宗教的渇望に気づかせる文学の力――遠藤周作、芥川龍之介、夏目漱石に触れて


山根息吹(東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程)

人格形成における文学の重要性について主張するためには、文学が宗教や教育に対して持つ関係を問題にしなくてはならないと思う。というのも、一見両者は相容れないものであるようにも、考えられ得るからである。つまり、人間のありのままの姿を描く文学は多くの場合、宗教や道徳とは無関係に、時にはそれらに抗して営まれて来なかっただろうか。そうであるならば、文学が「人格の完成」を目指す「教育」においてなくてはならないものであると主張する根拠は、どこに見出されるのであろうか。

文学を軽視する社会的風潮に対して、人格形成における文学の力を訴えていくためには、おそらく漠然とではあっても少なからぬ人が抱いているこの問いに対して誠実に応えていくことが必要であると考える。

そこでまず、そもそも文学をめぐるこの問題を真剣に考えた一番の当事者は、キリスト教作家自身であるという点について、遠藤周作の場合を例に挙げて考えていきたい。遠藤は、「自分が描いた人間の悪の世界が、あるいは読者の魂を穢さないかという不安」に苦悩しつつも、作家として人間存在を全体として凝視する責任に従事しなくてはならないカトリック作家の葛藤について、作家になる以前から指摘していた(「カトリック作家の問題」)。そして、作家を志しはじめた頃の日記には、人間の「無限の暗黒」の中に「ぼくが段々ひきずりこまれていく時――ぼくは一枚の古い枯葉のように暗淵の中でねむるか――あるいは一条の荘厳な恩寵のひかりを発見するかにかかっている」(『作家の日記』)という覚悟を記している。実際に遠藤は、戦時下における人間の悪を描く「白い人」や『海と毒薬』によって文壇に入っていくわけであるが、そのような葛藤の果てに、人間という「暗淵」の底において、次のような「恩寵のひかり」を「発見する」に至る。

「人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、素直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。(中略)

だから人間の続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ」

(『キリストの誕生』)

このように遠藤は、エゴイズムや欲望も含めた人間心理を凝視し続けた最後に、心の一番深いところに「永遠の同伴者」を求める渇望を見出す。そして、その渇望の領域を遠藤は「基督の眼がそれをみている内部領域」と呼び、自分の描く主人公たちに注がれる基督の「眼差し」を感じ取ることこそが、小説家として使命であると考えるまでに至るのである(「私の小説」)。

芥川龍之介

それゆえに、このような葛藤を経て生み出された文学は、その読書体験を通して、他者のエゴイズムを表面的に裁くのではなく、その中にすら同伴者に対する渇望を汲みとる共感力や想像力、そして他者の孤独に注がれる基督の「眼差し」を感じ取る宗教的感受性を育む力を持つのである。これこそが、キリスト教的人格教育において伝えられなくてはならない価値ではないだろうか。

その上で、「人間の続く限り、永遠の同伴者が求められる」のであれば、キリスト教徒ではない作家たちにおいても宗教的渇望の声を聴き取ることができるのではないだろうか。というのも、作家たちは、「正直、素直におのれの内面と向きあ」い続け、しかもそれを赤裸々に言語化して私たちに遺してくれているのだから。

そこで、駆け足にはなってしまうが、宗教的渇望という視点から近代日本文学を読むことができる点を示すために、その代表的作家である芥川龍之介と夏目漱石を取り上げてみたい。

「我々はエマオの旅びとたちのように我々の心を燃え上がらせるクリストを求めずにはいられないのであろう」

これは芥川龍之介の絶筆「続西方の人」を締めくくる最後の一文である。実に芥川はこの一行を書き終えてから、聖書を枕元に遺し睡眠薬を致死量飲んで眠りについた。だからむしろ、神経衰弱を病む精神的限界状態のなかで芥川は、この一行に至るキリスト伝を書き上げるために、命をつなぎ続けていたと言った方がよりよいのではないかとすら考えられる。

「西方の人」において芥川の描くイエス理解が思想的次元で限界を示すとしても、今日に至るまで多くの読者が、芥川の宗教的渇望によって魂を揺さぶられ、人間の実存的深みにおける宗教的世界へと導かれてきたことは、否定しようのない確かな事実であろう。

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」

夏目漱石が、他者の心から切り離されてしまった人間の心を「牢屋」のように感じる孤独のなかで、神経衰弱に苦しむ近代知識人の一郎(『行人』)に託した絶叫の言葉である。この一郎や『門』の主人公のように、漱石は宗派としての宗教から救いを見出すことはできなかったのであるが、孤独な自分にも孤独な他者にも等しく注がれる「神の眼」という視点に心を開いていくことで、近代的自我を相対化し、他者と出会う地平を拓こうとする。漱石は、晩年の自伝的小説『道草』で、金をせがみに来る「強欲な」養父島田を嫌悪する主人公健三に突如「神の眼」という垂直の視点が意識される瞬間を次のように描いている。

「彼は神という言葉が嫌であった。然しその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。そうして、若しその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この強欲な老人の一生と大した変りはないかも知れないという気が強くした」

実にこのような「神の眼」という垂直軸を意識しながら、傷つけ合い誤解し合った他者との関係をもう一度見つめ直すということが『道草』の中心的主題である。それは、回想的文体のなかで、他者を求めながらもすれ違う孤独な登場人物の各人が、他者の心を映しとれなくする自分のエゴイズムや過ちには「気が付かなかった」という視点の歪みの問題が繰りかえし何度も語られている点からも読みとることができるのである。

以上のように、近代日本文学を代表する作家たちと魂の次元において出会う文学体験は、人間が「正直、素直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず」「永遠の同伴者」を「求めている」という人間の宗教的渇望に気づかせてくれるのであり、これこそが人格形成において重要な文学の力であるに違いない。

 

【参考文献】
・山根道公『遠藤周作 その人生と『沈黙』の真実』、朝文社、2005年。
・山根道公「芥川龍之介の宗教的渇望とドストエフキー体験―東方キリスト教に触れて」、『風(プネウマ)』107号収録、風編集室、2019年。
・佐藤泰正『文学の力とは何か 漱石・透谷・賢治ほかにふれつつ』、翰林書房、2015年。
・山根息吹「『井上洋治全詩集―イエスの見た青空が見たい』における〈視点〉と自然―夏目漱石と響きあう宗教性に触れて」、『風(プネウマ)』106号収録、風編集室、2019年。

 


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