでいて、まさに足の踏み場もない状態だった。

土合駅の下り線ホームは上越国境の地中深い清水トンネルの中にあるので、いざ到着すると改札口まで数百段の階段を登らなくてはならない。そこを半ば駆けあがって改札口を通り、外に出てからも速足で谷川岳の登山口を目指した。

当時は岩登りが盛んで、多くの登山者は岩壁を登るルートを目指していた。その登り始める場所である「取り付き地点」に先に着いたパーティーから順番に適切な間隔をあけて登るという暗黙の了解があったので、そこまでの先着争いがあったのだ。皆が順調に登れば問題はないのだが、中には遅い(上手ではない)パーティーがいると途中で1時間以上待たされたり、取り付き地点から登り始めるのが昼頃になってしまうこともあった。

土合駅

谷川岳にはたくさんの岩登りのルートがあり、その中でも人気のルートにはいくつものパーティーが押し寄せた。しか

し、その人数はあの列車から一斉に下車した数百人の登山者のことを考えるとせいぜい百人程度だったろうか。多くはロープウェイを使って登頂するハイカーだったのかと思われる。

岩登りを終えて下山した後は土合駅前か、そこからバスに乗って水上駅まで行き、そこの食堂で祝杯を挙げるのが常だった。車で行くようになった今ではとてもできないことだ。

この夜行列車は上越新幹線が開通したのちに廃止になり、しかも今では水上~越後湯沢間の在来線定期列車は日中に数本だけというありさまになってしまっている。

以上、谷川岳の岩登りにまつわる鉄道の思い出だが、単にノスタルジーではなく、一つの課題を指摘しておきたい。

高速道路網が整備されたことを否定するものではないし、新幹線の速さの恩恵にあずかっていること事実だ。しかし、鉄道本来の利便性を失ってしまったのではないかということだ。さらに言えばその鉄道に連絡するバス網も貧弱になってしまったことも看過できない。大げさな言い方かもしれないが、基本的人権の一つである「移動権」が公共交通のいびつな「発達」によって失われてしまったのではないかと思うのだ。

 


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