伊藤淳
中学や高校で生徒さんたちに話す機会が時々ありますが、そこでよくこんな質問をします。
「クラスにどうしても気が合わない人がいる とします。ある日、忘れ物でも取りに誰もいないはずの教室に戻ったところが、その人がいて、苦しそうにうずくまっていたら、あなたはどうしますか? 好きじゃない子だからといってそのまま立ち去りますか? 『どうしたの? 大丈夫?』って声かけませんか? 保健室に連れて行ってあげませんか? 先生を呼んで来ませんか?」
みんな頷いてくれます。
当然です。まっとうな人間なら、好きか嫌いかにかかわらず、なんとかしようとするもんです。しなくちゃいけないんです。人として当たり前のこと、それが大切にすること、愛するということなんです。
好きになれない人、どうしても許せない相手でも、それでも大切にする。神様から等しく愛され、大切にされている人間同士なのですから、お互いに大切にしあわないなら、神様に失礼、申し訳ないってもんです。
キリスト教は愛の宗教だといいます。隣人を愛せとか、敵を愛せとか、確かにイエスも言っています。
そうすると、「敵を愛するなんて不可能だ!」という反応が返ってきそうです。キリスト信者の中にも「あの人だけは許せない、愛するなんて無理!」なんて言ってる人が(けっこう)います。きっとひどいことされたんでしょうね。
理想と現実の違いと言ってしまえばそれまでですが、問題は「愛」という言葉にあるのではないかと考えます。
現代において、「愛」という言葉は恋愛のイメージに引っ張られていて、「好き」とほとんど同義語のように使われています。「愛してます」は「好きです」という意味、「愛するなんて無理!」というのは「好きになるなんて無理!」という意味でしょう。
しかし、イエスの言う「愛」は、「好き」の意味ではないのです。
「愛」は、新約聖書の原語であるギリシア語で「アガペー」という言葉の和訳ですが、明治の開国以前は「御大切」と訳されていました。イエスの言う「愛」の本来の意味がよく分かる訳です。愛するとは大切にすることであって、好きになることとは次元が違うのです。 (カトリック司祭)